春待つや万葉、古今、新古今

久保万こと久保田万太郎の、何とも不思議な句である。
句意のわかるような、わからないような、いや、無理にわからなくとも、雰囲気は何となく伝わって来るから不思議なのだ。

十七音の定型に収まり、万葉、古今、新古今と、時代を下らせているだけなのに、それでいて俳諧味があって面白く思う。
これも万太郎俳句の魅力である。

春を待つまでの間、古人が詠んだ和歌でもひも解いて、しばしこの無聊を慰めようか、といった感じなのだろうが、このわかりやすさは簡単なようで、真似できるものではない。

「春待つや」ではなく、他の季語ではどうかと歳時記に当たっても、やはりこの上五は動かない。
だからこちらも万葉集など取り出して、春を待つ和歌でも探してみようかね、などの気にさせてくれる。

久保田万太郎の俳句については多くの方々が語り尽くしているので、私ごときがここで語る資格はない。
後は食べ物を詠んだ句を少しだけ抜き出してお茶を濁そう。

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

パンにバタたつぷりつけて春惜む

ばか、はしら、かき、はまぐりや春の雪

熱燗を酌みながらバカ貝(アオヤギ)、貝柱、牡蠣、蛤と、貝尽くしの鮨をつまんでいる万太郎の満悦至福の顔が浮かぶようだ。

こうして鮨ネタを並べられると、こちらも腹が鳴り、来月はRが付く月だなと鮨屋へ出向き、殻付きの牡蠣を求めたいのである。

たまに美味しいものが食べられて、他に歳時記さえ手許にあれば、そこそこ元気に過ごせそうだ。

幸せは、こんなにも身近にある。
後は本当の春を待つだけである。


いいなと思ったら応援しよう!