究極のメニュー、あるいは不老不死の妙薬
究極の物質、食べ物、飲み物、薬
人類は太古の時代から世界の一番純度の高い究極の物質や神々の食べ物飲み物、永遠の命を与えてくれる薬などを夢想し、時代が下っては、錬金術に頼りそれらを作り出そうと試みてきました。そうした夢の物質を表す語はふんだんにあり、西欧近代語に明らかな痕跡を残しています。
近代語の中でも比喩的に使われることをよく目にする、けれどよくその成り立ちがあまり知られていない、そんな語を集めてみようと思いました。
(後記)ところが、語源で遊ぶくらいのつもりでいたら、いろいろ単語やその語源とはあまり関係のない話になってしまい、かなり分量的にも大部なものになってしまいました。
暇な人だけ読んでください。
ἀμβροσία(古ギリシャ語) ambrosia(羅)ambrosia (伊) ambrosie (仏) ambrosia ( 英)
いろいろな天空の物質を表す語のうち最も歴史が古いのがアンブロシアでしょう。なんとなくいろいろなレストランの名前、会社(とりわけ食品関連の会社)の社名などで見かけたことがあり音としてはなじみがあるのではないでしょうか。
ギリシャ神話の中で神々が住んでいるオリンポス山、そこで神々は毎日楽しく宴会をしていると考えられていました。その宴会での神々の食べるものこそがアンブロシアです(余談ですが、日本語では神の食べ物のことを神饌[しんせん]というそうです)。
当然神々の食べ物ですから単に美味しいと言うだけでなく不老不死と結びついています。古典ギリシャ語でβρότος [brotos]は「死に至る、死ぬ運命の」を表す形容詞、さらには「(不死身ではない)人」を表す名詞であり、音がかなり変わってしまうのでつながりが見えにくいですが、ラテン語のmortuusを経て、イタリア語のmortaleや英語のmortalに繋がっていきます。
これにギリシャ語の否定辞a-がついてできたのがἄμβροτος [ambrotos] 「不死の」であり、そこから派生したのがambrosiaです。まさに不老不死の神々の食べ物です。
βρότοςという形容詞に関してはぎゃくに語源を遡ると印欧祖語、サンスクリットまで遡れるようなので、今回のテーマの冒頭に挙げるにふさわしい語です。
ところでなんと花粉症のアレルゲンとして有名な「ブタクサ」!・・・あれの学名はambrosiaです。べつに食べて美味しいわけでも不老不死が約束されるわけでもありません。単に引っこ抜いてもまた生えてくるしぶとい草だからだということですが、このあたりは未確認情報。でもこの語義もギリシャ語の辞書に載っているので、古代からブタクサはambrosiaと呼ばれているのでしょう。なんか不思議な気分ではあります。
νέκτηρ(古ギリシャ語) nectar(羅) nettare(伊) nectar(仏) nectar(英)
さて神々が食べていたのがアンブロシアで、それと一緒に飲んでいた飲み物がネクターです。不二家から出ている超ロングセラー商品、桃の甘いジュースの名前としてあまりに知られているネクターはここから来ています。不二家のネクターは神々の飲み物のように美味しいというのが命名の機縁というわけです。
かといってもちろん、神々が桃のジュースを飲んでいたわけではありません。英語のnectarもイタリア語のnettareも濃厚な果実の「蜜」を表す語です。ギリシャ語やラテン語でも場合によっては濃厚な牛乳や羊の乳、場合によっては蜂蜜などレトリックの要請によっていろいろ味の濃い濃厚な液体を比喩的に指し示すのに使われていますが、もしかしたら朝露のようなもの清新なもの、もしかしたら人知の及びもつかない味わいかもしれません。とくにこのような味わいというコンセンサスはないようですが、味に関する記述を気をつけて探して見たいと思います。ご存じの方は教えて下さい!
