サント=ブーヴ「グザヴィエ・ド・メーストル伯爵略伝」
【『グザヴィエ・ド・メーストル伯爵全集 Œuvres complètes du comte Xavier de Maistre (Nouvelle édition)』の序文です。もとは「フランスの近代詩人・小説家」シリーズのひとつとして書かれたものです。()は原註、〔〕は訳註です】
(このグザヴィエ・ド・メーストル伯爵についての研究は、グザヴィエ伯爵のたった一度きりのパリ旅行の際に、サント=ブーヴ氏によって1839年に書かれたものである。『現代作家たちの肖像』の著者は、多感な人柄と愉快な才能の様相を、すれ違いざまに大急ぎで捉えた。これは、ありのままの素描なのだ)
これまで、このフランスの作家たちというシリーズでは、フランス生まれでない作家をひとりならず紹介し、未知の名前に長い讃辞が捧げられているというので読者を驚かせることがあった。その点、少なくともこの人物は充分に知られているから、読み始めるのに用心は無用だ。グザヴィエ・ド・メーストル伯爵は、この冬はじめてパリを訪れるまで、一度も来たことがなかった。かろうじてフランスの片隅をかすめたことがあるだけだった、というのは1825年ごろ、ロシアから故郷サヴォワへ戻る際に、ストラスブールからジュネーヴへ行く途中で、ブザンソンを通ったのだ。そのあと長年ナポリで暮らしていたとき、その太陽と忘却の地では、自分がフランスで最もよく知られ愛読される作家のひとりになっているとは、思ってもいなかった。真の文学的祖国に到着したとき、知名度の大きさに、驚きも大きかった。自分は異邦人だと思っていたのに、誰もが『シベリアの少女』や『アオスタ市の癩病者』について、旧知のように話しかけてきたのだ。
これほどの人気は、華々しい兄の名声が、好対照となって彼を浮き立たせたことも、大きな要因だろう(こう言われるのを彼も喜ぶだろう)。輝かしい兄の雄弁な逆説、煌めく文彩、堂々たる呪詛は、この傑出した人物の周りに多くの心酔者と敵対者を集め、熱狂と驚嘆と憤慨で一波乱まき起こし、人目を惹いたので、すぐ横の、ときに苛烈でもある太陽の焼けつくような日射から休ませてくれる穏やかで慎ましい星も、いつの間にか僥倖を得ていた。ふたつの光にはたいそう差があって、姿もまったく異なるが、強いほうが弱いほうを消すことはなく、むしろ目立たせるばかりなのだ。幸福なる信服の生涯!グザヴィエ伯爵の文学的資質は全てジョゼフ伯爵の影響下にあった。徒然に書いて、兄に草稿を渡し、預けたきりにして、よかれと思うとおりの計らいに任せたのだ。はなから信用して兄の裁定や検閲に従い、ある日気づくと、兄の横で、控え目ながらも兄とは全く別の栄光を得ていた、すると今度はその栄光が偉大な兄にも及び、弟の魅力を幾らか兄に伝え渡すことで、まばゆい厳しさを和らげているようだった(何という恩返し!)。大作家や、それに限らず全ての名士、あるいは単に当代流行の有名人であれ、自分より優れた人物の弟となると、えてして難しい立ち回りを迫られる。ミラボー子爵〔アンドレ・ミラボー、革命期に雄弁で鳴らしたオノレ・ミラボー伯爵の弟〕、「儀礼なしの」セギュール(セギュール子爵〔Joseph-Alexandre de Ségur〕は、ナポレオンの下で儀典長を務めていた兄〔Louis-Philippe de Ségur〕と区別するため、幾らか皮肉も込めて、友人への手紙に自ら「儀礼なしのセギュール」と書いている)、クィントゥス・キケロ〔マルクス・キケロの弟〕、小コルネイユ〔トマ・コルネイユ、ピエール・コルネイユの末弟〕。いつでも頭だけで困難にけりをつけられるわけではない。最も簡単なのは、心が混ざり合うことだ。一年ほど前に亡くなったフレデリック・キュヴィエは、墓石に「フレデリック・キュヴィエ、ジョルジュの弟」とだけ銘ずるよう頼んでいた。グザヴィエ伯爵も、兄への尊敬から、喜んで同じように言うだろう。ただしグザヴィエの場合、役を演じたり、面倒だと思ったりしたことはなかった。自分の傍に立派な心の拠りどころがあるのを心地よく感じていた。むしろ文豪の弟のうちでは最も上手くやった、素朴さや感受性や親しみやすさを持ち味としたのだ(こうした悌順な弟として最も古いのは、間違いなくメネラオスである。「メネラオスが立ち止まって動こうとしないとき、それは怠惰や無思慮のためではなく、「わたしを見つめて待っているのだ ἀλλ’ ἐμέ τ’ εἰσορόων καὶ ἐμὴν ποτιδέγμενος ὁρμήν.」(『イーリアス』第10歌第123行)」とアガムメノンは言っている)。
