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イタリア語の慣用句piantare in assoについて


piantare ~ in asso

イタリア語の慣用句で次のようなものがあります。”piantare ~ in asso”「〜を置き去りにする」。この慣用句についてその由来を考察してみたいと思います。
 
まずイタリア語をご存知でない方のために字句の解釈を。
piantareは名詞pianta「植物(英plant)」の動詞形であり、したがって「(植物などを地面に)植える」が原義ですが、そこから転じて「(何かを)地面に突き刺す、放置する」の意味があります。問題はassoの方です。辞書を引けば「(トランプの)1の札」、つまり英語のace「エース」と載っています。つまり冒頭のpiantare ~ in assoは「エースに〜を突き刺す(放置する)」ということになるのですが、でもなんだかよくわかりません。
 
大卒程度の教養のあるイタリア人にこの慣用句の由来を尋ねたら、次のような説明が返ってくるでしょう。「asso「エース」となっているけど、これはもともとNassoだったんだ。先頭のnが脱落したんだね」と。Nassoとはギリシャのナクソス島のイタリア名です。ナクソス島にまつわる有名なギリシャ神話にくだんの慣用句は繋がっていくのです。その神話とは、有名なテセウスとミノタウロスとアリアドネに関する物語です。ご存知でない方のために次に物語のあらすじを記します。

ミノタウロスの神話

昔、クレタ島の王、ミノスは、頭が雄牛で胴体が人間のミノタウロスという怪物を飼っていたのですが、危険なので、天才建築家ダイダロスに命じ、迷宮を作らせ、その中心にミノタウロスを置いておきました。ミノタウロスは生贄に少年少女を必要とし、ミノス王は属国アテナイにそれを毎年差し出すように要求します。
このことに業を煮やしたアテナイの若き英雄テセウスはミノタウロス退治に出かけます。しかし迷宮はあまりにうまくできていて、たとえミノタウロスを殺すことに成功しても迷宮からうまく脱出するのは困難に思えました。
ここでテセウスに恋をしたミノス王の娘、アリアドネがテセウスに入れ知恵をします。彼女が出口に待ち、テセウスは彼女とつながる糸を持って迷宮入りをする。そうすればミノタウロスを殺したあと糸をたどって出口に出られると。ただし、その協力の条件は彼女と結婚することでした。
テセウスはその条件を承諾し、言われたようにして首尾よくミノタウロスを殺し、出口から脱出、約束通りアリアドネを連れ、船でクレタ島から逃げ出します。
ところが、途中寄ったナクソス島で疲れて寝ているアリアドネをなんと置き去りにしてしまい一人で出帆してしまいます。置き去りにされたアリアドネは悲嘆に暮れて泣き叫びます・・・

オウィディウスの詩

この物語はギリシャ神話ですが、ローマの詩人オウィディウス等によっても何度もとりあげられ、ギリシャ神話の中でも最も有名なエピソードと言っても過言ではないでしょう。オウィディウスの詩を引用します(ラテン語:長母音記号は省略します、すみません)。
 
Utque erat e somno tunica velata recincta,
nuda pedem, croceas inreligata comas,
Thesea crudelem sudas clamatbat ad undas,
indigno teneras imbre rigante genas.

 (訳)
目覚めに着崩れたチュニカを身にまとい
裸足で髪はほどけ
「テセウス、不実な人」波に叫ぶが、波には聞こえず
柔らかな頬を哀れな雨(涙)で濡らすのみだった
(オウィディウス「愛の技法」から)

極めて印象的な、想像しやすい状況ですよね。このドラマチックな場面のゆえに、この神話は有名になったのでしょう。ちょっと突飛な連想かもしれませんが、尾崎紅葉の金色夜叉の有名な場面を思い出させます。一高の学生であるエリートの貫一が許嫁であったお宮と分かれる場面ですね。余談ですが、金色夜叉を読んだことのない人はあのシーンを物語のクライマックスだと思っているようです。本当はあれがむしろ物語の始まりで金色夜叉は恋愛破綻のメロドラマではなく、このあとに続く貫一の転落人生の物語です。同様にテセウスがアリアドネを置き去りにするのも実はクライマックスではなく、このあとアリアドネをかわいそうに思った酒神バッカスがアリアドネに求愛するというある意味ハッピーエンドが待っているのです。
それはさておき、どちらもあまりに物語の中途に過ぎないのにクライマックスだと誤解してしまうほどヴィヴィッドな情景といえるでしょう。

果たしてこの神話と慣用句に関連はあるのか?

