冤罪4-1 下衆の極み
以前は気になることがあると、その都度、日記や備忘録のつもりで、さまざまな事柄を大学ノートに記録していた。
この際だから、それらを発表してしまおうと決めた。
この際とは、心に溜め込んだ鬱屈や怒りを吐き出し、身心を軽くする健康維持法である。
岸田手帳のように、一体何が記されているか知る由もないノートではなく、私は過去の私をここにすべて曝け出す。
墓場まで持って行くのは重すぎるし、ある種の遺言と捉えて頂いて結構。
言わずに死ねるか! ということ。
blogか何かにすれば良かったのだろうが、当時はそんな暇も勇気もなく現在に至る。
冤罪について4連投します。
日付は2010年3月30日です。
どうしても触れて置きたい足利事件報道初期の醜い部分を記す。
完全無罪を勝ち取った菅谷さんの笑顔を見て、不覚にも目頭が熱くなった。
報道は、相変わらずDNA検査の未成熟によって引き起こされた冤罪だと、こちらはもう耳タコである。
今になって始まったことではないが、ずいぶんな手のひら返しだなと呆れる。
警察・検察・裁判所が糾弾されるべきは当然として、自分たちはいったい何をどう伝えて来たのか、その反省があまりにもお粗末すぎる。
ちょっと探してみたが、当時の恣意的な報道が、続々と出て来た。
新聞を例に取ってみる。
週末の「隠れ家」でロリコン趣味にひたる地味な男。その反面、保育園のスクールバス運転手を今春まで務めるなど、"幼女の敵"は大胆にもすぐそばに潜んでいた。
いたいけな幼女の命を次々に奪った疑いの菅家被告。あまりにもケロッとしているその素顔を、どう理解すればよいのか。
(幼稚園での)「まじめな勤務態度」の裏には「幼女の近くを離れたくない」という意識が働いていたようだ。
心の亀裂に病理が潜んでいるようだ。
すべて毎日の記事である。
ある程度、警察発表(この発表自体は事実だから)を信じるのは仕方ない。
問題はその後の文章で、とにかくセンセーショナルな書き方をして読者の目を惹こうとの、あざとく恣意的な内容に仕立て上げていることだ。
「ロリコン趣味にひたる地味な男」
「"幼女の敵"は大胆にもすぐそばに潜んでいた」
そして、
「意識が働いていたようだ」
「病理が潜んでいるようだ」
に到っては、憶測、妄想にまで発展させている。
これを世間では「捏造」という。
記者がそのまま書いたものなのか、デスクが指示したものなのかは判らないが、こうしてメディアは在らぬ方向へと世論を形成させて行く。
その一方で、DNA鑑定が誤りで、菅谷さんの無実が判明すると、社説では、
足利事件再審へ 名誉と人権の回復急げ
と、自らの厚顔無知を曝け出している。
こうして書いていても悪寒と虫酸が走る。
次に読売。
少女を扱ったアダルトビデオやポルノ雑誌があるといい、少女趣味を満たすアジトになったらしい
これは菅谷さん逮捕を報じた社会面の記事だ。
菅谷さんの自宅を取材もせず、すべて憶測だけで書かれている。
こちらも毎日同様、無実と知ると、社説で恥の上塗りをしている。
足利事件 捜査、裁判を徹底検証せよ
全文を転記するのも不愉快なので、最初と最後だけを写す。
なぜ、捜査当局が白旗を揚げる事態となったのか。裁判所はチェックできなかったのか。徹底した検証が必要である。
(中略)
恣意(しい)的な運用を行えば、警察、検察の信用は地に落ちる。そのことを忘れてはならない。
いったいどの口や脳味噌から、「恣意的」などとこんな言葉や文字が出て来るのだ。
踏んだり蹴ったりしたのはメディアで、されたのは菅谷さんだった。
そのメディアが自ら定めたガイドラインも、正しく守られているとは言い難い。
正義を気取れば気取るほど、正義から乖離することに気づかないのは今に始まったことではない。
ネットが普及した影響で、販売部数の下降が止まらないというのはこじつけであって、新聞に良心や正義や公平があれば、私は必ず購読する。
新聞を始めとしたメディア全般は事実だけを伝え、その判断は読者に委ねるべきである。
センセーショナルな記事に飛びつく読者ばかりをターゲットにしている限り、近い将来、新聞は必ず死ぬ。
残るのは、お父さんたちの通勤のお供、タブロイド紙だけになるだろう。
そう、夕刊フジと日刊ゲンダイの二紙さえあれば事は足りるのだ。
お父さんたちは、その真ん中を歩むべし。
それで社会の均衡は保たれる。