精神と身体との関係性からみる臓器移植の可能性
‘23年春季キリスト教会倫理学ゼミ発表
テキスト『命は誰のものか』
12章あなたは臓器を提供しますかー臓器不足を巡る問題
発表者濱和弘
以下は、2023年5月15日にR大学院もキリスト教倫理学のゼミにて、香川知晶氏の『命は誰のものか 増補版』(ディスカバリー携書227、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2021年)をテキストとして行われた発表の発表原稿である。
発表は、12章「あなたは臓器移植をしますかー臓器意不測の問題」を題材とし、発表者の研究テーマ「エラスムスの人間観」に引き付けながらなされたものであり、人間を精神(霊)と肉体(身体)を有する存在として捉える人間観から臓器移植の問題について考察し、問題提起する意図のもとになされている。
はじめに
本発表は、香川知晶著の『命は誰のものか-増補改訂版』(ディスカヴァー携帯227、ディスカバー・トゥエンティワン、2021年)の12章の内容を踏まえながら、人間の身体と自己認識の問題を人間論的視点で問うものである。
この12章は、「あなたは、臓器を提供しますか」という表題であり、その副題が「臓器不足を巡る問題」となっている。本文そのものは、直接的に臓器移植の是非を問うものとはなっておらず、臓器移植が行われている現実を踏まえ、そこに見られる問題点を指摘するにとどまっている。そして、その問題点が起こる背景として移植に用いる臓器が不足している状況を捉えているのである。つまり、臓器移植の持つ社会問題の社会性を臓器不足という面から捕らえ、そこに映し出される問題を主題化して取り上げているのである。
そこで、テキストに沿いつつ臓器不足の問題について考えていきたいが、それに際して、まず問題を整理するために、テキストの「臓器移植に関する法律」の項にある4つの権利に基づき、脳死を是として臓器移植を考える場合と、脳死を否として、臓器移植を可と考える場合、以下のように分類される。
脳死を是ー脳死移植、死体(心臓死)移植、生体移植可
脳死を否ー死体(心臓死)移植、生体移植可
以上化のように、臓器移植に関する是非を問う場合、脳死に関連して問題とされる移植医療は、脳死移植だけであり、臓器移植を否としない限り、死体移植と生体移植は受容されることになる。
脳死移植において可能な臓器としては、心臓、肝臓、腎臓、角膜(眼球)、膵臓、肺がある。心臓死移植の場合は、腎臓、膵臓、眼球(角膜)、生体移植の場合は、肝臓、腎臓、肺、小腸と定められている(改正臓器移植法、2010年)。こうしてみると、脳死移植によってのみしか移植できない臓器は心臓のみとなり、それ以外の臓器は脳死に依らなくても移植治療の可能性があることになる。そのような中で、脳死移植に心臓以外の臓器の移植を認めている背景には、慢性的臓器不足があると思われる。
少し古い資料になるが、1997年の日本学術会議臨・床医学委員会移植・再生医療分科会の提言「我が国における臓器移植の体制整備と再生医療の推進[1]」において、「現状と問題点」として、日本の移植医療における臓器提供者の件数が、脳死移植が増加傾向にあるにも関わらず死体(心臓死)移植が減少し、全体として早期色が減少している状況が訴えられている点からも臓器不足の現状[2]は明らかであろう。
このような中で、先の再生医療分科会は臓器提供者の増加にむけての提言をのべているが、本テキストにおいても「臓器移植を増やすための方策」という表題(302―304頁)で、具体的に行われてきた政策事例(保険適用範囲の拡大)があげられている。
このような中で、本テキストは生体移植とその問題を取り上げている。香川は、生体移植の問題としてドナーの健康被害や病気の臓器を移植する問題(例えばドミノ移植の問題)等についてあげているが、これらの問題は医療技術の向上等では改善可能な問題[3]であり、純粋に医学的な課題として考えることも可能なものである。しかし、この生体移植における問題はより社会倫理的側面を持つ。それが臓器提供に関する商業化、すなわち臓器売買の問題である。香川は、この問題については、「アジア諸国での臓器移植」の項と「中国での臓器移植」及び、「臓器移植法律違反事件」として取り上げている。
それは、香川が11章後半で取り上げた「慣れとしての人体の資源化」と密接の結びつくものである。本発表は、その問題を、キリスト教人間学の視点から考察してみたい。
1.人間という存在
私(発表者)の研究テーマであったD.エラスムスは、その著書『キリスト者兵士必携[4]』において、次のように述べている。