才能を宣告された特別な資質とされるもののうちには、当然ながら、一般的な素地も、自身の生地による気質も、欠けることはない。優れたフランスの作家として、ジュネーヴがジャン=ジャック〔・ルソー〕を、ローザンヌがバンジャマン・コンスタンを、そしてサヴォワがメーストル兄弟を輩出したことが分かるだろう、とくにメーストル兄弟は、サヴォワを離れてからもフランス以外の地でのみ暮らした。実際サヴォワは、古来の起源によって、フランス文学圏に深く属している。隅に追いやられ、辺境で忘れられていても、成り立ちは同じなのだ。中世、騎士道の時代、連綿たる勇ましい伯爵たちの下、君主旧家の幹は華やかに栄えたが、文学的痕跡は明確でなく、より詳しい調査が俟たれる。才人フロワサールが君主の気前よさをたいそう喜んでいた時代だ。
(1368年当時のサヴォイア伯はアメデーオ6世)
しかし、そこまで遡らずとも、もっと近い時代、厳密な意味でフランス語がロマンス語から完全に分かれたと確かに言える時代、16世紀の初め以降だけでも、幾つか突出した点を見出せる。フランス語で印刷された最初期の本(聖史劇や騎士道物語など)のうちには、シャンベリで作られたものが数多く存在する。ルイ12世の伝記作家であり倦むことのない翻訳家であったトリノの大司教クロード・ド・セセル〔Claude de Seyssel〕を見つけられる、彼はサヴォワのエクス生まれだ。文体においてセセルよりもむしろアミヨを受け継いだ素晴らしい作家フランソワ・ド・サール〔フランシスコ・サレジオ〕は、その名の城に生まれ、アヌシーに住んだ。友人で、著名な法律家で、アカデミー会員ヴォージュラ〔アカデミー・フランセーズ設立時の席次32〕の父でもある元老院議長アントワーヌ・ファーヴル〔Antoine Favre〕とともに、ちょうどアカデミー・フランセーズの30年前、アカデミー・フロリモンタン〔Académie florimontane〕という学会を設立し、神学や科学、もちろん文学からも代表者を集めた。親しかったオノレ・デュルフェも加わった(〔シャルル=ニコラ・〕アルー氏の『フランス語の普遍性についての試論』〔Charles-Nicolas Allou, Essai sur l'universalité de la langue française〕による)。おそらく親切な聖人〔フランソワのこと〕の選択によって(それには彼が適役だからだ)、花と実をつけたオレンジの木を陽気な紋章とし、「通年の花と実Flores fructusque perennes」という標語をつけた。しかしアルプスから風が吹きおろし、オレンジの木はほとんど花をつけず、すぐに枯れてしまった。とはいえ、その着想だけでも、先立って存在した文化的基盤が、はっきりと示されている。ヴォージュラは正確で洗練されたフランス文法学者の第一人者で、サヴォワからフランスに来た。サン=レアル〔César Vichard de Saint-Réal〕もまたサヴォワから来てサヴォワに帰った簡明な作家で、また幾らか深遠な文体ということではモンテスキューの先駆者でもある。こうした文学的に顕著な継承が長く途絶えたことはなく、デュシ〔Jean-François Ducis シェイクスピアをフランス語に翻案した劇作家、アカデミー・フランセーズ席次33(ヴォルテールの後任)〕がヴェルサイユの最上段からアロブロージュ〔サヴォワの古名〕の血を誇っているとき、山の向こうからジョゼフ・ド・メーストルの声が響いてきたのだ(サヴォワ生まれのフランスの作家としては、『十字軍の歴史』や『追放されし者の春』の著者ミショー〔Joseph-François Michaud, Histoire des Croisades, Le Printemps d'un proscrit〕も挙げねばならない)。
グザヴィエ伯爵について言えば、天性が全てを決めていた。文体の研鑽は些細なことだった。フランスの優れた作家たちを読んでいたが、外国人作家という立場の難しさについて考えたことはほとんどなかった。期せずして上品で繊細で心打つ物語作家となった。どこであれオリーヴやオレンジの挿穂を慎ましく守り育てる術を知っていたのだ、それらが珍しい灌木だとは考えてもいなかった。
幸せな、羨むべき男だ、そのアッティカの灌木は、ルテチア〔パリの古名〕の泥の肥やしを一度も必要とせずに、花開いたのだ!フランスから遠く離れて、サヴォワで、ロシアで、ナポリの空の下で、わざと自身をフランスに見せ惜しみしているかのようだった、それが76歳にならんとするときの実に短かい来訪で、われわれの前に現われたのだ、自身の著作と最も精神的に似た人物、その著作から窺えるのは、おそらく今日では唯一、心から自身の過去にそっくりで忠実な、素朴で、驚きやすく、からかい好きで、にこやかな、そして何より善良で、恩に篤く、最も若々しいときのように感受性豊かで涙もろい、意図せず著者となっただけにいっそう彼の著作と似ている著者である。