アンブロシアとネクター
そんなわけで古典語のなかでアンブロシアとネクターは「酒と肴」という日本語と同じようにセットで使われます。ギリシャ語で言えばἀμβροσία καὶ νέκτηρです(καὶ はギリシャ語で英語のandに相当)。英語でもよいです。ambrosia and nectarでググってみてください。やまほどヒットするはずです。英文の中で使われているというよりは、本のタイトルやレストランの名前や商品名など固有名詞として使われている場合がほとんどですが、いまでもギリシャ神話がイメージ喚起力を持ち続けていることはわかります。
逆に遡ると、古くはヘシオドスにも記述があります。
ヘシオドス「神統記」
ここでちょっとギリシャ文明史のおさらいを。
古代ギリシャ最初の詩人はいちおうホメロスです。イリアスやオデュッセイアの著者として有名な、ヨーロッパ最古の詩人です。作品の成立は紀元前8世紀ということになっています。「いちおう」と書いたのは、学術的にはホメロスは実在がほぼ否定されているからです。これらの作品は口承文芸であり、プロの語り部が代々受け継いできたエピックがかなり時代が経ってから(紀元前6世紀ごろ)ようやくテキストとして固定されたので本当に一人の作者が作り上げたのか、しかもその一人は本当にホメロスという名であったのか等々疑念が尽きないわけです(というか前述のようにどちらの可能性もほぼ完全に否定されています)。
そのホメロスのほぼ同時代人がヘシオドスです。ホメロスと一緒に「歌くらべ」をしたという証言もあり、もしホメロスが実在していたのなら(その可能性は否定されているわけですが)ほぼ同時代人と言ってよいのでしょう。
ヘシオドスは農民です(この時代に農民でしかも詩を残すというのも考えてみるとすごい話ですが)。華々しい叙事詩を書いたホメロスとは対照的に、貧しくしかし実直な生活の中での記録や当時民衆の間で言い伝えられていた神話をまとめた著作を著しました。またホメロスの実在がほぼ否定されているのに対し、ヘシオドスのほうはいちおう実在は認められています。
このようにヘシオドスはホメロスと対照的でもあり、しかし同時に同時代人でもある上、この2人を最後にギリシャはしばらく混乱の時代に入り前6世紀ころまでは様々記録が途絶える、いわゆる「ギリシャの中世」の時代に入ってしまうので、ギリシャの文明史の中でホメロスとヘシオドスの2人だけがギリシャ文学の創始者として屹立しているかんじであるわけです。しかも片方が実在が否定されているということは、ヘシオドスこそがギリシャ文学の父と言ってもよいかんじです。そのヘシオドスの著作(人物の実在は疑われないとしても著作がほんとうに彼の作なのかどうかは作品ごとに色々議論があるようです)のひとつが前述の通り神話をまとめた「神統記」です。
なにか日本の古事記とか日本書紀とかと同じように日本の古典かと思ってしまうようなタイトルですがそうではありません(おそらく明治期あたりに最初にこれを邦訳した人がうまい具合に漢語を使って邦題を決定したのでしょう。それが誰だったかは調査中。ご存じの方はこれも教えて下さい!)。
「神統記」は、ギリシャ文学の文字として残るほぼ最初の作品であると同時に、タイトル通り、ギリシャ神話の神々の系譜を辿った詩で、彼がギリシャ神話の神々を考案したわけではもちろんないのでしょうが、いわばギリシャ神話の「聖書」のような役割を果たしてきました。
前置きが長くなりましたが、そのなかにアンブロシアとネクターに関する叙述があるので引用します。
ここの「彼ら」とは内ゲバを続ける巨人族という神々で、戦いに疲れたのだけれど、この食事で元気を取り戻す場面が描かれているわけです。
ここで明らかなのは、アンブロシアとネクターは単に神々の食事というだけではなく、神々に元気を与えるいわば精力剤のように描かれているということです。後述しますがこれが後世物議を醸します(物議と言うほどでもないのですが)。
オウィディウス「変身物語(変身譚)」
