エラスムスの人間論を宗教改革および現代の人間像と比較しつつ見る、その「実践的意義」

      アジア神学大学院D.Min課程、総合試験

            課題

 エラスムスの人間論を宗教改革および現代の人間像と比較しつつ、その「実践的意義」を論ぜよ。

    序.

    1. エラスムスの人間観とルターの宗教改革における人間観の差異

              2. 現代の人間観とエラスムスの人間観の類似点

    3. エラスムスの人間論のもつ教会における「実践的意義」

    結語

序.

 エラスムスは「ヒューマニストの王者」という称号をもって呼ばれる存在である。また「16世紀はエラスムスの時代」とも言われる。この事からも分かるように、エラスムスは16世紀のヒューマニズムを代表する人物である。
 16世紀のヒューマニズムは、イタリア・ルネッサンスによって起こった古典復興運動である。しかし、P.O.クリステーラーが指摘するように、ヒューマニズムそれ自体には、それ自身を特定するような思想的枠組みを見出すことは難しい。というのも、ヒューマニズムは、いわば当時の古典研究(studio humanitas)であり、当時のhumanistaたちが古典研究に取り組む動機は様々である。
 実際、ダンテ以降のイタリア半島にラテン人による統治を取り戻そうとする政治的色彩をおびた市民的ヒューマニズムもあれば、前出のクリステーラーが指摘する宮廷での書記官として章を得て立身栄達を目指すその目的のためにstudio humanitas にいそしむ者もあった。
 そのような15世紀後半から16世紀前半にかけてのヒューマニズムの動向の中にあって、アグリコラに代表されるイタリアからアルプスを越えた北方に展開したヒューマニズムは、少々趣を異にしてキリスいる。それはキリスト教と言う一種の思想的枠組みの中で展開されたキリスト教ヒューマニズムであると言えよう。
 と言うのも、この北方ヒューマニズムは、古代のキリスト教の復興を目指しており、その意味で北方ヒューマニズムはキリスト教ヒューマニズムと言えるのである。もちろん、このキリスト教ヒューマニズムにも、アリスター・E・マクグラスが言うように、イタリア・ルネッサンスの影響下にあり、その色合いが色濃く表れている。具体的には、ペトラルカを始祖とし、フィチーノやピコ・デラ・ミランドラといったフィレンツェのプラトン・アカデミーにおいて結実したキリスト教ヒューマニズムの影響である。
 この北方ヒューマニズムは、極めて道徳的・倫理的性質を持つ。またプラトン・アカデミーに結実したキリスト教ヒューマニズムは、人間の主体性と善への可能性を、人間の尊厳性の根拠として捉え、人間が人間であるところの人間本性の根源に置いている。エラスムスのヒューマニズムは、この二つが見事に総合された形で展開しており、それがもっとも収斂した形で表れているのが、エラスムスの初期の代表作でありEnchridion de militis Christi (邦題『キリスト者兵士必携』)である。
そこで、本テーマを考察するにあたって、まず宗教改革の人間観とエラスムスの人間観を比較しながら、エラスムスの人間観の特徴的な部分を浮き彫りに死、それをもって現代の人間観と関連付けたいと思う。
 と言うのも、現代と言うには少々薹が立っているが、第一次世界大戦を経て、S.ツヴァイクが顕した『エラスムスの勝利と敗北』において、宗教改革の波に飲み込まれて、いったん歴史の舞台から姿を消したエラスムスとその思想が、けっしてエラスムスの名前を冠してはいないが、しかし確かに蘇っていると述べているからである。ツヴァイクの著作のタイトルである『エラスムスの勝利と敗北』の「勝利と敗北」は、まさにそのような事態の中にエラスムスの「勝利と敗北」を見ているからである。
そこで、本論考においては、まずエラスムスとルターの人間観の比較を、エラスムスとルターの間で繰り広げられた自由意志論争を視野に入れつつ比較しつつ、そこから現代の人間観とエラスムスの人間観の類似性を見ていきたいと思う。エラスムスとルターの自由意志論争は、両者の人間観の違いがより先鋭的に表れた局面である。また、そこに現れたエラスムスの人間観の特徴と現代の人間観の類似性を捕らえるとき、そこのエラスムスの人間観が現代の教会、とりわけ日本における福音派と呼ばれる一団に属する教会にもたらす意義というものが見えてくる。

