「知らない星」という写真展をしたこと
昨年の秋、東京の大島で写真展をひらいた。あれからもう1年が経とうとしているけれどこれまで落ち着いて振り返ることができていなかったので、展示のことと展示した「知らない星」という作品のことについて、書き残しておこうと思う。
1. 「知らない星」のこと
「知らない星」は2017年から撮影を続けているポートレート作品だ。被写体はTwitterでの募集に応じてくれた人達で、一部の例外を除いては僕がその人達の住む街まで出かけていってそこで撮影した。
古い記憶の話をする。僕の一番最初の記憶は4歳くらいのときの、椅子に立ってコーヒーメーカーの上に置かれた容器の蓋を開けようとしている場面のものだ。その次に古いのはマンションのエントランスで同じマンションに住む幼稚園の同級生4、5人でヒーローごっこをしていた記憶になる。誰が何の役をするかなんて話はせずに、それぞれが戦隊モノのヒーローになりきって他の子のことは怪人だということにして好き勝手やっていた。しかし、僕はどちら側にもなりきれずにただ戸惑っていた。パンチやキックの動作をスムーズにできなかっただけではなく、頭の中もギクシャクするような居心地の悪さを鮮明に覚えているし、今も他者とのやりとりの中で感じている。
なんとなく「自分は他の人と違う」という感覚は小学生の頃から既にあった。自分のことをどこか遠くの星から来た宇宙人のように感じていた。
僕は2017年からTwitterをしている。特に呟く内容を限定しているわけではないけれど、多いのは僕が抱えるADHDの話であったり生きづらさについての話だ。というよりも元々それらを呟くために作ったアカウントだった。僕は家族・友人にも職場にもカミングアウトをしていない。一応は自分が定型発達者(発達障害ではない人)だということにして生きているから、そんな話をできる相手はずっと周りのどこにもいなかった。だから、思いがけずネットの海の中にそれを吐き出せる場所を見つけたことが嬉しかった。そんなわけで、Twitterを始めた当時から現在に至るまで、僕のアカウントのフォロワーには何らかのマイノリティに属する人であったり「世の中に馴染めない」と感じている人が多いと思っている。
ここで被写体を募集してポートレート作品を撮りたいということは、Twitterを始めた初期の頃から思っていた。
最初にまず展示のイメージがあった。ここには自分のように“知らない星に住んでいる人達”がいる。みんな宇宙を漂っている孤独の光のように思えた。その姿をひとつひとつ暗闇に浮かべてそれを眺めている自分の姿が浮かんで、実際に見てみたいと思った。自分の“同類たち”をどこへでも訪ねていってその土地でポートレートを撮る。シリーズの仮題は「知らない星」にしようと決めた。(結果的にそのままタイトルになった。)
2017年夏、Twitterを始めて数ヶ月が経った頃、東京の某所にあるギャラリーのグループ展に参加した。それをTwitterで告知したらフォロワーの1人が見にきてくれて、その夜2人で飲みにいくことになった。新宿近くにその人の行きつけの居酒屋があって、途中からは店にいたフォロワーの人と顔馴染みだという常連客の人も加わって3人で飲んでいたら、フォロワーの人が酔い潰れてしまった。とても1人で歩ける状態ではなかったので、彼の家を知っているという常連客の人と2人で彼を自宅まで運ぶことになった。なんとか送り届けて腕時計を見たら終電が終わってしまっていて、さてどうしようかと困っていたら、常連客の人から「俺の家に泊まっていきますか?」と助け舟を出してもらえた。通された部屋で少し話したあと、そろそろ寝ましょうと消灯してから、彼が「1本だけ」と真っ暗な部屋でタバコに火を着けたのを見て、ちょっとそのまま撮らせてもらえませんかと頼んで写真を撮った。
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知らない星(仮題)
物心がついた頃から、私は確かにここにいた。
街を、学校を、社会を、人々の海を泳ぎ続けてきた。
それでも、自分が他の星から来た異星人のように感じることがある。
ここがどこだかわからない。
帰る場所があるのかさえ、わからない。
知らない星を歩くようにして、私はこの世界で生きている。
制作意図
私は自分は何か他の人と違うのではないかという違和感を持ちながら生きてきました。それは、幼い子供特有の全能感や他者への優越感ではなく、「自分は異物である」という感覚です。
この感覚は、他者と共有できるのか。