さて時代は下り、ちょうど紀元前から紀元後にかわる頃。ところも変わり初代ローマ皇帝アウグストゥス治世のローマ。ご存知、ローマ最大の詩人のうちのひとりオウィディウスがこの時代に活躍します。詩人としてのキャリアのほとんどは恋愛詩人として軽妙洒脱、場合によるとかなりエロティックな詩を歌っていたオウィディウスですが、キャリア後半に初の叙事詩、しかもそうとうな大作を書き上げます。それが原題の「メタモルフォセス」の名でも知られる「変身物語」です(少なくとも昭和の時代には邦題として「変身譚」が普通だったと思うのですが「譚」という語に馴染みがない人が増えたという事情を慮ってか最近は「変身物語」と呼ばれるようです。でも「変身譚」というタイトルにも個人的に愛着があるので見出しには併記しました)。
この著作はいわばギリシャ神話のアンソロジーであり、タイトルの通り変身がからむいろいろなエピソードがオムニバス形式で語られています(正直、私は通読していません)。そしてそのなかにアエネアスのイタリア到着の場面が描かれています。
ホメロスが叙事詩イリアスでトロイ戦争を歌って以来、トロイ戦争は古典文学のトポスです(トロイの木馬で有名な、あれです)。ものすごく簡単に30字でストーリーを要約するなら、トロイアという小アジア(今のトルコ)にあったであろう街がギリシャ軍に侵略されて滅ぼされる物語ですが、それをオウィディウスとほぼ同時代のローマの叙事詩人ヴェルギリウスが翻案し、イリアスは戦争の場面で物語が終わっていたものを、後日談を付け加え、「アエネイス」というローマ詩最高傑作を書き上げます。
その後日談というのは、トロイア王家の末裔、アエネアスが命からがらトロイアから脱出し、長い航海の挙げ句、最後にイタリアにたどり着き、イタリアの建国の父となったという物語です。これが書かれたのはローマの帝政がまさに始まったところであり、良く言えば帝国に根拠を与えるため、悪く言えば初代ローマ皇帝アウグストゥスへのおべっかとして機能したわけでしょう(余談になりますが、そこから1300年ほどあと、国家分裂・党派争いに苦しんだ時代に生きたダンテが神曲の中で地獄の案内役にヴェルギリウスを選んだのはもちろんそうした事情からです)。
オウィディウスは、そのヴェルギリウス版トロイ戦争を継承して、同じようなストーリーを前述の「変身物語」の後ろの方に掲載します。もちろんそこにはヴェルギリウスのそれをさらに翻案したオウィディウスならではの叙述がありヴェルギリウスの「正史」に対し、オウィディウスのそれは裏バージョンの歴史、いわば「外史」であり、この2作品を比較した多くの研究があるようですが、私にはそれについては語る資格が全く無いので割愛します。
ともあれ、オウィディウスの「変身物語」に描かれているのは、最後の敵を打ち破り、イタリアに上陸する場面です。
この描写でビックリするのは、アンブロシアとネクターが人を神にする働きを持たされていることです。単に神々の宴会の食事というだけではなく、ヘシオドスにおいては神に力を与える役割、オウィディウスにおいては人に(とはいえ、アエネアスの母は上の引用にも登場するウェヌス(ヴィーナスのことです)なので、「人」というのも少し躊躇いがあるのですが)神性を与える役割を付与されているということです。
Hybris、すなわち傲慢
上記のことは何気なく読み飛ばしてしまいそうですがよくよく考えると重要な箇所であるようにも思えます。神饌がたんに神々の食べ物飲み物であるだけではなく、神に元気を与えたり、人を神にする役割を得たりという定義のことです。つまりある意味不老不死の薬のような積極的な効能をもったものとして定義されていることです。
ヒトは太古の昔から不老不死を願っていたことでしょう。そしてその願望が神饌に仮託されるというのはわからぬ話ではありません。しかし同時に死すべき運命にあるヒトが不老不死を願うのは古代ギリシャで最も戒めるべき傲慢hybrisだったのではないでしょうか。
このあたりについて少し説明をします。