1. エラスムスの人間観とルターの宗教改革における人間観の差異

ルターの宗教改革は、1517年10月31日付で世に出された95カ条の提題(贖宥の効力を明らかにするために討論)による贖宥という事柄を巡る教理的改革であるが、その95ヶ条の提題の根底にある人間観は、95ヶ条の提題に先駆ること一か月前にルターが世に問うた97ヶ条にわたる『スコラ神学反駁』の中に現れている。
その「スコラ神学反駁」でルターが述べていることは、人間は善を行うことができない悪い木であり、徹底的に堕落した存在であるということである。このような人間観に立ちルターは、ガブリエル・ビールやウィリアム・オッカム、さらにはスコティウスといった唯名論につながる神学者たちを批判する。まさに97ヶ条に渡る『スコラ神学反駁』の中心には、これら唯名論の神学者たちの救済論に対する批判があるのである。
唯名論における救済論は、神の人間を救おうとする意志と愛が、人間に神を求める信仰を注入し(infusa fide)、それによって人間の神を求める信仰と人を救おうとする神の意志とが相まって救いの出来事が起こるというものである。このとき、神によって信仰を注入された人間は、その自由な意志と主体性をもってこれを拒否することもできる。そのような唯名論の救済論は、人間の絶対的な罪性のゆえに、神の前(coram Dio)で(救いをもたらすような)善をおこなうことができないと考えるルターにとっては受け入れ難いものである。それは、『スコラ神学反駁』の中に顕著に読み取れるものであるし、のちにエラスムスと自由意志論争を繰り広げた際のルターの主張が著された『奴隷意志論』にも顕われている。
このように、ルターは人間が罪を犯すという現実に目をとどめ、その事態をもって人間を罪のゆえに罪を犯さざるを得ない罪びととして規定する。そしてそのようなような人間観に立って、神の恵みのみ(sola grlatia)によって救われなければならないする。つまり、人間を贖罪論的に捉えた贖罪論的人間観によって見ているのである。そこには、人間(ルターの場合は、さらに突き詰めた私と言う罪びとである存在)の罪が赦されるのかということへの関心がある。
ボルンカムや金子晴勇は、このようなルターの人間観を現実的な人間の姿を描いたものであるという。それに対してエラスムスの人間観は理想的な人間像を描く人間観であるという。それは、エラスムスの人間観が、人間が人間であるところの人間の本性(natura)に沿って、人間があるべき姿に向かっていかに生きるかということをその思想の中心主題に置いているからだという。そしてその人間の本性こそが神の像(imago Dei)であり、人間の在るべき姿として神の似像を見ている。
確かに、我が国のエラスムス研究の第一人者である木ノ脇悦郎も認めるように、エラスムスの思想の核心に理想的人間を目指して主体的に生きる生というものが見据えられていることは確かなことである。その意味でエラスムスを理想主義者と呼ぶことは間違っていない。そのエラスムスの理想主義は、エラスムスが1599年に渡英した際に出来上がったT.モアやJ.コレットといった英国ヒューマニズムの面々との親しいい交流関係を通して得たフィレンツェのプラトン・アカデミーの、中でもとりわけピコ・デラ・ミランドラの影響によるものであろう。ピコは、その著書『人間の尊厳について』において、人間の主体性に人間の尊厳の土台を置き、人間の善への可能性を高らかに謳う。エラスムスの思想には、そのピコの主張の反映を見て取られるのである。
しかし、だからといってエラスムスは人間が罪を犯す現実を見落としているわけではない。エラスムスもまた人間が罪を犯す現実をしっかりと捉え、見据えているのである。それはエラスムスの『キリスト者兵士必携』の中にも、またローマ人への手紙のパラフレーズの中にも顕われている。
エラスムスは、『キリスト者兵士必携』の中で、人間の罪の現実をプラトンの『ティマイオス』を中心にしつつ、霊肉二元論で捉え説明している。すなわち、人間は天的(神的)なものを求める霊と「この世」的なものを求める肉をもった存在として捉え、肉が霊を支配してしまっている状態が罪であるというのである。そのうえでエラスムスは人間が悪を行うだけでなく善を行う現実を見据えるのである。この点においてはエラスムスの理想主義は確かな現実理解の上に立った理想主義である。
ルターは、この人間が善も悪も行う現実を「神の前で(coram Dio)」と「人の前で(coram Humanibus)とに切り分け、救済と倫理とに分節したが、エラスムスはそのようなことはしない。エラスムスはオリゲネスの霊肉魂の三元論を用いつつ、倫理もまた救済の業の中において捉える。つまり、どうして人間は善と悪とを行うのかと言う問題を、オリゲネスに倣いつつ霊と肉の間に自由な中立無記な魂と言う存在を置くことによって理解し説明するのである。
 エラスムスは、この魂が肉と結びつくとき、人間は肉が霊を支配するという罪の状態に置かれ罪びととして悪を犯す者となるなるが、逆に魂が霊と結びつくとき、人は神と人の前に善を行うものとなると言う。そしてこの魂と霊とが完全に一致するとき人間は完全な霊、すなわち霊の完全性に至るのであるから、この霊の完全性を目指して生きて行くべきであるというのである。
 ここには、オリゲネスが『創世記注解』で見せた救済観の影響が見られるが、要は、人間は教育や修練による敬虔な生によって、人間が神の創造の際に与えられた神の像にそって神の似姿を形成するという人間形成をなすことによって霊の完全性に至ることが救いであるという創造論的・人間形成論的人間観に基づく救済観がある。そこには、人となった神であり完全な霊であり、神の像であるイエス・キリストの模範があり、このキリストに倣い、キリストと結ばれることで霊の完全性に至るという救済の論理がある。ここにおいて、教育や修練による敬虔な生は、キリストに倣い、キリストと結ばれるためになされるものである。したがって、救済の中心にはキリストがいる。
 このようなエラスムスの創造論的・人間形成論的人間観と贖罪論的人間観とが激しくぶつかり合ったのが、ルターとエラスムスの間で繰り広げられた自由意志論争であり、そこで主題化されたのか、人間の主体性と善への可能性なのである。