人間は二つあるいは三つのひじょうに相違した部分から合成された、ある種の驚くべき動物です。つまり一種の神性のごとき魂と、あたかも物いわぬ獣からできています。もし身体についていうなら、私たちは他の動物の種類にまさるものではなく、むしろそのすべての賜物においてそれに劣っています。しかし魂の面では私たちは神性にあずかるものであり、天使の心そのものを超えて高まり、神と一つになることができるのです。もしあなたに身体が与えられていなかったなら、あなたは神のような存在であったでしょうし、もし精神が付与されていなかったとしたら、あなたは獣であったことでしょう。相互にかくも相違せる二つの本性をかの創造者は至福の調和へと結び合わされたのでした。だが平和の敵である蛇は不幸な不和へとふたたび分裂させたので猛烈な激痛なしに分かれることもできないし、絶えざる戦闘なしに共同的に生きることもできません[5]。
エラスムスは、この言葉をもって人間は精神と身体(肉体)を持った存在であると述べており、肉体を欠いても、精神を欠いても人間は人間として存在しないと述べている。このような人間を精神と肉体との二元論的な捉え方は、プラトン的な霊肉二元論に基づくものであるが、エラスムスのとっては、肉体をも神が創造されたものとして、プラトン主義やグノーシス的二元論が持つ「ソーマはソーマ(肉体は墓場)」的な捉え方はされていない。そして、この二つの要素は不可同でありかつ不可分なものである。その意味では、エラスムスの人間論は一元論的思考性を持つ。もっとも、エラスムスはこの精神をさらに霊と魂として捉え直しオリゲネス的な霊・魂・肉の三元論で人間を捕えなおしているが、それでもなお統体的指向性を持っている点においては、変わりない。
そして、いずれにせよ肉体は人間という存在を構成するものであり、エラスムスにとって肉体と精神を分離しては人間として存在できない。人間を2元論的にとらえる傾向は、パウロにも見られるものであり、アウグスティヌスにも見られるものであるが、パウロもアウグスティヌスもエラスムスと比較すると、身体にはあまり重きが置かれていない。アウグスティヌスにおいては、身体はむしろ否定的にとらえられてさえいる[6]。
これに対して、トマス・アクイナスは心身を一体に捕らえる一元論で人間を捕えている[7]が、これはトマスの神学がアリストテレスに基づいて構成されているからであると考えられる。そこで、人間における身体とは何を意味するのであろうか。
いずれにせよ、現実に存在する人間を観察する中でキリスト教思想史の伝統は、人間を精神と肉体との関係の中で人間の存在を捕えてきたと言える。
2.存在と身体
人間は、身体をもってこの世界内に存在する。これはある意味自明な事のように思える。しかしどうじに人間は「わたし」という自意識による一人称の認識と「あなた」という他者からの二人称の認識、あるいは「彼」という三人称の認識をもって、この世界内に存在する。このとき、この「わたし」という自意識は、肉体に依存するのか、それとも精神に依存するのかで、観念論的人間観か唯物論的人間観かという指向性が決まってくる。具体的に言うならば「わたし」という自意識の認識は、認識主体となり肉体(具体的には能の作用)が、「わたし」という認識(精神)を生み出すのか、「わたし」という精神がその肉体をして「わたし」を存在として認識するのかという問題である。前者(唯物論的人間観)は肉体(厳密に言うならば脳)が「わたし」を規定し、後者(観念論的人間観)は「わたし」という精神が肉体を規定する。
このような人間観は、あくまでも現実の人間存在を捕える思考の枠組み(パラダイム)、あるいは視座であって、いずれが真であるかについては明らかにすることはできない。したがって、「わたし」という存在と身体の関係を感がる場合、それぞれの視座に立って思考実験的にとらえていくしかない。たとえば前者(唯物論的人間観)においては、脳が生存する限り、それ以外の身体がなくとも、「わたし」は「わたし」として世界内に存在する。つまり、脳以外の身体は、「わたし」という存在の存在原因ではない。したがって脳以外の身体は、存在形式としては、脳を生かすための取り換え可能の部品である。