世の中には昔から多神教と一神教があるわけですが、キリスト教やイスラム教のような一神教における神というのは基本的に超絶的な存在です。それに対して、多神教における神々は基本的に極めて人間臭いキャラクターであるのがふつうであり、ギリシャ神話の神々も例外ではありません。
けれどもたとえ人間臭くても、神々と人間の間には明確な線引きがあり、人間のあらゆる大罪のうちで最悪のものはこの一線を越えるようとすることであるというのが古代ギリシャ人の基本的な宗教観でした。たとえば太陽の高さまで飛翔しようとして、羽根を身体に接着するのに使用した蝋が溶けて失墜したイカロス、ヒトに火を与えてゼウスの怒りを買い磔にされたプロメテウスなど有名なエピソードには事欠きません。
古代ギリシャ語にはὕβρις [hubris]という語があります。「傲慢」と訳しますが、まさにそうしたヒトの則(のり)を越えようとする行為を指すのに使われます。
余談ですがこの語は英語にもhybrisとして入っています。そしてマスコミ的にも有名なハーバード大学のサンデル教授が近著The Tyranny of Merit(邦題:実力も運のうち)でこの語を使っているのを少し前に読んで私は個人的にかなり感銘を受けました。サンデル教授は貧富の格差の根源にあるものを論じているのですが、それはしょせん「運」に過ぎないというと断じているのです。有名大学に入り、一流企業に入り、そこで栄達をして高収入を得る人がいるとしましょう。本人に言わせれば「頑張ったから」が成功の理由かもしれないけれど、そうではなくそういう環境にたまたま生まれ育ち、たまたま良い教育を受ける機会に恵まれたからにしかすぎない、というのがサンデル教授の言い分です(更に余談ですが、ノーベル賞経済学者スティグリッツ教授もほぼ同じ趣旨のことを述べています。彼の英語はサンデル教授とは違い非常に読みにくいですが、たぶん私が誤読していなければ、同趣旨だと思います)。にも関わらず「自分が頑張ったから栄達し、高収入を得るのも当然のご褒美だ」と考える人のことをhybris「傲慢」と断罪しているのです。これはある意味でギリシャ神話と近似する世界観であり、ギリシャ神話もヒトはどのように暴れようが所詮はお釈迦様の掌の中の孫悟空と同様に神々の思し召し=運命から逃れることはできない、というのが基本的な世界観です。そしてそこから逃れようとすることがすなわちヒトの則を超える行為であり、「傲慢hybris」であるわけです。
サンデル教授やスティグリッツ教授は、もちろんそうしたギリシャ神話的なある種の運命決定論、諦観を述べようとしているわけではないのでしょうが、現代社会の知的エリートの態度をギリシャ神話におけるそれに類した人としての最大の罪として、「傲慢」を表すにarroganceなどいくらでも類語がある中でhybrisを選択したのでしょうし、さすが西洋の知識人は古典的素養があるなあと感心したわけです。
だいぶ話が逸れてしましました。話を戻すことにします。神性のひとつのメルクマールが不老不死であり、それを超える行為が「傲慢」として厳しく断罪されるのだとしたら、神饌にヒトを神にする力があり、それを使ってヒトを不老不死にするなど言語道断な行為に相当するはずです。先に引用した描写はどうにも不敬罪相当な感じが拭えません。
まずひとつにはオウィディウスは「やらかす」作家であり、なにか不適切な詩作をしてそれが原因でアウグストゥス帝の怒りを買い流刑にされています(この流刑、じつは自作自演なのではないか、という研究もあるようですが)。詩作のためには不敬も気にせず、ということだったのかもしれません。
また、ローマ皇帝はだいたい死後に神格化されるしきたりがあります。ローマは基本的にギリシャ神話を神仏習合的にとりいれローカライズしたものではあるのですが、この一事を採ってみてもずいぶん「傲慢」概念に関してユルいのがわかります。アエネアスは母がヴィーナスであり、そもそもが半神といってもよい存在である上、ローマ帝国の始祖となる場面なわけですから神格化されることはある意味不思議ではないのかもしれません(ただもちろん、神格化の慣行が生まれるのは初代皇帝であるアウグストゥス死後からであり、彼の存命中に書かれた変身物語の中の記述としてはやはり多少の勇み足感はないではないです)。