彼は1763年10月にシャンベリで貴族の大家族に生まれた。われわれの知っている以外にも多くの兄弟がいた。ジョゼフ伯爵が、アントワーヌ・ファーブルの時代たる十六世紀から続く高い教育のすべてを受け、官吏の貴族として高等法院と元老院での道を歩む一方、グザヴィエ伯爵は軍務に就いた。青年時代は、いささか成りゆき任せに、ピエモンテのあちこちの駐屯地で過ごした。文学趣味に溢れ、暇を見ては文学に耽っていたのか?――「実を言うと、そうした余暇のとき、わたしは丹念に駐屯地の放埓生活を過ごし、書くことなど考えず、読むのもほぼ稀でした。『部屋をめぐる旅』に書いた、しばらく軟禁状態に置かれるという情況(決闘の「道理」を述べている第3章を参照のこと)がなければ、わたしが話題になることもなかったでしょう」と、かつて「出自」について訊ねたとき、笑いながら答えてくれた。その独創的な旅に先立って、もっと大胆で開放的な旅、気球の旅をしている。シャンベリ近くの野原から気球で飛び立ち、2里か3里ほど先に降りた。決闘罪による軟禁、気球の旅、若さゆえの溌剌ぶりである。『部屋をめぐる旅』を書いたのは26歳か27歳のときで、海兵隊の士官としてアレッサンドリアに駐屯していた。しかし、より後の日付を示唆する記述も幾つか見られる。何年か抽斗にしまっておき、少しずつ項目を書き足していたのだ。93年か94年ごろ、ローザンヌに兄ジョゼフを訪ねたとき、グザヴィエはジョゼフに草稿を渡した。「兄は推薦者であり庇護者であったのです。兄は、わたしが熱中して下書きを溜めていた新しい暇つぶしを褒め、わたしが帰ったあとで整理してくれました。間もなく兄から印刷された冊子(トリノ版、1794年――1796年にはパリで出版された。1796年5月23日の「パリ新聞」には、とても好意的な書評が載っている)を受け取って、わたしは乳母に預けた息子と大人になってから再会した父親のように驚きました。とても嬉しくなって、すぐさま『部屋をめぐる夜の遠征』に取り掛かりました。しかし兄は、わたしの計画を伝えると、翻心を促しました。続きを書くと、煌めく掌編の価値が全て失われてしまう、というのです。兄は、あらゆる続編は碌でもない、というスペインの諺〔『ドン・キホーテ』続編第四章で学士サンソンがドン・キホーテに言った台詞「続編がよかったためしはない Nunca segundas partes fueron buenas」から。セルバンテスが第二部を書く前に贋作の続編が出たことへの当てこすり〕を述べて、何か他の題材を探すよう勧めてくれました。それで、もう続きは考えなかったのです」
この愉快な『部屋をめぐる旅』を読み返すと、著者が直接われわれに告白するよりも深く、著者について知ることができる。確かに、それは半ば自嘲的な雰囲気で行なう、告白のひとつの方法なのだ。穏やかな「諧謔」に覆われているが、それは多くの章から想起される〔ローレンス・〕スターンほど顕著ではない(第19章でジョアネッティを責めたことに後悔の涙を零したり、第28章で貧しいジャックを手酷く扱ったことに涙したりというのは、実にスターン的である)。わたしにはむしろ、全体的に、チャールズ・ラムのにこやかで繊細な気品を見て取れる。若い士官の読書や嗜好、純真で自然で移ろいやすく暁光に開かれた魂、(あとで引用するような)軽快な韻、同じくらい軽やかなパステル画、「描く」ことへの情熱、それについて必要とあらば「これはトウビー叔父さんの「十八番」なのだ」と長話をする情熱、といったものが見られるのだ。ダンテが既に、当時の粋を極めた描写をしていた。アンドレ・シェニエも描いていた。ふたつの筆を執るのはいたって自然でないか?メーストル氏は、ふたつの藝術のうち彼が名声を博していないほうについて、より多くの考察や検討をしたようだ。もう片方については、あまり文彩の研究や分析をせずに筆を走らせている。もっとも、絵画にしても、自慢げで論説めいた『部屋をめぐる旅』第24章とは裏腹に、彼にとっては、愛する顔や幸せな光景、アルプスの谷間、地平線を飾る風車、ナポリ近くの曲がりくねった道、かつて腰を下ろしたがもう座ることのないであろう岩棚、かつて祖国であった様々な場所の心地よい追憶すべてを、いつでも留めておくための手段なのだ。
『部屋をめぐる旅』の優しいからかいは、「精神」に対する「獣性」と呼ぶところの「他者」によるあらゆるしでかしに及び、一貫している。モラリストの観察が、驚きと発見の態度のうちに、素朴な表現によって研ぎ澄まされた多くの皮肉として現われている。オーカステル夫人の肖像画(第15章)を思い出してみよ、全ての肖像画と同様、そしておそらく、ああ!全てのモデルと同様、見る者みなに対して同時に微笑みながら、ひとりに対してしか微笑んでいないかのように見せかける。自分だけが見つめられていると信じこむ哀れな恋人!そして乾いたバラ(第35章)だ、謝肉祭の日に心弾ませながら温室へ行って摘んできたときには瑞々しかったのに、舞踏会でオーカステル夫人に捧げても、全く目もくれなかった!遅かったのだ、身づくろいの大詰だった。夫人は最後のピンを取るところだった。誰かが鏡を持ってやらねばならなかった。「わたしは、彼女が自分の姿をよく見られるよう、しばらく後ろで別の鏡を持っていた。すると彼女の顔は鏡から鏡へと映り、艶っぽい姿が連なって見えたが、その誰一人として、わたしに気を向けることはなかった。結局のところ、正直に言おうか? わたしたち、つまりバラとわたしとは、きわめてみじめな恰好だったのだ……彼女が身づくろいを始めたら、もはや恋人は旦那でしかなく、舞踏会だけが恋人となる」