共有ができたとしたら、その写真の集積は「僕らの星」とでも呼べるものになるのか、なるとしたら、そこを歩いてみたいと思いました。
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居酒屋で持ってきていたノートパソコンを取り出して、実はこんなことをやりたいと考えているんですと「知らない星」の構想を話して、ホームページに載せるつもりで作っていた文章を見せたら、彼は僕の目を見て「それ、俺です。」と言ってくれた。そうして部屋で撮らせてもらったその写真がシリーズ最初の1枚になった。
東京から戻った僕はホームページを更新し、そのリンクを載せた募集ツイートをしてTwitterのプロフィールに固定した。
初めて応募してくれた人から「これから何人くらい撮るんですか」ときかれて「特に考えていないですけど、とりあえず100人くらいは」みたいなことを言った気がする。その「とりあえず」に至るまでにそこから2年半かかった。
それからは月に数回、週末に夜行バスやLCCに揺られる生活になった。そこに住んでいる人やそこで働いている人だけが降りるであろう駅で降りたり、乗り慣れないバスを乗り継いだりした。本当に色々な場所へ行った。
被写体となった彼ら彼女らにとって、僕は自分と似たような背景を持つと同時に自分の日常から切り離された存在だったのだと思う。昨日までいなかった、明日からもいない人間を相手にすると何も気にせずに話しやすいという側面はあったのだろう、あまり人には話さないような話を聞くこともしばしばあった。
一枚一枚の写真を見ていると撮影したときのことが蘇る。
雪国に行ったことがあった。3月のはじめだった。早朝のLCCで空港に飛んで、そこから在来線に1時間ほど揺られた。集合場所は駅の前だった。撮影の前にメールで色々とやりとりをしていて、その時の印象から勝手に饒舌な人なのかなと思っていたけれど、会ってみたら口数の少ない人だった。僕も無口な方だから、厚く積もった雪道を目的地まで2人で黙々と歩いた。空のピンク色に一面の白が染まっていく中、周囲にサクサクと雪を踏み潰す足音2つだけが響いた。
撮影が終わると辺りはすっかり暗くなっていた。それなりの冬の格好はしていたけれど、日が落ちるとやはり寒く、吐く息も白かった。2人で駅のベンチに腰かけて彼女に撮影した写真の使用同意書を書いてもらっている間、僕は電車の時間を確かめていた。サインを書き終わった彼女は鞄から魔法瓶の水筒を取り出して僕に紙コップを渡した。注いでもらったのが何のお茶だったかはもう忘れてしまったけれど、それが温かかったことを覚えている。
地理は昔から苦手だったけれど、それでも日本の形くらいは知っていたし、その中に都道府県がどう配置されているかについても知っていた。だから、どこかへ旅行に行けば日本地図のどの辺りに自分がいるのか当然に理解していたはずなのだけど、僕にとってそれは「その土地へ行った事がある」という知識が1つ増えるだけのことだった。旅行で訪れる街はどこまでいっても自分の中では言い方が悪いけれど「コンテンツ」としての風景で、そこを離れてしまえば自分の中で消えてしまうもの、その意味での記憶でしかなかった。
けれど、特定の「誰か」が生きている土地をその誰かと歩く体験は、特定の誰かと土地とを紐付けて、離れていても今この瞬間そこに存在する「現在進行形の場所」としてその土地を僕の頭に刻んだ。頭の中の白地図が今そこに生きている人達の存在によって少しずつ色を塗られていくような、自分の中に実感を伴った「世界」が広がっていくような喜びがそこにはあった。
なによりも、自分の同類が自分の知らなかった場所で苦しみながらも生きてきた、生きている、という事実が僕の救いになっていた。僕を最初に突き動かしたものは「見てみたい」という好奇心だったけれど、心のどこかで「展示の光景を見たときには、自分自身が救われるかもしれない」という淡い期待もあった。しかし、それはゴールではなく過程で訪れた。2年と半分くらいの時間をかけて僕は少しずつ何かから回復していった。
2. 展示のこと
それが2020年コロナで途切れた。
自分を救ってくれた行為そのものが生活から失われてしまったことはとても辛かったけれど、展示を見ずとも僕はすでに救われていたはずだった。先行きの見えない日々をこれまでの撮影で得られた「実感」と写真が支えてくれるはずだとも思っていた。
それでも展示を今やろうと当時思ったのには理由がある。