医術の神アスクレピオス
話を少し戻します。
「傲慢」の故に罰せられたイカロスやプロメテウスの例を挙げましたが、もっと本題に即した、不老不死の傲慢に関するエピソードを考察してみます。ほかにも沢山あるのでしょうが、最初に思いつくのは医術の神アスクレピオスです。
アスクレピオスをご存じない方もいらっしゃると思うので、また脱線してしまうことは承知で簡単に紹介します。
医聖と称えられるギリシャ時代の高名な医師ヒポクラテスはご存知かと思います。紀元前5世紀にしてすでに「癲癇は悪霊の憑依などではなく、病気にしか過ぎない」旨を喝破したり、極めて科学的な生理学・病理学的考察をした、まさに医聖です。JR中央線、御茶ノ水駅のホームに立つとお掘りを挟んで正面に旧東京医科歯科大学(最近、東工大と合併して名前が変わりました)が見えますが、そこの壁面に「ヒポクラテスの誓い」のレリーフが大きく見えるはずです。
その祖先とされるのが医の神アスクレピオスです(「神」としましたがもともともはヒトです)。
アスクレピオスはヘビが巻き付いた杖を持っているのがイコノロジー的に言うと特徴で、日本の救急車を始め、大抵の国の救急車にはこれを図案化したものがついているはずです。
それもそのはずで、医術の神なので、どんな難病でも治すことができ、信者が列をなしてその施術を待ったという神話があるからです。
けれどもここで留意したいのは、難病を治すからと言って、ヒトを不老不死にしたわけではない、という、やはり「則」の存在です。
実際、彼はあるときヒトを不老不死にしようとして、ゼウスの怒りを買い、殺されてしまいます(そのあと、名誉回復されて、神に格上げしてもらうのですが)。
不老不死願望には絶えず傲慢との葛藤があるのが伺えます。
アリストテレス「形而上学」
「傲慢」かどうかではなく、別の観点からの不老不死論議がアリストテレスの主著の一つ「形而上学」の中に見えます。
「形而上学」はまさにそれを表すメタフィジクスの語源にもなったくらいで、哲学の嚆矢のような著作であり、岩波文庫でも分厚い上下二巻本でもあり、とても手に取るのに腰が引ける代物ですが、正直、私も最近ようやく読み始めました。
読んでみると、それほど難解でもなく、アリストテレスがじつに知的に、そしてドグマティズムに陥ることもなく公平かつ冷静にいろいろな考察を行う過程に好感が持てなかなか魅力的な書物なのがわかります。
ただ、一つのまとまった著作と言うより、論文集のような成立過程であるらしく、章ごとのつながりには乏しく、それぞれの章を別々に読むのが良いように思います。
たとえば第1章は先行する哲学者(主にイオニア派の自然哲学者)たちの学説への注釈に宛てられています。オリジナルの著作はすでに散逸していて存在せず、このアリストテレスの著作の中の引用で辛うじて我々がその著作に触れうる哲学者も何人もいるはずで、そのことだけでも重要な文献です。けれどそれを度外視しても、なかなか興味深いです。本稿とあまり関係はありませんが、前述の「神統記」を神話ではなく、自然哲学者の言説と同列に論じています。たとえば、神統記の最初の場面は、原初、大地と海が交わって神々を生み出すシーンなのですが、これを元素を水と土であると見立てたものと解釈して論じています。
さて、そして、その第3章に神饌が登場します。この第3章はそれまでの哲学者を悩ませてきた諸問題を論ずるとアリストテレスは冒頭で宣言しています。そしてそのなかで、すでに引用した神統記のなかの巨人族と呼ばれる神々がお互いに喧嘩をしあい、疲れ果てて神饌を食べ、それで元気を取り戻す場面への注解と見られる一節があります。
この神話のどこが第3章で論じるに値する形而上学的な問題を孕んでいるのでしょう??
