天草観光2 崎津集落(世界文化遺産)
崎津集落 崎津諏訪神社・みなと屋・崎津教会
島の中央部分にある宮地岳かかしの里から、今度は海沿いの道をを目指します。木曜日なので、この日は天草コレジヨ館はお休みの為、潜伏キリシタンの地、崎津集落を少しゆっくりとまわることになりました。休館日コレジヨ館にはレプリカですが、グーテンベルグの活版印刷機や竹パイプのパイプオルガンの展示などもあるそうです。ちょっと残念でした。逆に津崎集落はゆっくりと周る事ができて、それはそれでよかったです。津崎集落に着くまで結構山道を走ったりしましたけど、基本ガイドさんはずっと喋りっぱなしだし、わたしも突然「ここでクイズです!」ってなるので眠る暇ありませんでした。
さて、私は崎津教会自体が世界文化遺産になったのかと思っていたのですが、教会で文化遺産になっているのは長崎の大浦天主堂のみだそうで、文化遺産になったのは、教会のある崎津集落の土地・潜伏キリシタンの歴史、生活風土を含めての世界文化遺産だそうです。
ザビエルが日本にキリスト教を伝えると同時に、銃も一緒に日本に入ってきました。時代は織田信長の時代、信長は銃が何よりも手に入れたい、キリスト教の布教活動を許すかわりに銃を手に入れました。そして、秀吉の時代になりキリスト教がますます広まってくると、許可を得ずにキリスト教に改宗する九州の大名が出てきたり貧しい民が自由を求め始めます。日本が外国の植民地にされてはたまらないし、これ以上キリスト教が広まるのも困る。秀吉はキリスト教を追放しようとするけれど、銃は喉から手が出るほどほしい。という訳で、バテレン(宣教師)追放令を出しながらも貿易は続けられました。徳川の時代になり三代将軍家光の時に完全に鎖国となり、キリスト教は禁止となり弾圧されることになります。当然長崎、天草の地にいる宣教師や信者たちは、迫害されることになります。迫害を恐れることのなかった民は、鎖国が解かれるまでひっそりと隠れ忍びキリスト教を信仰すること実に250年の歴史があります。隠れキリシタンと潜伏キリシタンと明確な違いがあるようですが、崎津集落では殆どの人がキリスト教を捨てることなく信仰し続けたので潜伏キリシタンと言っている様でした。
現在でも集落の大半の人がキリスト教を信仰し、教会に通いミサを守ります。
海岸線の海を見ながら、細い曲がりくねった道を走っていると、ガイドさんが
「もうすぐですからね、崎津の集落がみえてきますよ。ここの景色はオーストリアのハルシュタットの景色のようだといわれます。」えっ、ザルツカンマーグートのハルシュタットですか?! 遥か彼方昔に行きましたよ!否応なしに脳内興奮状態。
さあ、さあ、さあ!(運転手さんもスピード落としてゆっくりと走ってくれます)
エメラルドグリーンの海の先に突然と見えてきます。私は一人歓声!そして崎津集落と教会に目を奪われます。景色はまさに日本のハルシュタット!