この素晴らしい章のうちに、気品ある掌編には珍しい瑕をひとつ指摘できよう。最後の考えを増幅させて、著者はこうつけ足すのだ、もしあなたがそうした舞踏会で誰かに笑顔を向けられたら、それはあなたが舞踏会そのものの一部であり、したがって彼女に新しく征服された部分のひとつだからである、あなたは恋人の「小数点以下」なのだ。この「小数点以下」が凝りすぎであることは納得されよう。こうした趣向の過ちは、グザヴィエ・ド・メーストル氏には極めて少ない。兄は、より高尚な作風だから、あえてそのような言葉選びをすることも多く、凝った文体だと思われるがままにしている。しかし弟のほうは、いつもは簡潔そのものなのだ。フランス語で書くけれどもパリに来たことのない外国人作家たちの中で彼が傑出しているのは、まさしく簡素な風味ゆえである。その点ではシャリエール夫人に似ている、ふたり以前に類例はない。〔アントワーヌ・〕ハミルトンはアイルランド人だったが、少なくとも若い頃はフランスの宮廷で過ごし、またほとんど同じことではあるがチャールズ2世の宮廷でも過ごした〔当時チャールズ2世は清教徒革命のためフランスに亡命していたので〕。
この作風の素朴さを、最も洗練された当人の素朴さと結びつけても、驚かないでほしい。実際そうなのだから。グザヴィエ・ド・メーストル氏自身「シベリアの少女」について「世の中を深く学べば、実り多い探究のできた者は、素朴で何の衒いもなくなるのが常だから、出発点とすべきところへ辿りつくために長々と苦労することもある」と述べている。つまり、ハミルトンの趣向が自然で素朴なのは、ヴォルテールがそうであるのと同じなのだ。グザヴィエ伯爵はむしろ、到達点と思われているけれども出発点である素朴さに満足している(文法上の軽微な過ちも、趣向の過ちと同じくらい、メーストル氏においては稀である。念のため、わたしのほうが間違っていないとも限らないが、それについて幾つか細かいことを書き留めておく。というのも、たとえば、肖像画を機械的に拭き、精神が空を飛んでいるとき、ブロンドの髪を見たために、たちまち精神は呼び戻される。「太陽の高さ「から」〔正:まで〕昇っていたわたしの精神も、仄かな胸騒ぎを覚え……」「印象づける」と「押しつける」、ポケットから紙束を「追い出す」〔正:取り出す〕……ただ、もう沢山だ。以前わたしは、陽気なフロワサールの同国人であり、少なくとも文才において同時代人シャペル〔本名Claude-Emmanuel Luillier〕に匹敵する、機知に富んだエピクロス的な詩人レネ〔Alexandre Lainez〕による諷刺詩を見つけた。ある朝起きると、こう呟いたのだ。
〔ダンジョー神父Louis de Courcillon de Dangeauは17~18世紀の文法学者〕)。
『部屋をめぐる旅』に戻ろう。精神と「他者」の対立や口論や和解は、この愛すべき「諧謔家」に、細やかで深みのある哲学的考察をもたらしている(第10章を参照のこと)、心理学会の方法体系が職業的分析家に与えることのできなかったものだ。すぐに気品と情感も混ざり込み、やわらかな真面目さを加えている。友人の死と霊魂不滅の確かさについて書かれた、心打つ第21章を再読してみよ。さらに続けて「先の章は長いこと筆先まで出かかっていながら書かずにおいたものだ。この本ではわたしの精神の明るい側面だけを見せようと決めていたが、ほかの試みと同じように、これも上手くは行かなかった」と述べている。実際、メーストル氏の作品に憂鬱は表われていない、ただ時おり漏れ出すのみである。峻厳な国の只中に生まれ、雲がかった様子は全く窺えない。ラマルティーヌ氏が近刊の詩集の一編でヴィネ氏〔Louis de Vignet〕について述べたこと、そこには美しい調べで歌う空の鳥を間違いなく見つけられ、また古来よりほとんど変わらぬ響きを見つけたくなるだろうが、それをメーストル氏に対して言うことはできないだろう。
こうしたものはグザヴィエ伯爵の作品にあまり見られず、微かに察せられるだけである。感傷や、深刻で憂鬱な奥底は、善良さが隠しているのだ。普段、彼の資質は善良さと謙虚さによって覆いをかけられ、半ば秘匿されている。長時間一緒にサロンにいても気づかないだろう。一般的な問題にはほとんど立ち入らないし、何事についても出しゃばらず、ふたりでの会話を好む。ありがたい話を楽しみ、ずっと聴いているのが分かるだろう。フランス精神は、微かなサヴォワ訛のうちに自分の面影を見出し、心地よく受け入れる。「ふるさとの訛は、言葉に残るのと同じように、頭や心にも残るものだ」と、ラ・ロシュフコーが言っていた〔『箴言集』第342〕。山国のパンに塩とクルミの風味があるように、サヴォワ訛で聞く考えは、しばしば滋味あふれるように感じられるのだ。