アリストテレスは次のように論じています。
もしも神々が単なる美食として神饌を食べているのだとしたら、神饌は神々を不老不死にしているものではない。またもし、神饌を食べることで神になったり、神が元気を回復をするのだとしたらそもそも神が本質的に不老不死であるとはいえないのではないか。
要するに話は、存在論のまさに中心的命題にかかわらざるを得なくなるということです。ギリシャ哲学の中心は存在論です。ものは生まれるのか、だとしたらどこから生まれるのか。無から有が生じるなどということがありうるのか。そんなことが不合理であるとしたら、存在するものは最初から存在するのであって、生成という現象は世界の中にないのではないか。有名なパルメニデスの命題「あるはある」に代表されるような議論が存在論と呼ばれるギリシャ哲学の一つの大きな議論の中心であり、その立場から検証すると神統記に描かれたような描写はかなり哲学的に厳密さを欠いたものであり(書かれた時代、書物の性格を考えればそんなに厳密でなくてむしろ当然なのですが)、アリストテレスは「筆者にとっては心地よいかもしれないけれど、我々には不適切に思える記述」であると断罪しているわけです。
elisir(伊) elixir(仏) elixir(英)
さて、時代は一気に中世に飛びます。
alcoholがアラブ語由来だというのは世界史で習うところですが、それでわかるように蒸留という技法は最初にアラブ地域で開花しました。この語もアラブ語語源です。私はアラブ語は全くわからないので綴りを転記するだけですがal iksirというアラブ語からきているらしいです。alcoholなどと同様、alはアラブ語の冠詞ですよね。ということは本当は「イクシール」と発音すべきなのでしょうかね。でも我々の呼ぶところの「エリクシール」です。どこかの化粧品の名前になっていたと記憶しますからこれも音としてはおなじみですね。
荒っぽく言えば醸造酒である日本酒、ワイン、ビールをそれぞれ熱して、水の沸騰点直前、アルコールだけが気化する温度ででてくる蒸気を冷やせばそれぞれ焼酎、ブランデー、ウィスキーであるわけで、まさに純度の高い液体を取り出す作業が蒸留であり、「究極の物質」を取り出すにはうってつけの工程だと言えましょう。その蒸留をつかって作った究極の薬がエリクシールです。
薬と言いましたが、多くの場合、不老不死の薬という意味に捉えられます。とはいえ、必ずしも不老不死だけではありません。ドニゼッティの作品に「愛の妙薬」というオペラがありますが、原題はL'elisir d'amoreです。媚薬もエリクシールだというわけです。英語でもelixirという語を「不老不死」の意味に限定詩て使うときにはelixir of lifeのように表現することがあります。
西ローマ帝国の崩壊から中世初期の混乱期の間に、この地域のギリシャ・ローマ時代の科学や文化の伝統は完全に途絶え、それをかろうじて引き継いだ東ローマ帝国=ビザンツ帝国から、アラブ世界に流れ込み、そこでさらに進化したアラブの科学が、もう一度中世西ヨーロッパに逆移入され、そこで再び知の伝統が蘇ったのはご存知のとおりかと思います。そして、この語もその生き証人であると言えます。アリストテレスの自然学がビザンツ帝国やアラブに流れ込み、そこで蒸留という工学的な応用がなされ再び西ヨーロッパに戻るわけですから。
古典時代のアンブロシアやネクターとはいろいろな点で対照的であるように感じられます。
エリクシールは神々の物語からは完全に自由です。そして神の領域に迫ることが不遜かもしれないという懸念など微塵もなければ、前述の存在論的な煩雑な議論も無視して、ともかく勇ましくそして大胆に人間の手で宇宙の神秘に迫る妙薬を作り出そうというテクノロジー的精神が感じられます。