それに対して後者(観念論的人間観)においては、「わたし」という精神が、「わたし」の肉体を場として「わたし」を認識する[8]。このとき「わたし」が肉体という世界内にある存在者において立ち現れてくる。この場合、「わたし」の精神と肉体とは不可同ではあるが不可分に結びついているが、「わたし」という精神が肉体を「わたし」自身として認識しなくなると、その肉体は「わたし」自身ではなくなる。これは「わたし」という精神が、「わたし」の肉体を規定しているためである。このとき肉体は「わたし」の肉体であり、肉体は「わたし」という精神に支配され所有されている。そのため、たとえば、「わたし」の『腕』ではあっても、「わたし」自身ではない。それは「わたし」の『腕』として認識された時点で「わたし」によって対象化され「それ」化(物化)された「わたし」の『腕』であり、それは臓器についてもいえる。「わたし」の腎臓は「わたし」の『腎臓』であって「わたし」自身ではない。これは、精神が肉体を所有しているからである。
3.「わたし」にとって臓器移植は可能か。
唯物論的人間観に立つとき、脳以外の身体は、脳の活動が阻害されない限りにおいて、取り換え可能な存在形式における部品であるがゆえに取り換え可能のものである。それゆえに、脳以外の臓器は、理屈上は提供可能な身体であり、同時にレシピエントとして他者の身体も受容可能な身体となる。極端な話、脳を存続させ得るのであれば、他の部分を機械取り換えたいわゆるサイボーグのような存在となっても、「わたし」という存在にとって。その場合、身体の代わりとなる機械は、「わたし」の認識に関わらず、「わたし」の存在形式としての「わたし」の肉体である。
それに対して、観念論的人間観に立つならば、どのようになるであろうか。観念論的人間かにおいては、身体は、「わたし」という自意識の認識によって「わたし」となるが、「わたし」の『身体』として認識されるや否や、それは「それ」化された「わたし」の『身体』となり、「わたし」が立ち現れる「わたし」の所有する『身体』であるが、「わたし」自身ではない。したがって、その身体は「わたし」から分離されて移植可能なものとなるが、「わたし」が「わたし」の『身体』として認識する限り、それは分与されても「わたし」の『身体』である。
一方、レシピエント側にしても、移植された臓器は「あなた」の『臓器』として認識しつつ、「わたし」の存在を立ち現す身体となるし、それによって「わたし」の『臓器』としても認識可能になる。こうして、移植された臓器は、「わたし」にとっては「あなた」の存在を立ち現す「わたし」の『臓器』として認識されると同時に、レシピエントにとっても「あなた」の『臓器』を意識させつつ同時に、そこに「わたし」が立ち現れる。
いずれにせよ、唯物論的にも、観念論的にも人間論的視点から見るときに、脳以外の『臓器』は対象化された事物として移植に用いことができるものである。
4.臓器移植の資源化の問題点
臓器移植が人間論的には可能であるとして、それでもなお臓器移植に倫理的な問題として捕らえられるのはなぜであろうか。
一般的にわれわれは、自分自身が「わたし」の『身体』としての体細胞を、他者に提供することを必ずしも倫理的に否と考えるわけではない。それは輸血や死体(心臓死)移植と言ったものが倫理的問題とされていない現実が如実に表している。つまり、臓器移植において倫理問題があるとして主に主題化されているのは、脳死移植と生体移植である。
脳死移植は、脳死が人の死か否かが論点にある。また生体移植については、香川が、テキストの『命は誰のものか』で、移植医療はドナーにも健康上の問題点をもたらす可能性があることを指摘している。それは主に生体移植を意識してものであり、それはそれで理解できるのであるが、先にも述べたように、それは医療技術の問題である。
人間の『身体』は、ものとして対象化することはできる。その意味で身体は物質であり、それゆえに資源化できる。資源化できる以上、それを商業化(商品化)することも理屈上は可能である。事実、わが国では、かつてはは、民間血液銀行で売血が行われていた。その後、民間血液銀行での売血は1964年に終了したが、しかし血漿分画製剤製造のため有償採漿は1997年まで行われており、法律で売血行為が完全禁じられたのは2002年の「安全な血液製剤の安定供給の確保等に関する法律(血液法)」の改正によってである。
一般に我々は、輸血のための献血には抵抗がないが、売血というとそこには、一種の嫌悪感を伴う「悪い行為と」というイメージを持つ。同様に例えば家族間における生体腎(あるいは肝)移植は、受容できても、他人の腎臓を買って移植すると言われると、そこには嫌悪感や罪悪感をもって受け止めてしまう場合もあるだろう。おそらくそれは、死体(心臓死)移植でも同じ心理ではないだろうか。死んだ人の角膜を買って角膜移植をするとなると、そこにはやはり嫌悪感や罪悪感が伴うのではないだろか。