サヴォワがフランスに併合されたとき、グザヴィエ伯爵はピエモンテで軍務に就いていたが、彼の言によれば半ば彼のことを見捨てているという祖国を、彼のほうでも放棄せざるを得ないと思った。フランスのイタリア遠征によって、祖国から追い出されたのだ。ロシアへ亡命したが、文学に関する荷物などほとんど持って行かなかった。『部屋をめぐる夜の遠征』の冒頭数章は持って行っただろうが、その第11章で述べている『ピネローロの囚われ女』や『24編の詩』はなかったに違いない、そのようなものは全く書いていなかったし、戯れに述べただけだからだ。北国に着いて最初に考えたのは、自分の資産は絵筆しかない、多くの亡命貴族と同じく絵筆で生計を立てよう、ということだった。しかし運命は違った。剣を手放さずに済み、ロシア軍で徐々に昇進して将軍にまでなったのだ(1810年12月にはグルジア攻囲で右腕に深い傷を負っている)。スラヴ美人の見本のような顔立ちの、意中の才媛と結婚し、そこに身も心も落ち着けた。幸せを見出したのだ(ザグリアツカ嬢はロシア皇帝皇后両陛下の侍女である。1812年に結婚した。1839年のパリ滞在時、わたしが彼の部屋にいたとき、彼の妻も暫し部屋に入ってきた。彼は妻を見ながら、思わずわたしに「どうです?美人でしょう!」と言ったのだった)。
『部屋をめぐる旅』を書いてから20年が経っていた。1810年のある日、兄も同席したサンクトペテルブルクの集まりで、話はヘブライ人の癩病〔旧約聖書で描かれた癩病のこと〕に及んだ。誰かが、この病気はもう存在しないと言った。それでグザヴィエ伯爵は、自身の知っていたアオスタ市の癩病者について語ったのだ。聞き手に興味を持ってもらうため、また自身も気に入っていたため、それまで誰にも言わずにいた話を、切々と熱弁した。それを書き記そうと思い立った。兄も励まし、渡された初稿を褒め、短かくするようにとだけ助言した。サンクトペテルブルクで『部屋をめぐる旅』と合本にして出版できるよう取り計らった(1811年)のも兄である。しかしフランスでは、『アオスタ市の癩病者』も『部屋をめぐる旅』も、1817年あるいはもっと後まで、ほとんど知られていなかった。
したがって『アオスタ市の癩病者』の話は、著者が部分的には少女自身から聞いた『シベリアの少女』の話と同じく、そしてグザヴィエ伯爵の物語が全てそうであるように、膨らませているにせよ、本当のことなのだ。わたしは彼から、まだ書いたことはないという、ワイト島に住むフランス人の亡命士官の感動的な話を聞いた。もし彼が言語によってフランスに属しているとすれば、語り口によってイタリアに属しているといえよう。彼の話は全て「本当」である。作り話ではない。現実を正確になぞって小話に写している。表現の選択や洗練、心地よく広がっている人間味のある敬虔な語り口が素晴らしいのだ。フランスには、そのような「語り手」や、空想奇想のない真の「報告」作家〔フランス語のnouvelleには「報告」と「小説」という意味がある〕は、ほとんどいない。グザヴィエ・ド・メーストル氏をメリメ氏に並べたら意外だろう。しかしふたりはフランスで最も優れているのだ、一方は事実を写し、もう一方は事実を作るのに長けている。確かに『アオスタ市の癩病者』や『シベリアの少女』や『コーカサスの捕虜たち』の作者は、『堡塁奪取』や『マテオ・ファルコーネ』の作者に彩色も奥行も鑿も劣り、つまりは技術に乏しいが、しかし自身の流儀においては同等に完璧であり、何より素朴で人間らしいのだ。
哀れな癩病者は、アオスタ市に住む前はオネリアで暮らしていた。フランス人が、サヴォワとニース伯領を占領したのち、その不幸者の住むオネリアまで侵攻してきたので、彼は怯え、危機が迫っていると思ったのだ。他のひとたちと同じく亡命を考えた。ある日、歩いてトリノの前まで来ると、城門で哨兵に止められ、顔を見せるなり小銃兵ふたりに挟まれて総督府へ連れて行かれ、総督は彼を施療院に送った。さらにそこから、住むのを命じられたアオスタ市へと移された。メーストル氏は、そこでたびたび彼に会っていた。善良な癩病者は、ご想像のとおり、とても限られた考えしか持っていなかった。語り手は、そうした境遇の気晴らしになることを何でも伝えたが、あまり多く話しすぎないようにした。全く孤独に暮らしているのだ。そこで(おそらくオーカステル夫人の)若い士官は、バラを秘めたその庭園で、愛する夫人と会う約束をした〔実際にはオーカステル夫人ではなく、アオスタで出会ったマリー=ドーフィーヌ・ペティ〔Marie-Dauphine Pétey〕という女性で、初恋のひとだった〕。そこなら邪魔されないと確信したのだ。癩病者の恐ろしい生垣の蔭で幸せな逢瀬を重ねようというふたりの恋人たち、感動的ではないか?無上の幸福が一枚の震える葉によってかろうじて究極の絶望と隔てられている、これが人生ではないか?