その夏、「知らない星」の撮影を始めて3年が経とうとしていた。20歳以上を応募条件にしていた被写体の人達には学生も多かったので今では学生ではなくなっている人や、元々学生でなくても環境が大きく変わっている人が多くいることが想像できた。加えて、撮影を始めた2017年から2020年の当時までの時点で、マイノリティに属する人々を取り巻く環境や社会の認知や意識が移り変わってきていることを、僕自身が肌で感じていた。撮影を始めた頃の空気感が残っているうちに、という思いもあった。そういった理由から、3年という時間はかたちとなったものをひとつ見せるべき区切りに思えた。コロナ終息の見通しは立たない。タイミングとして適切と言えないことは重々承知していたけれど、今やらないといけない、今やるべきだと僕には思えた。
「プライベイト」のことをどこで知ったのかはよく覚えていない。Twitterだった気もするし、検索エンジンから見つけた気もする。いずれにせよ、展示の場所を考える上で、白い壁で囲まれたいわゆるホワイトキューブの典型的なギャラリーはこの作品に合わないような気がしていて、被写体になってくれた人達が東京周辺が多かったこと、日本地図の真ん中に位置するということもあって、僕は東京の貸しスペースを探していた。そんなときに、自身が現代美術家である管理人の方が運営する「貸民家プライベイト」という場所を知った。民家を借りてそのまま展示に使用できるというのが気になって、ちょうどそのとき開催されていた展示の鑑賞を兼ねて現地を見に行った。人が生活していた痕跡が残った3階建ての家屋で、1階にはリビング・台所として使われていた大きな部屋があり、階段を上がると2階は洋風の部屋と和室が並んでいて、3階に上がると木の壁の部屋が1つあり、そこから大きな広いベランダに出られた。ここなら考えていた展示ができそうだと思った。開催時期はコロナの第2波がおさまることを見込んで10月に決めた。(結果的にベストのタイミングになってくれた。)東京から帰って「プライベイト」の管理人さんに展示についての簡単な企画書を提出したらGOサインをもらえて(当時は企画のクオリティについての審査を通過する必要があると思っていたけれど、基本的に利用者を選ばないスタンスであると後から知った。)、兎にも角にも展示の開催が決まった。
そこからの準備は大変だった。10月の1ヶ月間を格安の料金で借りることができたので、5回ある週末の2回を準備に、3回を本番に使うことにして、週末ごとに金曜日の深夜バスと日曜夜の新幹線で行き来するというスケジュールだった。搬入と搬出については、「プライベイト」のある場所の関係で付近に車を乗りつけることができず、少し離れた宅配便の集積所との間をそれぞれ友人に手伝ってもらってなんとか大量の荷物を運んだ。搬入が終わってからは1人作業に戻る。とにかく時間が足らなくて、準備期間中は東京で寝た記憶がない。管理人さんに教えてもらったオススメの銭湯へは結局行けずじまいだったけれど、なんとか展示そのものは完成した状態で初日を迎えることができた。
初日は朝から雨だった。
どちらかというと夜に見てほしい展示だったから終了時刻を21時と遅めにしたけれど、昼間にしか来られない人もいるだろうと12時オープンにしていた。家の外から正午を告げる放送が聞こえると、刷り上がったばかりのDM(案内ハガキ)の山から一枚をとって玄関のドアの表に養生テープで留めた。ドアの鍵を開けてオープンした。13時くらいにチャイムが鳴って最初のお客さんが訪れた。
午後になってから外の雨は強まっていた。濡れた荷物とコートを1階の待合いスペースで預かり、2階と3階とベランダが展示の会場だと伝えて階段を上がってもらう。感染症対策で家中の窓を開けているのもあって肌寒い。僕は部屋の奥に戻り、また持ち込んだプリンタでDMを印刷し始めた。
やがて、階段を降りる音が聞こえ、最初のお客さんが戻ってきた。島から船に乗って来たのだという。彼女は最近メンタルを崩して入院する必要があると言われていて、それなのにこの展示を見たくて今日まで待ってもらっていたとのことだった。「元気になれました」これから入院する人に幾分似合わない言葉を残して、彼女は降り続ける雨のなかを歩いていった。僕はなにか夢の中にいるような気持ちでその光景を見送った。