閑話休題。慣用句に戻ります。piantare ~ in asso (Nasso)はそういうわけで「ナクソス島におきざりにする」。かわいそうなアリアドネになぞらえた、極めてヴィジュアルに訴える慣用句というかんじがします。イタリアでは多くの中高生がラテン語(場合によっては古典ギリシャ語も)学びますが、そうした授業の読本の中に必ずこのエピソードは登場するでしょうし、そのときに学校の先生はイタリア語の慣用句と結びつけるでしょうし、生徒たちの脳裏にはその結びつきが鮮烈に残ることでしょう。
 
ところが、ところが、この解釈は「嘘語源」なのではないかという説も根強くあるのです。つまり慣用句のなかのassoはNassoのことではない、そのままassoなのだという説です。


「エース」はほんとうに「エース」か?

どういうことでしょうか・・・
assoは前述の通り英語の「エース」に相当するイタリア語です。トランプ52枚のなかで4枚存在する「1」の札です。トランプはハート、スペード、クラブ、ダイヤモンド4種類がそれぞれ1から13まであるわけですが、1はそのなかで最小の値であるにも拘らず多くのゲームの中でエースは特別な役割を与えられています。だからこそ「エース」は英語でも日本語でも「一番強い人」を指す言葉として使われているわけですし、イタリア語のassoも全く同様な意味で使われます。
ところがassoという語に常にそのような意味合いがあったのではないかもしれないという可能性があるのです。もともとこの語はラテン語のasseから来ています。asseはラテン語ではコインの名称でした。特定の価値のコインを指すのか、コインというものの総称なのかは定かではありませんが、「1」を指すことになるくらいなのでそれほど価値のあるコインではないでしょう。そしておそらくトランプの「1」を意味することになる以前にまずサイコロの「1」の目を表す言い方だったようです。(トランプよりサイコロのほうが明らかに起源は古いです。カエサルの「賽は投げられたAlea iacta est.」でわかるように少なくともローマ共和制時代からあるわけですし、その時代にもちろん紙じたい存在していなかったわけですから)

話はトランプの歴史に

さて、ここでちょっとトランプのことを考えてみます。トランプもそれなりに起源は古いのですが、近代までは(むしろ現代でも、というべきかも)国ごと、地域ごとにいろいろな種類があります。我々が親しんでいるのは英米式トランプと呼ばれるものであり、様々なトランプの変種のうちの一つにしか過ぎません。イタリアにはイタリアのトランプがあります。というよりむしろイタリアが統一国家になったのは最近の話でそれまでは別々の国に分裂していたという事情もあり、地域ごとに微妙に異なったトランプを使っています。おそらくその中でいちばん有名なのはcarte napoletane「ナポリ式トランプ」でしょうが、それ以外にも地域ごとにいろいろあります。
私も1980年代にイタリアに留学している頃はよくナポリ式トランプで友人たちと遊んでいました(テレビゲームもネットもない時代なので)。

ナポリ式トランプの図柄

おなじみのダイヤ、ハート、クラブ、スペードの代わりに上から順にコイン、聖杯、棍棒、剣になっているのがわかります(それぞれに多少、英米式と関連があるのがわかりますよね)。さらに1から7までしかなく、その上はジャック、クイーン、キングの代わりにfante「歩兵」、cavaliere「騎士」、re「王」です。
このなかでダイヤの1は双頭の鷲(?)が描かれていて勇ましいですが、それ以外の1は普通に描かれていてとくにエースが特別視されている感じはしないと思います。麻雀の牌と同じような感じですよね。
別の例を挙げてみます。今度は日本語のウィキペディアからお借りしてきた写真です。

仏式トランプと英米式トランプ

私は実物は見たことがないのですが、上の画像はフランス式のトランプだということです。さきほどのナポリトランプに比べると、ぐっと我々の知っているトランプに似ている感じですけれど、ウィキペディアのキャプションにもあるようにエースの札には単純に「1」と書かれています。下の画像(英米式)で「1」は「A」と書かれているのと好対照です。
前述のように、私自身、1980年代のイタリア留学中には友人とナポリトランプを使ってしょっちゅう友人たちと遊んでいました。当時はまだまだイタリアではこのトランプが普通だったので。しかし残念ながら、ルールに関しても殆ど覚えていません。しかし、「1」の札はあくまでも「1」であり、「エース」としての特別な力は特に付与されていなかったように思います。つまりイタリア式トランプでは「1」は他の札とは違ってassoという愛称は持っているけれどもあくまでも価値としては、サイコロの1がとくに素晴らしい目ではないのと同様に、多くのゲームにおいて、他の札に劣る「1」でしかなかったように思われるのです。トランプのジョーカーはババ抜きでは嫌われる札で「ババ」の別称を持つように、賭け事においては不吉な、できれば持ちたくない札や目にはしばしば別称が存在するのは人間心理的にすこしわかる気がします。「やっべー!ジョーカーひいちゃったよ!」より「やっべー!ババひいちゃったよ!」と言いたくなるわけです。逆から言うと、Aceに特別な価値を与えるのはもともと中国では存在しなかった麻雀のドラがあとから日本で付け加わったようなものなのではないかと推察します。
ヴェルディにLa Traviata (邦題は「椿姫」)というオペラがあります(イタリア語の台本ですが、舞台は19世紀のパリ)。ヒロインである椿姫を巡ってアルフレッドという椿姫の元夫とその恋敵である男爵がトランプで人生をかけた大勝負を繰り広げます。ルールは戯曲の中ではもちろん詳しく説明はされませんが、おそらくごく原始的なもので、バカラのように、伏せた2枚のカードでより大きい数字と思われる方に掛けるだけのようです。ディーラーとアルフレッドと男爵3人の掛け合いによる歌詞を引用します。
 