崎津集落は、島原・天草の乱の時は乱に加わらなかった、いえ、正確に言うと加われなかったので、天草が乱で荒廃しても崎津は村が守られました。というのも地形をみたらわかるのですが羊角湾に面した入り組んだ地形の為、非常に交通の便も悪く、情報が入ってくるのが遅かったため参戦することができませんでした。今は道は整備されてはいますが、集落に行くには細い曲がりくねった道が続きます。現に崎津集落には大型観光バスでの乗り入れはできませんから、少し離れた道の駅から歩くことになるそうです。そうですって・・・ぐるっと周遊バスは、小さなバスですからすぐ近くのきんつ漁協の駐車場におくので、歩く距離もさほどありません。
海岸線の狭い道路(運転がタイヘンそう)の先に見えるのは
岬には海に向かって立つ「海の聖なる聖母」がちょっとだけ見えます。
いつまでも信仰のシンボルになるように祈りをささげるマリア様。
いつの日も、穏やかなる海の時も荒れ狂う海の時も、ここを行きかう海人たちをお守りくださるマリア様と崎津の人には愛されています。
ちなみにこの像を前から見たいという方は、船をチャーターする必要があります。そしてこの海に沈む夕日はさぞや美しいでしょう。
この崎津地区が250年にわたり潜伏キリシタン活動の地として、幕府と戦った歴史があったは思えないほどの静けさと穏やかさの流れを今は感じます。しかし、集落の至ることろで潜伏キリシタンの250年の苦しみが刻まれています。
バスから降りてじっくりと崎津集落をまわることになります。崎津集落ですが世界文化遺産として認定されましたが、大変小さな集落で、集落の方はごく普通の日常を過ごしていらっしゃいます。観光客が大挙して押しかけ、カシャカシャと個人宅の写真を撮ったり、大声で話しながらある事はできません。私たち観光客は、集落の皆さんたちの静かな日常に静かにお邪魔させていたただいていることを心にとめておかなければいけません。
ここからはガイドさんの声も、より一層集落のかたに配慮した行動になります。集落の方とすれ違うかたとご挨拶されたり、「今日は、横浜からのお客さんのご案内です。」とご紹介くださったりと、心地よい空気を作ってくださいました。
崎津集落は土地も狭く海に面して密集していて「カケ」「トウヤ」なるものがみられます。これも、どこでも写真を撮っていいものではないと思いますので、ガイドさんにここは撮影できるかちゃんと伺って撮りました。
「カケ」とは家の先に海にでぱった形で作られている、海上テラスの様なものです。漁で使う網を広げて補修したり、魚を干したりするところですね。
私だったら、うーん夕日を見ながら七輪で干した魚(メギスとかね)を炙ってビールとかやっちゃうかも。ここで獲れたお魚だったらさぞや美味しかろうと、自分の家がここでなかったことが悔しくてたまりません。
「トウヤ」とは、民家と民家との間に作られた約90㎝くらいの細い道の事で、この道を通って海に出たり、ご近所のコミュニケーションの場になっているのです。理にかなった集落の作りです。
そんな崎津集落ですが、ここはいちじく発祥の地だそうです。
南風屋(はいや)さんがいちじくの苗木を栽培をはじめたことから、天草でのいちじく栽培がさかんになったそうです。
「天草四郎の初恋」といういちじくが入ったお菓子が天草のお土産として売られています。天草四郎も可愛い男の子(どの絵を見る限り美男子・イケメン)そりゃあ、恋をするでしょう。恋人路香(みちか)に大切にしていた手毬を託し、天草島原の乱へと旅立ちます。そして乱は悲しい結末を迎えるわけですが、残された路香は四郎を偲び一針一針思いを込めて手毬を作るわけです。この甘く苦しい思いをこのお菓子にあらわした訳です。天草四郎も今の時代に生まれてきていたら、こんなつらい恋はなかったでしょうが、AIだの核兵器戦争だの・・・・・とある現代の戦争、天草四郎はどうするのでしょう?
さて南風屋さんは「杉ようかん」でも有名です。集落に何軒か杉ようかんを売るお店はありますが、南風屋さんが一番古いとのことで、連れてってくださいました。「杉ようかん」は、崎津集落でしか作っていません、そして日持ちしない為その日が賞味期限になります。「杉ようかん」は約220年前に琉球王の使節団から伝授されたもので、一旦途絶えたものを南風屋さんが復活させたそうです。うるち米をせいろで蒸して石臼と杵でもちにして手作りのあんを包んで、再度蒸す。真ん中の赤いのはドラゴンフルーツで色付けしてあるそう。この赤は縁起がいいというこだわりがあるそうで、防腐剤の代わりに杉の葉が上に乗せられています。ということで、これは夜のおやつにしましょう。
ドラゴンフルーツといえば月下美人とかサボテンの仲間だよね。沖縄に行ったときにまだ小さかった娘にドラゴンフルーツの苗をせがまれて、イヤイヤ買ってすぐにダメにしたけど、今度は密かに私がしっかりと育てようか?なんて思わなくもない。家にはシークワーサーの木もあるしパッションフルーツの苗もあります。だからドラゴンフルーツも???横浜も段々温暖化してきているのみたいです。
津崎教会の手前に津崎諏訪神社があります。
崎津諏訪神社は1647年創建。大漁、海の安全を願って建てられ、潜伏キリシタンの時代は住民たちはこの神社の氏子になる事で迫害を逃れました。
そして、こちらの場所もとても諏訪神社とならんで重要。
こちらの場所では密かに礼拝が守られていたそうです。要するに神社を隠れ蓑に、その隣のなんでもないような家を教会にして礼拝を守っていたわけです。
それでも、ある時「天草崩れ」という事件が起こってしまいます。
江戸時代後期、崎津・大江地区などで潜伏キリシタンが大量につかまってしまう事件です。実にその数5000人以上だとか。これって何できっかけでわかったと思います?それは牛が多く屠畜されているということが発端でした。季節は12月、そう、クリスマス!です。クリスマスを祝うために牛をみんなで食べたんです。食べたといっても当時の事です、いきなりステーキのようにガンガン食べて宴会をするわけではないでしょう。みんなで分け合ってひっそりとイエスキリストの降誕を祝うのです。牛だってそんなにたくさん屠畜するわけでもなく、せいぜい1頭や2頭くらいでしょう。でも、御上はそれをちゃんと見つけるんです、この地に異教徒が潜んでいると!検挙してみればなんと5,000人以上。みんな口をそろえて否定します。さあ、どうする?!全員を厳罰に処するところでしょうが、そうなるとこの集落の働き手はどうなる?お上の面目はどうなる??