2. 現代の人間観とエラスムスの人間観の類似点

 先にも述べたように、S.ツヴァイクは、宗教改革の波に飲み込まれていったん歴史の表舞台から消え去ったかのように見えたエラスムスの思想が蘇ってきたと言う。では蘇ってきたという内容はなんであろうか。ツヴァイクによれば、それは人間の尊厳性の強調と平和主義である。
 既に見てきたように、エラスムスはルネッサンスを母体とするキリスト教ヒューニズムの流れにあってプラトン.アカデミー等で強調された人間の尊厳性を強調するヒューマニズムを受け継いでいる。また、エラスムス自身、争いを好まず、平和主義者であったことは既に知られている。実際、エラスムスは、戦争好きの教皇と称されたユリウス2世を匿名の書として著した『天国から閉め出された教皇』で批判し、『平和の訴え』を著すのである。
 現代における人間の尊厳性の強調と平和主義の思想は、とりわけ国連の世界人権宣言の中においてたからかに謳われている。そこにおいて人間の尊厳性は、まさに人間の自由の中に見出されている。この世界人権宣言を見る限り、エラスムスのキリスト教ヒューマニズムの核となる思想は、確かにツヴァイクが言うように現代人が希求し尊重しているものであると言えよう。少なくとも、エラスムスの思想は、このような現代人の希求にコミットしうるものである。
 この人間の尊厳性と平和を求める思いは、人間が人間として生きて行くうえで不可欠なものであるとして考えられている。まさに人権が尊重されていくための根幹をなすものである。そのことを学問的枠組みで捉え、人間性心理学と言う範疇の中で明らかにしていったのがA.マズローであろう。
 マズローは、こと日本においては、一般的に産業界において動機づけ理論の一つとして受け入れられているが、実際には人間が人間として生きるということはどういうことかに着目して人間を観察し叙述した現代の学者である。そのマズローの人間観の根底にあるのがいわゆる欲求段階説である。マズローは人間の行動の背後には何らかの欲求があるとして、人間を欲求する存在であるとして捉え、人間の欲求を階層化された5段階に分類する。そして、その階層化された5段階の欲求を充足しながらより人間らしく、そしてより自分らしく生きるようになるのだとマズローは言う。
 マズローが階層化する欲求の5段階とは、下層部から生理的欲求、安全への欲求、帰属への欲求、承認欲求、自己実現欲求である、このような階層化された欲求に対し、エラスムスもまた人間の肉の属する肉性である情念を3段階に階層化する。下等な情念、抑制すべき情念、高尚な情念である。そして、この階層化された情念の上に霊に属する理性を置く。この理性は人間を霊に沿って生きるようにと導くもので、人間が本来、神の像としては創造された存在として天的(神的)なものを求めてい来る人間の本来あるべき姿を求めるものである。マズロー的な言い方をすれば自己実現の欲求であると言えよう。
 このように、マズローの欲求段階説はエラスムスの人間理解と極めて類似しているが、その類似性を以下に図示してみよう。