そしてその媒介になるのが、上記のように蒸留という技術です。今でもハーブや香料などの香りを濃縮するのに蒸留を使い、その産物は精油(エッセンシャルオイル)と呼ばれ、エタノールは古くはaqua vitae(命の水)と呼ばれ、その名残がスカンジナビア諸国のウォッカの名前(スウェーデンのそれはたとえばaquavit)に残るなど、蒸留には絶えず魔術の香りがします。
Quintessenza(伊) Quintessence (仏)Quintessence(英)
quinta「5番目の」+essentia「元素」というラテン語から来た語です。ラテン語と言ってもローマ時代からあった言葉ではなく中世〜ルネッサンス期の錬金術のなかで作られた語です。アリストテレスの考えでは世界は4つの元素、すなわち水、空気、火、土からできていると考えられていました。いやいや、それを超える第5の元素が存在するはずだと中世の錬金術師たちは考え、その存在を確認できてもいない物質をエーテルと名付けました。このエーテルの別名がクインテッセンスです。語源は前述の通りで、ラテン語をしらなくてもイタリア語で「5番目」はquintoだし、そのへんの近代語をご存じの方にとっては語源は一目瞭然ですね。
「いやいや、未知の元素っていうけど、エーテルって化学で普通に習ったぞ?!」と思う人がいるかも知れませんが、化学で習うエーテルは別物です。極めて揮発性が高く、すぐに天上の世界に行ってしまう(?)というのでここから取って名付けられたものであり、あれはもちろん自然界にちゃんと存在する物質です。
5番目の元素であると同時に、5回蒸留を重ねて初めて手に入る純度の高いという意味でもあるようです。そこから近代諸語では「真髄、化身」の意味で取り入れられています。
商品名になったおかげか日本ではネクター、エリクシールは音として馴染みがあるのに対し、クインテッセンスはそれほど馴染みがないように感じますが、近代西欧諸語ではむしろクインテッセンスのほうが現代まで残り、今でもよく使われているような気がします。
以下、コーパスなどで適当に拾ってきた各国語の文例です。
(英)He is the quintessence of what we expect from a baseball player.
「彼はまさに我々が野球選手に期待するものどおりの人だ」
(伊)La quintessenza della vita è racchiusa in ciascuno di noi, dobbiamo solo guardarci…「人生の本質は我々の中にすでにあり、自分を見るだけで良い」
Πανάκεια (希) Panacea (羅) Panacea(伊) Panacée(仏) Panacea(英)
中世の錬金術師まで進んだ時の流れをふたたびギリシャ時代に戻します。
今度はパナケイアです。まず、「パナケイア」(とタイトルとして挙げたギリシャ語は発音するのですが)は固有名詞としては前述の医の神であるアスクレピオスの娘の名前です。しかし普通名詞としても使われ、そもそも更にその名前の由来まで遡るとギリシャ語πᾶν「すべて」+ἀκέομαι「癒やす」から来ていることからわかるように「万能薬」を指す語です。
また辞書を確認して初めて知ったのですが、ピタゴラス教団では6という数字を呼ぶのにこの語を使っていたそうです。ピタゴラス教団は秘密結社であり、豆を食べてはいけないとか謎の戒律がたくさんあるのですが、なにせ秘密結社なのでその内実は不明なことが多い中で、イアンブリコスという著述家(紀元後3世紀くらいの人です。ピタゴラスは紀元前5世紀ですから、はるか800年後の記述ではあるのですが)が「ピタゴラスの生涯」という書物を残しており、それによって後世の我々はピタゴラス教団の内側の事情を断片的に知ることができます。そしてその書物のなかにそのような記述があるようです(未確認)。
ピタゴラス教団は神秘主義というか密教というか、今で言えばカルト教団なので、数字にも一つ一つ意味合いをもたせ、そのうちのひとつなのでしょう。