そこには、人体は資源化できたとしても、人体を商業化することへの嫌悪感であり罪悪感ではないだろうか。それは、なぜなのだろうか。ひょっとしたら、そこには、たとえ資源化できても、それは「わたし」の『臓器』として、「わたし」という存在と密接に結びついているからかもしれない。だからこそ、たとえ資源化しても、他人の命を救うため「わたし」の『臓器』を与えるという崇高な目的に使わる際には嫌悪感がなくても、金銭の為という目的がそこに関与し、身体を商業資源とするときに、それを人身売買として嫌悪感や罪悪感をもって感じるのかもしれない。
以上のことに基づいて、以下の三つの点を挙げ考え、議論した課題を発題として提示したい。
1.臓器を資源化することは問題なのであろうか。特に下記の粟谷剛の二つの報告を参照しながら検討してみたい。
ⅰ バブ氏(29歳)の場合、レシピエント(マレーシア人)と一緒にならんで撮った写真を持っています。大変仲良くなり、今でも手紙のやり取りをしているといっています。これは珍しいケースでしょうが、臓器売買という言葉につきまとう一種のいやらしさのようなものはまったく感じられませんでした。それは、インドにおける臓器販売にはほとんどあてはまるものですが…。ガネシュ氏(男性30歳)は腎臓を売って得た金でミシンを買い、今それをつかってスラムの人たちの服の繕いをして、生計を立てています。家族は母親と20歳になる妻、1歳になる息子が一人。彼は今、幸せだといいました。体の体調も悪くないといいます。何か望むことがあるかと聞きますと、『この仕事が死ぬまでつづけられますように』と答えました[1]。
ⅱ リ氏の事例
-なぜ提供しようと思ったのですか。
リ氏『金が欲しかったからです。減刑、釈放も期待していました。よいことでもあります(下線部は筆者による。)』
-いくらもらったのですか。お金以外に何かもらいましたか。
リ氏『現金で5万ペソ(調査当時1ペソ=約5円)貰いました。他に扇風機とラジオを貰いました。』
-貰った金はどうしたのですか。
リ氏『田舎の家族のために2ヘクタールの土地と水牛1頭を買いました。残りは家族に仕送りしたり、生活費に使ったりしました。貯金も、ほんの少しですがしています。品物は所内で使っています。』
脳死・臓器移植を考える会委員会編『愛ですか?臓器移植』より
この粟屋氏の取り上げた事例では、臓器売買に関する嫌悪感やおぞましさ、といったものは感じれない。だとすれば
臓器移植に感じる罪悪感や嫌悪感あるいは臓器売買に感じる罪悪感や嫌悪感は社会的要因に基づく倫理観にからものなのか、それとも、やはり普遍的な問題からくるものなのかという問い。
この問いを考える時に、考察したい問題として、輸血と臓器移植は、人間の体細胞の移植ということにおいては同じなのだが、輸血と臓器移植は同じ感覚ものとし受け入れられるのさろうか、あるいは角膜移植と肝臓移植は同じ感覚で受け止めらるのか否なのだろうか。受け入れられないとしたらその理由は何なのかを問い、考え、議論してみたい。
また、献血と売血は同じ感覚で受け入れることができることがらなのだろうか。受け入れられないとしたら、その理由はどこにあるのかを問うてみたい。
2.人間の自意識あるいは自己認識は、身体によって規定されるのか、それとも精神によって規定されるのか。
[1] 別添え添付資料参照のこと。またネットではhttps://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/kohyo-24-t298-2-abstract.html (最終閲覧2023.5.8)を参照のこと。
[2] これについては、香川智明『命は誰のものか-増補改訂版』305頁の図表15も参照のこと。また、インターネット上では日本移植学会のHP(http://www.asas.or.jp/jst/general/number/)にある統計を参照のこと。
[3] たとえば、免疫抑制剤の改良に伴う拒絶反応の改善等の事例等に倣うものであるとも言える。
[4] Enchiridion militis Christiani (1504年),『キリスト者兵士必携』
[5] エラスムス「エンキリディオン」『宗教改革著作集2 エラスムス』金子晴勇訳、教文館、1989年、 36頁
[6] 金子晴勇『キリスト教的人間学入門 歴史・課題・将来』教文館、2016年、64頁
[7] 同掲書、72ー73頁参照のこと
[8] この場合、認識は意識を場としてなされるので、精神は意識の働きとして、「わたし」という自己意識を持って立ち現れる。それゆえに観念論においても、脳は鍵となるものである。
[9] 脳死・臓器移植を考える会委員会編『愛ですか?臓器移植』より
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