『アオスタ市の癩病者』を読み返しても、分析することはない。涙を零しても、考察を加えることはない。しかし誰もがそう考えたわけではなかった。『アオスタ市の癩病者』の改版が試みられたのだ。グザヴィエ伯爵は出版後もフランスでほとんど知られておらず、兄ジョゼフの作品と思われており、ジョゼフが亡くなった〔1821年〕のち、ある聡明な夫人が彼女なりに小冊子を手直ししてよいだろうと考えた。わたしの手許に『アオスタ市の癩病者、ジョゼフ・ド・メーストル氏作、O.C.夫人の改訂・修正・増補による新版』(パリ、ゴスラン出版、1824年)がある。オランプ・コテュ夫人〔Olympe Cottu〕は序文に「『アオスタ市の癩病者』を読んで、わたしは感動しました。長く温かい知己ゆえ、わたしの感情を全て打ち明けられる、ある友人に話しました。彼にも読むことを勧めました。わたしほどには満足しなかったようでした。「癩病者」の、非情で、ときに御し難い苦しみは、「彼の心を干乾びさせる、もうひとつの癩病のようだ」、と言うのです。(さらには)その不幸者、運命への叛逆者は、ほとんど身体的苦痛について考えさせるばかりで、不具者に対する凡庸な憐憫のようなものしか呼び起こさない、と。彼は、もっと優しく立派な感情による高尚な憐憫を求めており、「癩病者」の絶望よりもキリスト教的な諦観によって何千倍も感動させられたかったのでしょう」と書いている。――友人の口から語られる言い分は、それがグザヴィエ伯爵を批評し校正する者というより、むしろ長いことジョゼフ伯爵の好敵手として、ほぼ並ぶ者と看做されてきた、とても有名な作家(ラムネー氏のこと)であると認めることができれば、より価値を増し、注目すべきものとなるだろう。ともかく、この善良な「癩病者」についての簡潔な話のうちに、感動的とされる部分とは別に、「激しい蘞味のようなものを放っている多くの箇所」を見出したというのは、過敏で神経質な精神の証である。唐突に極端なことを言うものだ。書き足された部分のいくつかがそれなりに繊細で高尚に見えたとしても、何も加えないという理念そのものが挫かれている。『アオスタ市の癩病者』の新版で挿入された部分はすべて、それと分かるよう「角括弧」でくくられており、ちょうど優れたティユモン〔Louis-Sébastien Le Nain de Tillemont〕の歴史書のようだ、もっともティユモンは逆に、(誠実細心な)彼の文章が純粋な原文と混同されるのを懸念していたのだが。ともかく、甘美な物語が台無しにされているのに、心動かされる面白さが、どうやって絶え間ない角括弧を貫いて心地よく流れてゆけるというのか、考えてみたまえ。もしわたしが修辞学の教授だったら、「叙述」の章で『アオスタ市の癩病者』のふたつの版を見開きで比較し、奇をてらった思考や骨を折っての論証など素朴さと簡潔さに圧しかかるだけの劣ったものであることを、逐一指摘して回りたい。改訂版『アオスタ市の癩病者』の著者は、ありきたりの気取った考察など一切ない元の物語の最も貴重な価値のひとつを、認められなかったのだ。おそらく最初の草稿では、ジョゼフ伯爵が縮めるよう勧めた箇所に、表層的な考察が差し挟まれていたのだろう、それを上手く減らしたのだ。慎ましい病人に考察を語らせて、何になるのか?どうして「わたしの忍耐の秘訣はただひとつ、「神がそれを望んでいる」という考えにあります。神がわたしを配された不明瞭で不可知な状態から、わたしは神の栄光を目指します、「なぜならわたしはそこで秩序のうちにあるからです」。実に甘美な考えです!この考えに強く働きかけられて、わたしは「秩序への愛」こそわれわれの本質であると考えるに至りました……」などと、わざとらしい言い回しで読者に教えるかのように喋らせるのか。かの友人がさらに口を挟んでいたら、『アオスタ市の癩病者』がカトリック版「サヴォワの助任司祭の信仰告白」〔ルソー『エミール』第4篇〕となり、引けを取らぬほど雄弁になるまで、あと僅かであった。ああ!放っておいてくれ、どうか読者にその簡潔な物語を終えさせてくれ。わざわざ明示しなくとも、読者は間違いなく自力で道徳を引き出すだろう。「癩病者」が、多大な犠牲によって得られた諦観の中で、おそらく世界の多くの果報者よりも真に幸福であると、ただ独り小声で呟くのを、そのままにさせておくのだ。しかし、それが微かな確信でありますように。この慎ましい不幸者が、自身のことを多くは知らず、われわれに見せつけるのでもなく、自らを差し出してわれわれを感動させ高らしめてくれるのを、誠実な語り手とともに見守ろう。
