文章を書くということ
文章を書く、ということを意識的に始めたのはいつの頃だろうとふと考えてみた。
一番古い記憶は小学校2年生くらいだ。夏休みの宿題の定番とも言える「読書感想文」がそれだ。どんな本を読んで何を書いたのかはまったく覚えていないが、何か賞をもらった記憶がある。今だったら文章を書いて何か賞を貰えるとなれば大喜びしそうなものだが、当時は別に喜びもせず、さりとて「こんなもん鬱陶しい」と思ったわけでもなく、淡々と受け入れたのだろう。その辺りの記憶がない。
記憶が断片的だが、小学校の読書感想文の宿題を請け負った記憶もある。まぁ、小学生のやることなので報酬はせいぜい駄菓子屋で何かおごってくれ、くらいのものだったと思うが、ひと夏に3本くらい同じ本で書き分けたことがある。同じことは大学でもやった。さすがに卒論をまるっと請け負うことはできなかったが、資料集めくらいはやった記憶がある。昼飯くらいのやはり安い報酬でやった。
創作文は中2の頃に初めて書いた。当時、虜になっていた新井素子の作品を読んで愚かにも「これなら自分でも書けるだろう」と思い、コバルト文庫の新人賞に無謀にも応募しようと思ったのだ。400字詰め原稿用紙100枚。中2の書く文章量としてはあまりにも多い文章量だったが、締め切りの3日前くらいに強引に書き上げた。そして、読み直した。本を読む習慣があり、多くの作品に触れてきた自分が読んでみて「こりゃダメだ」と思ったくらい酷い出来だった。今のように小説の書き方などそこらに情報が転がっていない時代、小説の作法も知らずに書くのは無謀に過ぎたということだ。当然、応募はあっさり諦めた。
以来、原稿用紙100枚を超える文章を書いたのは、大学の卒論くらいのものだ。その卒論ですら、今読むと「なんと稚拙な文章だ」と恥ずかしくなる。当時は必死だったのだろうが、小説を書いて10年経ってもこの程度だったのか、という話だ。
そんな私でも、運良く編集者になることができ、本は書かないが原稿を書くことが当たり前になっていた。自分の書いた文章が世の中に出る、そして載っている雑誌を買って読む人がいる、と考えると最初は責任重大とも考えたものだが、慣れれば何でもアリなんだな、と気がついたのもこの頃からだ。
今思うに、文章を書く、そして世の中に発表するという行為が20年前より相対的に軽い行為になっていると感じる。やはりインターネットの存在が大きい。誰でも「小説家になろう」とやれるわけだし、短文ならTwitterで簡単に世の中に拡散できる。文章としては評価されないが、ツイート自体が多くの人に支持されることもザラにある。
簡単に言えば、一億総作家時代になったとでも言おうか。他人の評価や商売としてやることを度外視すれば、誰でも作家「もどき」になれるわけだ。
だが、物書きを生業としている人々の価値が相対的に軽くなったわけではない。そこは今もって特別な人たちという位置づけは変わらない。そして、それを目指す人も昔と変わらずいるわけだ。
結論。文章が書ければ誰でも作家になれると思ったら大間違い。勘違いしてはいけない。
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