ピタゴラスは謎すぎるので脇に置くとして、話をパナケイアに戻します。ギリシャ人におけるパナケイアは基本的に薬草だったようです。それもおそらくはセリ科の何らかの植物を指していたように考えられているようです。ということは「万能薬」といっても本当に難病を治す薬というわけではなさそうです。最近は姿をあまり見かけませんがたとえば仁丹なんて言うものが昔は薬局・薬店で売られていました。また実物を見たことはありませんが高価な強壮剤?なのか熊の胆などというものもありますよね。別に何に効くわけでもないけれどもなんとなく気休めのように「なんにでも効く」ものとして扱われるようなものが、とりわけ生薬には数多くあったように思います。ギリシャ人にとってのパナケイアもそのようなものだったのではないでしょうか。
ところが、この語を発見してきて新たな意味合いを付け加えたのがルネッサンス期の錬金術師たちです。ギリシャ人にとって万能薬は自然界に存在する草でした。それに対して、テクノロジー精神旺盛な錬金術師たちにとっては前述のクインテッセンスと同様にパナケイアは自らの手で作り出すものでした。そしてその主な手段はやはり蒸留であったと考えられます。したがって、彼らにとってはクインテッセンスとパナケイアはほぼ同義です。「俺達の探してるクインテッセンス、ギリシャ人も探してたみたいじゃんか。パナケイアって呼んでたらしいぜ!」東ヨーロッパやアラブ経由でルネッサンス期にようやく再び西ヨーロッパにもたらされたギリシャの文献を読んでそんなふうに彼らは感じたのではないでしょうか。
Lapis Filosoforum(羅) Pietra Filosofale (伊)Philosopher's stone(英)
ハリー・ポッターで一躍有名になった「賢者の石」です。残念ながら私はあの世界的ベストセラーを読んでいないのであまり偉そうなことは言えないのですが、たぶんこの本が「賢者の石」という言葉の知名度の普及に貢献したのではないかと思います。
イギリスで最初この本が出版されたときのタイトルはHarry Potter and the Philosopher's Stoneだったのですが、アメリカの出版社が版権を買い取ってアメリカで出版するときに「賢者の石」と言っても伝わらないのではないかと懸念し、Harry Potter and the Sorcerer's Stoneというふうにタイトルを変えて出版しました。sorcererというのは「魔法使い」です。「賢者の石」というタイトルを「魔法使いの石」に変えて出版したわけです。それほどそれまでは「賢者の石」という名前やそれが表す物はアメリカでも知名度が低かったのが伺えます。
ですが、たとえ多くの人にとって「賢者の石」という言葉の知名度が低かったとしても、近代においてずっとこの言葉は西欧近代語において使われ続けてきました。これもまたラテン語名がついてはいますが、中世〜ルネッサンス期の錬金術師の発明によるものです。
賢者の石とはなにか、その定義があります。
1. 前述のエリクシール(不老不死の薬)をつくる
2. 自然界すべての秘密を教えてくれる
3. それに触れるものを黄金にかえる
上記のうち、2は当てはまらないかもしれませんが、要するにイメージとしては触媒であると言えます。もちろんあくまでも「夢の物質」としていろいろな人が自分勝手に思い描いてきたものなので正確な定義などないのですが、しばしばエリクシールやクインテッセンスと同一視されているようですが、もう少し正確に言うとそれらを作る触媒といえるのではないでしょうか。
ここにも錬金術師たちのテクノロジー精神が見て取れます。究極の物質は自然界の中にあるのではなく自分の手で作るという気概ですね。そしてその媒介は散々述べてきた蒸留がひとつなのですが、それ以外に触媒という媒介を考えたのは錬金術師の功績なのでしょう。錬金術はアルケミー、化学はケミストリーであり前者は後者の前史のように見られがちですが、近代的精神を存分に感じることができますね。