「何と! 眠りさえあなたを見放すのですか!」と言われたとき、メーストル氏の書く「癩病者」が「ああ! あなた、不眠! 不眠ですよ! 一夜のどれほど長く悲しいことか、あなたには想像できないでしょう、云々……」と叫ぶのは、ごく自然なことだ。この自然な叫びに代えて、改訂版では「ええ、わたしは幾夜も目を閉じずに過ごし、激しい動揺のうちにいました。とても苦しみましたが、しかし神の慈愛は至るところにあるのです……」と語らせている。幻覚に止められるまで、長々と分析が続くのだ。
かつてフェレッツ氏が『論争新聞』〔Journal des débats〕で、この修正を礼儀正しく嘲笑していた(『哲学、歴史、文学についての雑録』〔Charles-Marie de Feletz, Mélanges de philosophie, d'histoire et de littérature〕第6巻を参照のこと)。多くの加筆の中から、妹の死に際して一筋の月光が差し込んだこと、そこでは動かぬ者を照らす夜の天体が「消えゆく太陽」と比較されていることを、取り上げている。率直で気の利いた教訓などひとつも引き出せない、優れた忠言や他にも至るところで巧みな筆致が冴えているのでもない、というのであれば、わたしがこの奇妙で瑣末な試みを取り上げることもなかっただろう、たとえばこのような箇所だ。「人生について言えば、わたしが余儀なくされている孤独といってよい人生は、想像されるよりもずっと早く過ぎてゆきます。それで充分なのです、と癩病者は小さな溜息をついて続けた、わたしは着くためにしか旅しないのです。わたしの人生は起伏を欠き、日々は精彩を欠きます。その平板さが時を短かく感じさせるのです、むき出しの地面が狭く感じるように」
簡潔で甘美な『アオスタ市の癩病者』は、衒いなく、過ぎることなく、世に現われた。間もなく皆の心に然るべき位置を占め、読者それぞれの心に祈りにも似た純粋な感情のひとつをかき立て、一日を祝福する貴重な半時間をもたらした。文学的には、ひとつの派を成したと言えるだろう。身体的困難と精神的感覚の対比が醍醐味となっている一連の短かい物語を挙げることができる(おそらく『不具者』〔Eugène Dayot, Le Mutilé〕が最も新しいものだろう)。しかしそれらは創作なのだ、『アオスタ市の癩病者』はそうでない。多かれ少なかれ流れを汲んだ作品を、あえて幾つかの観点から整理し、とりわけ目を惹く『ウーリカ』〔Claire de Duras, Ourika〕を特筆したい、ただしそこでは癩病ではなく、不幸を生み出す運命的な肌の色が描かれている〔黒人女性ウーリカの悲恋と疎外が語られている〕。「癩病者」の祖を中世まで遡れば、思い当たるのはドイツの心揺さぶる小話『哀れなハインリヒ』に他ならない。ハインリヒとは、突如として癩病に犯された高貴な騎士の名である。サレルノの最も優れた名医は、うら若き処女が自ら捧げた血によってしか治らないことを告げる、そして愛によってそうした処女が見つかるのだ(『彩色新聞』〔Magasin pittoresque〕(1836年9月号)に掲載されたブション氏〔Jean-Alexandre Buchon〕の翻訳によって、この物語を楽しく読むことができる――マルミエ氏は北欧への旅で、その地では癩病者が独特の身分に置かれていること、怖がられるのではなく公的な同情に包まれていることを目のあたりにした(『アイスランドについての書簡』〔Xavier Marmier, Lettres sur l'Islande〕)。確かにその地では、この病気は悪徳によってではなく、生活の困窮や欠乏、腐った食べ物、長期間の湿気、冬の漁業によって罹るものなのだ。全く悪徳と関係ない者も、しばしば罹患する。伝染病ではないし、遺伝病でもない。癩病者に対する医療も手厚い。癩病者を受け入れ、明日には自分が癩病者になることもあると思っている。古来の呪いという考えはなく、メーストル氏の「癩病者」が北国に来ていたら妹と再会できただろうと、マルミエ氏は思いやりを込めて言及している)。
『アオスタ市の癩病者』よりは少し長い、それぞれ優れたふたつの小話、『コーカサスの捕虜たち』と『シベリアの少女』は、1820年ごろ、友人たちの求めで、また著者が相続を約束した近しい親族のために書かれた。そのひとたちに送ったところ、パリで出版された。ふたつの新たな掌編の完璧さが示すのは、彼の巧みな語り口はまぐれではなく天賦の才であり、どれほど自在に様々な応用が利いたかということである。とくに『シベリアの少女』は悲哀によって麗しい、それは本物の、一貫した、深いところから来る悲哀であり、整った語調で、節度ある著者が涙越しにも見抜いている人間性についての細やかで少し皮肉っぽい観察に混ぜ込まれている。ここには新たな比較点がある、彼には再び勝利の機会が用意されている、こう言っては残念だが、ある夫人に勝るのだ。