Cento luigi a destra!
Un asso!... Un fante! …Hai vinto!
Il doppio?
Doppio sia!
Un quattro … Un sette! Ancora!

 
(訳)
ア:右のカードに100ルイを!
デ:エース! こちらは歩兵(訳注:ジャックに相当)! アルフレッドの勝ち!
ア:掛け金を倍にしよう!
男:もちろんだ!
デ:4! こちらは7! またアルフレッドの勝ち!

アルフレッドは連勝します。この1回目の勝負、エースとジャックのどちらにアルフレッドが張り、勝ったのかはわかりません。でも2回目の勝負は4と7でこれはあきらかに7の勝ちでしょう。適当な推測ですが、ディーラーが同じ順番でアルフレッドが張ったほうのカードから読み上げていると仮定すれば、エースはジャックに負けています。

エースはいつからエースになったか

エースが最小の数「1」でしかないのにむしろ最強のカードになったのはいつからか。さらにトランプの歴史を詳細に調べる必要が生じました。どうやらイタリアで第一次世界大戦の頃に流行ったBriscolaというゲームがほぼ初めてエースをキングより強いものとして扱ったゲームのようです(更にその原型は18世紀にフランスで成立したBrusquembilleというゲームらしいのですが)。これも日本語版ウィキペディアにちゃんとルールが載っていました。

ブリスコラというゲームにおける札の価値

なぜか「3」のカードの得点が高い謎ルールですが、少なくともエースが一番得点の高いカードとして見て取れます。
ゲームだけではなく言語学的にみてもエースには意味の変遷があるようです。もうすでに現在では廃れてしまった慣用句のなかにはエースが一番価値が低いカードであること、サイコロの1の目であることから来ていると思しき意味で使われているものがわりにあるようです。たとえば・・・

fare l'asso 直訳すると「エースをする」、意味は意外にも「失敗する」
cadere dal sei nell'asso 直訳すると「6からエースに落ちる」、意味は意外にも「落魄する」

どちらもエースに良い意味はありません。ところが時代が下って、Briscolaが流行った頃からはassoが正反対の意味で使われている慣用句が登場します。

avere un asso sotto la manica 直訳すると「袖の下にエースを持っている」、意味は「切り札をまだ隠し持っている」

再度、assoかNassoか?

こうしてみてくるとどうやら今回のテーマのpiantare in assoもassoでよいのであって、むりにNassoの誤記であると牽強附会する必要はないように思えてきます。そのままで十分「ひどい状況に置き去りにする」の意味になるわけですから。
ところが面白いのは、おそらくはまだassoに「ひどい状況」という意味が十分あった時代から、「いやそれでもやっぱりNassoだ」と言い張る意見がずっとあったことです。
フランスのアカデミー・フランセーズに相当する国語純化運動を推進する団体がイタリアにもあり、クルスカ学会と呼ぶのですが、17世紀にこの団体が出版した辞書にもpiantare in Nassoが記載されているそうです。というのも15~6世紀の作家にpiantare in Nassoがそれなりの頻度で使われていたという事情があるからのようです。
言語学の言葉で「過剰修正」というものがあります。たとえばviolinを「バイオリン」と表記するのはけしからん、「ヴァイオリン」と書け!とここまではよいのですが、さらにArabまで「アラヴ」と書いてしまうような誤解のことです。piantare in assoという人口に膾炙していたはずの表現を敢えてpiantare in Nassoと記述した作家たちは過剰修正をしてしまったのでしょうか。それとも一種の掛詞のように、または縁語のように、ヴィヴィッドなアリアドネのイメージを借用しようとしたのでしょうか。こればっかりは誰にもわかりませんが想像力を掻き立てる話です。




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