自分が怖い
言葉で褒め育て特定に指向させるその先の己の目的を隠して綺麗事を平然と吐ける自分が怖い。
返事の中から相手が望む言葉を瞬時に選択できる自分が怖い。
前にも断片を書いているが私は誰かに何かを話すときアタマに想起した塊をニホンゴにする際にこれをどの表現で喋ったら相手がどう思ってそれが誰に伝播して何が起こりうるかを殆ど無意識に走査して少なくとも三つくらい出てきたところで口を開ける。
この間、1 秒に満たない。
至近距離なら波動を感じ取れるので、喋った刹那に誤解されたと感じたなら人差し指を立てて 「あー」 とか言っている間に相手がイメージできそうな別の表現を模索して言い直す。
これが普段の生活。
こういうことは皆が出来るわけではないと気づいたのは 25 くらいの頃か。 たぶんそのあたりからヒトのアタマの中身のことを考えるようになったんだ思う。
この頃はまだ相手の未来に良いはずという思いだけで言葉を選んでいたから必ずしも喜ばれるわけではなかった。 逆に、そう言われていたのに 「口うるさい上役」 としか思わなくて何年も後になって私のことを気にしていてくれてたことに気づいたこともある。
そんな行為や気づきを繰り返すうちに私は、相手に何かを促す言葉を発したときにそれが相手の未来に良いはずで言っているのかそれとも自分の望む未来に仕向けるために言っているのか、の区別がつかないような思考を無意識にするようにもなってきた。
相手が喜んでなおかつ自分の利益にもなるのは win - win なんだから何の問題がある ?
と、彼らは主張するに決まっている。
果たしてそうなんだろうか ? それでいいんだろうか ?
天邪鬼で哲学な私はそう思ってしまう。
だ、か、ら、
表層が同じな者をみると警戒感しか湧かない。 誰とは言わないが。
善良に押し止めておくのは結構疲れる。 そうじゃないほうが儲かるのは分かっている。
私は 徹頭徹尾ドライにできないのと同じようにこの能力で儲けることに自分が耐えられない(すべきではない)と思っている。 そもそもそれは私の目標ではない。 稼がないと何も達成できないのは分かってはいるのだが。
相手が望み喜ぶ私には不本意な未来と私が相手から引き出したと思っている相手が幸せになれる未来と、どっちを選ぶのが「善良」 なんだろう ?
賢治の晩年の葛藤(と言われていること)みたいになってきたが、少なくとも私は 「このレベルで結論を出すことに意味は無い」 と思っている。 獏としてだが次元が違う問題だから何某かの座標変換を掛けないと見えてこない事象だ、と。 そしてそれは私には未だ解けていない。
或いは彼も同じところで止まったのか ? ならば銀河鉄道の夜はどう解釈すればいいのかな ?
私に、怖くなくなる日は来るんだろうか ?
二伸(後記 : @2020/11/21)
実は冒頭の 「自分が怖い」 はもう 1 行あった。 それを意図して実行するのは生物学的には正しいがヒトとして決して正しくはない。 私にはそれが意図してのことなのか偶さかそうなっただけのことなのかの区別がつけられない。
誰かの益になるなら話すことは吝かではないけど、そうは思えないので伏せた。 その、世の男の 4 % くらいが愕然とするかも知れない、黙っていれば win - win な内容のことを。
世の中には 「見えない知らない手に入れないほうが幸せ」 ということが少なからず、あります。 世界中の昔話にあるでしょ、欲は程程にね。 使いこなせないものを背負っても不幸になるだけです、学歴を含めて。
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リンク : これに繋がる過去記事
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