仏教伝来の地
桜井市内の大和川の河川敷に「佛教傳来之地」の巨大な石碑がある。
近くには欽明帝の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)があったとされる場所で、当時ここは船着場だったらしい。
欽明ならば仏教伝来は西暦552年のはずで、百済の聖明王から金銅の釈迦仏と経典が献上された年である。
しかし我々が習ったのは538年で、その根拠は「上宮聖徳法王帝説」などの資料を基にしている。
538年は宣化帝の時代であって、欽明朝では有り得ない。
いずれにせよ、蘇我VS物部で決着がついた587年を採ってもいいのではと考えた。
厩戸の父、用明帝の時代である。
ヤマト政権から続く天皇家は、神仏混淆によって国内の支配を進めることになる。
ここで話を終えてもいいのだが、もう少しだけ詳細に綴ってみたい。
西暦552年、百済の聖明王は姫氏達率(きしたちとき)、努唎斯致契(ぬりしちけい)を使者として、釈迦仏一軀、幡蓋(はんがい)、経論数巻を欽明に献上した。
此法能く無量無辺の福徳果報を生じ、乃至無上菩提を成弁す
の口上を述べている。
その11年前の541年は継体の長子、安閑の御代で、司馬達等が大和坂田の原に小堂を建立、仏像を安置して民衆への布教を試みたが、受け入れられなかった。
現世利益や祟りにどれほどの効果があるかが庶民の大問題だったはずで、国神か異神かの比較もしたのだろうし、人生観や死生観に応えられるかどうかも重要なポイントだったはず。
自然災害や疫病の多さに、崇仏派と廃仏派の意見や見解も分かれた。
仏像を焼き払った祟りであるとか、国神の怒りに触れたからなどの理由は、現代に置き換えれば改革派と守旧派の相容れぬ主張であり、いずれにせよ森羅万象を畏敬していた国民性が表れている。
しかし問題は538年である。
仏教伝来はこの年ということが一般的で、欽明は、
朕未だ是の如き微妙なる法を聞くこと得ざりき
と大喜びしている。
結局のところ、仏教は崇仏派の権力者だけのものであり、庶民とは無関係に寺院が整備され始めたと考えて良さそうだ。
物部に焼かれ、それでも再建し、そんなことを何度か繰り返した末の争いで、蘇我氏の執念が実を結んでゆく。
竪穴式住居に暮らしていた庶民は、かつて見たこともない板葺(推測です)の堂塔を目の当たりにして驚いた。
瓦葺屋根の堂塔伽藍出現や、仏の教えが庶民へ裾野を広げるのは、まだまだ先のことである。
当時のことだから仏像拝観は不可能であろうし、伝達手段は口コミしかないので、日本の仏教伝播はかなり時代が下って、朝廷や貴族からのトリクルダウンで始まる。
遺された記録は、庶民に関しては一切触れていないので記紀などから行間を類推するしかないが、やがて仏教が浸透し、人々が崇仏多数派に身を置きたがるのも、それが生死や日々の暮らしに寄り添ったものと信じた国民的な気質が作用している。
「国民」と書いたが、蛇足ながら、唐が倭から日本へと認めたのは西暦702年からである。
これからの日本が何処へ向かうかわからぬが、人間は傲慢になると増長する生き物である。
宗教とは、そんな時のための予防接種のようなものだ。
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