結局、心得違いでしたとなりました。めでたしめでたし~
これは、クリスマスの時のことですが、潜伏キリシタンたちはお上の目から逃れるために、イエスキリストを夷様、マリア様をアワビの貝殻に見立てて祈りをささげたそうです。夷様は豊漁の神様、アワビの貝殻は殻の内側(キラキラした側)の下あたりの浮き出たところがマリア様の形に似ているということから、身近に置いて祈りを捧げて信仰を守っていたそうです。(これも、バスの中でクイズに出されて、ヒントをもらいつつもちゃんと正解できました)
そんな説明を崎津諏訪神社で聞いた後は、みなと屋資料館でいろいろ当時の暮らしぶりなどの説明を見学です。外観の写真を撮りませんでしたが、昭和11年に建てられた旅館みなと屋を改修したもので、当時の面影残る建物です。
そして最後に
津崎教会
津崎地区の顔になる教会ですが、1934年(昭和9年)フランス人宣教師ハルブ神父の時代に鉄川与助氏が設計して建てられたとあります。そんなに古くありません、これが教会自体が世界遺産にならなかったというか、教会を世界遺産に登録するより、キリスト教の布教と潜伏キリシタンとしての歴史の深い集落全体を、世界文化遺産として登録するのが最善という助言だったわけです。しかし、昭和9年と言えば大東和戦争勃発前の頃、戦争中もよくぞ大丈夫でした。ハルブ神父はどこに教会を建てるか考えました。ここしかないと、吉田庄屋役宅跡が選ばれました。そこは、弾圧の象徴である踏み絵が行われた場所でした。現在も祭壇の配置されるところにその踏み絵があるという事ですが、礼拝堂内部は畳敷きで、私たち観光客はそのずっと手前までしか入れません。教会内部は撮影禁止です。
さて、この教会ですが、外側正面尖塔部分は鉄筋コンクリートで他は木造となっていてます。それは、土地取得にかなりの資金が使われたからです。その資金はハルブ神父様自身の私財を全てつぎ込まれました。ですから、全部をコンクリートて作る事ができませんでした。
ふと、上のクルス模様を見て思い出したのが、北鎌倉クルスの紋が入った山門の光照寺。百合の花ではありませんが、お寺にクルス?そう、光照寺も江戸時代潜伏キリシタンをかくまっていたお寺です。どんだけ、厳しかったんだか。。。。おばさんが、思うに神道も仏教もキリスト教も目指す心は同じと思うのですが。でも高いお金や訳のわからん高額の壺や何万もする水を買わないと救われない宗教は絶対に違うと思いますよ!
現在なら政府や文化庁が予算をつけてドーンとやってくれるんでしょうが、時が時ゆえに、神父様は自分の私財を全て投げち民が信仰を守れる教会を作ってくださったのです。今の日本のお偉いさんに聞かせたいわねと思うおばさんでした。
思いの外長くなったってしまった、大江教会は次に続きます。
Break Time
おばさんのつぶやき
家の事をしながら、ネコの相手をしながら、少し前の事なのにの脳内記憶をたどりながら、テキトーに撮ってしまった写真を選びながらやっているもので、思った以上に時間がかかります。旅ライターさんっていろんな取材をしながら記事を書くんでしょ?尊敬しかありません。おばさんは、ただどこかに書き留めておきたいから書いているだけなのに。。。。もう何日もかかってる。でも、あと少しのハズ、そう心に思って書きます。
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