それができたらADHDではない、のか?
ツイッターで呟くADHDライフハックに対して「それができたらADHDではない」みたいな反応がよくある。「ADHDの自分がバグってミスるまでの流れを外側から分析、介入してそれを防ぐ」みたいなツイートに対してもそれはあった。
「ADHDは脳の実行機能が弱く、見通しが効かない、計画を立てたりできない障害」いやそれはその通りなんだけど、それはその観点で「定型に比べたときに障害と表現されるくらいに著しく能力が低い」という意味であって「完全にゼロ」だということではない。俺だって当事者だけど、2024年の次は2025年だということはわかるし、春の次に夏が来ることは理解できる。その遠くない延長線上に「これ、このまま進めたら俺やらかしそうだな」というものもある。
言いたいのは「ADHDは◯◯できない」という字面に甘えて自分にも実行可能な対策すら放棄していないのかということだ。
確かに初見のものは上手くできないことが多いかもしれない。それは障害だから。
「ADHDは外界からの刺激に対する反射だけで生きている」とか揶揄する人もいる。俺も外から見たらそう見えると思う。でもそんな俺にも出来事を記憶する能力はある。めちゃくちゃ性能は低いけど、今まで同じようなミスを繰り返して生きてきたという記憶はある。いつも同じところでミスるなとか、こういうときにこういうミスするなとか、自分のミスの蓄積が溜まれば傾向も見えてくる。だから自分用の対策はできる。
例えば生活するなかで鍵を上着のポケットに入れては行方不明にしてしまうのなら、「気をつける」とかではなくて、鍵をいつも持ち歩くバッグに繋いでみるとか、それが自分の生活と行動のパターンでは効果がないのなら帰宅したら玄関のドアに吊るしておくようにするとか色々と“外側”からの工夫はできるわけで、仕事においても同じような分析と改善を自分の能力の範囲内で実施することは可能だ。
「実行」そのものが難しくても、必然的に機会が発生するように組み込むとか、習慣化しているタスクに紐付けるなどやりようはいくらでもある。
ここから先は半分蛇足になる。
以上のことを実施したところでもちろん定型レベルに“ちゃんとやれる”わけではないし、色々工夫したところで定型未満なのかと悲しくもなるだろう。自分自身を振り返ってみると、自分なりに考えて自分でも継続できるような仕組みを考えてみても結局は失敗してしまうことの方が多い。でも、そうなれば次の策を考えて実行するだけだ。
できないことをできるようになっていくことでしか、自分が前に進めているという実感でしか得られないものがあると俺は思う。
俺は自立支援制度を使っている。メンクリでの診察代と処方されるストラテラが3割負担から1割になる。制度として存在するのだから残り2割はいわば制度を利用しない定型が納めた税金から負担されているかたちだ。自分が福祉の世話になっていないなんて言うつもりはない。発達障害という障害の認知が行き渡った現在では、「発達障害者なんて死んだ方がいい」という声も多くあるだろう。
そんななかで、なにもしないまま“あるがままの自分”を許せる日が来るなんてものは幻想で、俺自身が胸を張って生きていけるための“越えなければいけないライン”があると思っている。俺はそれを「ADHDなりに自分に出来ることをやり続けること」だと定義している。だから俺はやる。それだけだ。