 このようにマズローの人間性心理学にもとづく人間理解とエラスムスの人間の情念に関する理解とは極めて類似する構造を持っているが、驚くことにマズローは、人間が自己実現への欲求を充足した先にはある種の宗教経験的な至高経験ともいう神秘的経験があるという。そういった意味でも、マズローとエラスムスは近接する。
 この近接は、系譜学的なつながりによって生み出されたものではない。マズローとエラスムスとの間には系譜学的接点はない。しかしこの両者の間にこのような類似性が生まれてくるのは、その人間理解が単に形而上学的に人間を叙述するところからくるものではなく、現実の人間を観察し叙述するという科学的プロセスによって紡がれているからである、
 マズローは現代の学者であり、また人間性心理学という一分野を切り開いたものとして、その方法論は科学的であり帰納的である。それに対してエラスムスは、単に聖書の記述から演繹的に人間を叙述しようとするのではなく、現実に生きる人間を観察しつつ、ヒューマニストとして古典研究を通して、古代ギリシャや古代ローマの古典を通して、プラトンやアリストテレスといった哲学者やイソクラテスと言った修辞学者が人間をどのように捉えていたかを学び、また古代教父のオリゲネス等に学びつつそれを聖書に落とし込みながら練り上げてきた人間像である。こうしてみると、エラスムスの描き出す創造論的・人間形成論的人間観は、きわめて通歴史であり、普遍的であると言えよう。それゆえにエラスムスの人間観は、様々な姿でもって現代の人間像の中に現れ出ているのである。

3. エラスムスの人間論のもつ教会における「実践的意義」
 エラスムスの創造論的・人間論的人間観が現代の人間観にコミットするものであることは前述で述べたとおりである。それは、神学的にも、宣教論上も、また牧会的においてもプロテスタントの教会、とりわけ日本のプロテスタントの教会、中でも福音派と呼ばれる一団にある教会にとっては非常に大きな意味を持っている。というのも、既に見てきたようにエラスムスの創造論的・人間論観は、単に倫理的・道徳的ないわゆるキリスト教倫理の枠組みでだけで考察されるものではなく、極めて救済論的な次元で捉えられているからである。
 基本的に西方教会の伝統につながる教会は、救済論を贖罪論で語り伝えてきた。そこでは、福音の中心に罪の赦しがあるとして、罪の赦しを主題化した神学的営みがなされてきた。そのため、そこにおいては救済論と倫理とが分離し語られてきた。この事に対しては、リベラルな立場においてはラウシェンブッシュの「社会福音」やカトリック教会内ではグティエレスの「解放の神学」等によって、この分節された二つを総合する試みがなされてきているが、福音派においては、ようやく1974年のローザンヌ誓約において、人間存在を霊と肉をもつ全的存在として捉え、イエス・キリストの福音はその全的人間に及ぶ全的福音であることが確認されたが、しかし、その全文を見る限り、未だ、魂の救いという贖罪論的な個人の救済に主眼が置かれ、救済と倫理とは完全に総合されてはいない。むしろ明確に分化された状態で語られていると言って良い。
 ローザンヌ誓約は、以後ローザンヌ運動として維持・継続され、2010年のケープタウン・コミットメントにおいて、さらに公共性の強い救済論の構築への決意が見られ、ローザンヌ誓約よりもより全的福音の神学的理解の構築へ踏み出している。そのような状況の中で、エラスムスの創造論的・人間形成論的人間観は、救済と倫理とが分離することなく、信仰は決して私事化することなく、むしろ公共性にむかうものであり、ケープタウン・コミットメント以降の福音派の神学構築に寄与する内容持つ意義ある存在である。もちろんそれは、「社会福音」や「解放の神学」に対しても、それを下支えする神学的人間観となりうるものである。
 また、エラスムスの人間観は、教育の場に於いても極めえ重要な意義を持つ。というのも、ギリシャ哲学と修辞学を土台とし、ルネッサンス的人間観の延長線上にあるエラスムスの人間理解は、そのうちに、宗教改革の人間観が敢えて、意図的に見落としてしまった人間の善への可能性を、決して見落とすことなく捉えているからである。
 人間にとって最も善なることは、善の究極の根源である神への接近であり、人の生が神へと神化すること(Θέωσις )にある。それこそが、イエス・キリストの受肉の意味であり、救済の目的である。この善への可能性が人間の内に在るからこそ、教育に意味が生じる。それは、コメニウスやニュートハンマー等に受け継がれてきた近代教育の根底にある人間観を支えており、キリスト教教育のきそとなるものである。
 宗教改革以後のプロテスタント神学においては、人間の堕落性が強調され、人間の善への可能性が否定されてきた。そこには、人間は、神の前で教育によって人間が良くなるという視野も否定され、現実に行われるキリスト教教育の意味も失われる。エラスムスの人間観は、そのようなキリスト教教育に命を与える人間観なのである。

結語
 神学は、自分自身の信じる信仰を顧み内省する行為である。それはそれまで信じられてきたものまでも考察の対象として主題化する行為である。その意味で、エラスムスの人間論は、宗教改革的人間論を内省するために、極めて有益な分析概念として機能する。その意味で、我々がエラスムスの人間論は、プロテスタント教会の伝統的な神学をブレークスルーするためのよいきっかけを我々に与えてくれるものであると言えよう。

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