会期の初日にまだDMを印刷していたくだりでお察しだが、展示の周知関係については本当に反省すべきことだらけだった。写真と展示自体の準備に手一杯で周辺のギャラリーなどにDMを置いてもらったりする基本的な事前準備に使う時間が捻出できず、Twitterでの周知くらいしかできなかった。プレスリリースだけは思いつく限りの写真関係、カメラ関係の媒体にメールで依頼したが、なにか写真家としての大きな実績があるわけでもない人間が個人の名前のもとに依頼してイベント掲載してもらおうというのは無理があったらしく、ほぼほぼ返事が返ってこなかった。完全に諦めていたところを唯一日本カメラとIMAオンラインだけが取り上げてくれて(日本カメラの担当者の方は後日「近所だから」と実際に見に来てくれた。)、その記事を見て来られたお客さんもいたので大変有り難かった。始まってからも、展示は人に見られてなんぼだろ?とハッパをかけられてそれまで抵抗があったハッシュタグを作ったり、管理人さんが色々と宣伝してくれたおかげで、客足は徐々に増え、最後の方は僕の応対のキャパ的にアウトとなるくらいの盛況となった。Twitterの界隈の人たちに見せたいという気持ちが強い展示だったけれど、それ以外のお客さんにも見てもらえたのはとても有難かった。
準備の件と併せて、こうして並べると改めて全部を自分ひとりでやろうとしていたくせに人に助けられてばかりだったと思う。感謝に堪えない。
1階の待合スペースには椅子を並べて机に作ったブックを置いていたりして、読んでもらったり、来てくれた人と話したりできるようにしていた。来客のピーク時はあまりゆっくり話ができるような状況ではなくて、久しぶりに会ったのに話せなかった人もいてそれだけが残念だったけれど、あの空間は本当に良かったなと思う。
被写体になってくれた人達も大勢来てくれた。間隔の長い人で約3年ぶりに会えた人もいた。マスク姿に髪型が変わっていたりするともう誰か全然分からなくて、名前を告げられてやっと気づいて謝り倒すような場面が多々あった。
会期の真ん中くらいの夜、その人との再会もそんな感じだった。来たときには僕はその人だと気づかずにいた。随分と経ってから階段を降りてきた彼女は無言で僕に何かが書かれた紙を両手で差し出した。紙とその人の顔を交互に見る。2年前の冬に撮らせてもらった人だった。感想を手帳に書いて破いてきたのだという。
了承をもらえたのでここに掲載させてもらう。とても美しい文章だと僕は思った。
ところで、展示期間中の宿をどうしていたかというと、ホテルを取らずに会場の3階に布団を敷いて寝ていた。以前の展示で展示資材として使われたものだろうか、たくさんの布団や寝袋が押し入れに備品として備わっていた。「プライベイト」に下見に来たときに一番気に入ったのが3階とそこから出られる広いベランダだった。後から増築されたという3階部分の天井が手を伸ばせば届くくらいに低く、座ったときに見上げた天井までの距離が近いというのが非常に良かった。もともと一面に貼られた写真を見渡したかった僕は天井も含めて壁の全面にA3ノビのポートレートを敷き詰めた。鑑賞者が床に寝転がって眺められるようにシートを引いてクッションを置き、日が沈んだら床に置いた光源で照らした。ベランダにもパネルの写真を配置して同じく光を当てた。
そこで寝泊まりしていたのだから、誰よりも長く3階の空間で過ごして写真を見ていたのは僕だということになる。毎晩会場をクローズしたあとの時間は、寝てしまうのが惜しくて床に座ったり寝転がったり、あるいは広いベランダに出て日頃あまり吸わないタバコを吸ったりして、ずっとあの空間で写真を眺めて過ごしていた。
写真に写る姿はどれも僕にとって馴染み深いものになっていた。撮影後に選んだ写真はそれ以降も定期的に何度も見返してはセレクトし直していたからだ。しかし、暗闇に浮かぶ写真達は僕の目には「彼ら彼女ら」と一体のものとして見ることができないくらいに「バラバラの他者」だった。ひとりひとりが別々にこちらを見つめていた。僕は人生がひとときの間だけ交差した彼ら彼女らのことをほとんど何も知らない。目の前には互いに時間も空間も交わることの無い、いつかの光景が並んでいる。
だから多分、「僕らの星」なんてものはないのだ。そしてだからこそ、誰かがそこに居てくれること、居てくれたことが自分にとって重要なのだ。この先、撮影を再開するときが来たら僕はまたポートレートを撮りたいと思う。それらの写真をまとめるとき、今度は違うタイトルをつけるはずだ。
最後に、来場者に配ったステートメントの裏に書いた“後がき“のようなものから一節を持ってきてこの話を終わろうと思う。
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彼ら彼女らが今どこでなにをしているのか、私にはほとんど分かりません。写真とは「かつてそこにあった」光を固定するメディアです。時間が経てば、社会もそこに生きる私達も変わっていることでしょう。
夜の暗闇のなかで目の前に広がるかつての光を眺めながら、その記憶と「いま」に思いを馳せました。