言外の言、理外の理、法外の法
誰かさんの意見に乗せられ、気がついたら国民の大部分が同じ方向を見ていている。
誰もが同じだから、遠くまで見通しても果てしなく平板なのっぺらぼうばかりだ。
つるんとして気持ち悪いではないか。
デコボコがあってこそ、世の中は面白いと思うのです。
だがデコボコすると異端審問にかけられる時代が存在した。
出る杭は打たれるの理通り、真っ平から外れると、とにかく戦争をも辞さない考えの人の憎しみは、負のエネルギーを大量に消費させてデコボコの排除に血眼になる。
町内には借り物の思想を自分のものと錯覚し、お先棒を担ぐうっかり者が耳をそばだて、トントントンカラリンとあちこちに忍んでいた。
怒りや憎しみや無知によって作られた壁は強固だった。
要するにクラッチに欠かせない「遊び」が無かったのだ。
オートマばかり乗っているから、遊びの大切さがわからなくなる。
だからへそ曲がりの私は、右を向けと言われれば左を向きたくなる。
その逆も同様。
上を見ろと言われれば下を見たくなる。
人を殺せと言われれば逃げたくなる。
誰かさんの言いなりにはなりたくない。
権勢に媚びたくはない。
どこまでも臆病な私は、殺さないとお前が殺されるんだぞと背中を押されても、たぶん人は殺せないと思う。
相手には彼の帰りを待ちわびる家族もいるだろうし、国家の憎しみを個人レベルに変換することなんて私には出来ない。
ならば背中から国家に銃口を向けられて死ぬ方がさっぱりする。
そして神にはならず、仏になって成仏したい。
今日の不条理が明日の真理になることだってある。
その逆もまた然り。
それを国民は敗戦で学んだはず。
けれど特定秘密保護法とかマイナンバーとか、誰かさんがまた国民を飼い慣らして真っ平にしようと目論んでいる。
国家あっての国民ではなく、国民あっての国家という当たり前のことを、件の人たちは完全に無視している。
戦争体験を知る人が少なくなった。
今のうちにもっと話を聴いておかなければと痛切に思う。
そして次代に語り継がなければと思う。
それが今を生きる我々の義務です。
今まで10数人の戦争体験者から聞いた話を若い人に伝えても、こちらも未体験だから、その悲惨さを伝え切れていないだろうと、ほぼ確信に近いと感じるもどかしさがある。
これではいけないと思いながらも、この中途半端な状態がやがて不幸な歴史を繰り返すことになるのだ。
さまざまな考え方が存在するのは歓迎するが、この部分だけはどうしても容認したくない。
友人が言った。
「今も厳に存在する好戦家を見分ける方法があるんだよ」と。
戦没者を悼む場合、一般の人は「哀悼の意を表します」と言う。
ところが好戦家さんチームは必ず「哀悼の誠を捧げます」との常套句を使う。
崇敬の念を込めた丁寧な表現だとしか思わなかったが、言われればチームの方々は確かにそんな表現を使う。
なるほど、と思う。
個々は優しくて素敵な人が大半だと思うのだが、これが集団になると、私は激しい恐怖心に怯えてしまうのだ。
別に集団的自衛権に結び付けるつもりはないけれど、どうしても結びついてしまうのだ。
暴走させないための最高規範が憲法なのだから、遵守するか、さもなくば国民総意の改憲論議と集約は必須であらねばならない。
オートマしか乗れない人は「遊び」も覚えよう。
その遊びこそが言外の言、理外の理、法外の法なのだ。
そこから必ず、賑やかでカラフルなデコボコが生まれる。
何色にせよ、一色だけしか許されないのは困る。
個人や国家が語る正義なんて、あくまで主観レベルでしかないんだよ。
15日の首相の話、どこか他人事に聞こえてしまったのは、私の理解力が足りなかったからなのかな?
しょせん私のような阿呆が書くことだから、無視して読み捨ててください。
でもね、若い人がどうしても戦場へ行かなければならないとしたら、こっそり匿ってあげて私が代わるしかないと思う自己矛盾がある。
自己犠牲とか、そんな大袈裟なことじゃなくてさ。
戦争は外交力を失った時の武力増強合戦の果てのチキンレース。
裏を返せば国家の阿呆を露呈していると知る必要があると思います。
木枯し紋次郎が名言を残しています。
「くだらねえことで命のやり取りはしたくねえ」
「たったひとつの命だ、粗末にしねえ方がよござんすぜ」
いいなあ、紋次郎さん。
争いごとには関わらないのが一番です。
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