コタン夫人は、メーストル氏が簡潔に語った物語を、『エリザベスあるいはシベリアの流刑者たち』として書いた〔Sophie Cottin, Elisabeth ou les Exilés de Sibérie〕。夫人の本では、少女は夢見がちで、感傷的で、「湖の小屋の流刑者の娘」である。娘には、スモロフという若くて高貴で端整な恋人がいる。娘は彼に旅の案内を望むが、宣教師に付添わせたほうがよいだろうと言われる。娘は最終的に恋人と結婚する。先の癩病者がコテュ夫人の信仰心によって消されたように、純真な、実在する、敬虔で勇敢な少女プラスコーヴィヤは、コタン夫人の感傷のせいで完全に消えてしまった。プラスコーヴィヤ自身の台詞を借りて言わねばならない、それは彼女が、思いがけない運びでエルミタージュ宮殿に案内され、バッカスの巫女たちに支えられたシーレーノスの大きな絵を見たとき、真っ当な驚きから叫んだ台詞だ。「すると、これは全て本当でないのですか?あちらには山羊の脚をした人間が見えます。「まるで本当のものなどいないかのように、存在したことのないものを描くなんて、何と馬鹿げたことでしょう!」」――しかし、メーストル氏が自身の物語においてやってみせたように「本当の」ものを捉え、自ら奉ずる篤い信仰や自覚なしの無邪気な勇気といった側面だけを追いかけるのでなく、同時に、ちぐはぐさのないよう、もっと陽気な場面や、意地悪な自然と人心の卑小さへの視点も加え、一切を忘れることなく、全てを混ぜ合わせ、慈しみの気持ちで全てを提示するには、非常に特殊な才能、隠されているだけに、また著者も自覚しているか分からないだけにいっそう素晴らしい技巧が必要なのだ。
『コーカサスの捕虜たち』では、独特な風習や性格が生き生きと描かれており、常に上品で穏やかな彼の才能のうちに、最も野蛮な現実や自然を書かねばならなくなっても物怖じしない大胆な能力があることを示しているようだ。メリメ氏は、少佐の勇敢な従卒であるイヴァンという登場人物を羨むだろう、忠実であると同時に冷酷でもあり、「アイルリ、アイルリ!」と口笛を吹きながら、邪魔する者に軽々と斧を振るうのだ。
これらの掌編は著者によってロシアから発送された(最初の出版者であるヴァレリー氏〔本名Antoine Claude Pasquin〕が、もっと奇妙な詳細を教えてくれた。草稿がパリに届いたとき、ヴィネ氏を介してデュラス夫人に渡された。この奇特な精神の女性は、本からきちんと推測できないのだと、言わねばならない。たとえば、全く事情を理解せず、ペテルブルクに着いたプラスコーヴィヤが暇つぶしをしていると思ったり、この男(イヴァン)が女を殺したのを怖がったり、云々、云々。彼女の意見が多くの知り合いに広まった。既に草稿を貰っていたヴァレリー氏は全く逆のように思い、彼の手による初版は著者不在ながら細心の注意が払われている(これについてはパタン氏の『文学雑録』に収められた記事を参照のこと〔Henri Patin, Mélanges de littérature ancienne et moderne〕))。著者もまた作品に遅れることなく続き、長いこと去っていた空を再び見ることとなった。ラマルティーヌ氏は『詩的で宗教的な調べ』の中の一編で、メーストル氏の帰還を感傷とともに祝福している、というのも留守中に両家は姻戚関係となっていたのだ。
メーストル氏もまた多くの詩を作っている。しかし、自慢げに仄めかしはするものの、いつも詩作の公開を拒み、もう流行が変わったと言うのだ。ロシアの詩人クルィロフの寓話を訳したり、真似て韻文にしたりしている。そうした摸作のひとつが印刷されたものを、デュプレ・ド・サン=モール氏〔Nicolas Dupré de Saint-Maur〕によって出版されたロシア詞華集のうちに見ることができる。わたしは1817年に書かれた叙情詩の手稿を持っている。崇高な目的を果たせなかった悔しさと、不利な戦いでの感情が、巧みに描かれている。
(これほど叙情的ではない文体で、ある友人に送った手紙は、とても短かいものだが、茶目っ気を欠いてはいない。「わたしは(詩の)才能というものを理解できず、他のひとたちが優れていることも認めたくないので、詩人は散文を韻文に変えられる何かを手首に持っており、散文が頭から紙へと渡るときに手首を通ることで韻文に変換されているのだと考えています。それで、詩人は一発で多少なりとも完璧に書けるのです。散文家にとって慰めとなる考えにすっかり納得して、ある日わたしは左手で韻文を書いてみました、この便利な機能が左手に備わっていることを期待したのです。しかし左手は右手よりも下手でした、それ以来わたしは韻文を書けるようにはならないのだと確信しています。さらに白状すると、その失敗ゆえ、自分の考えの確からしさに疑いを残したままでいます」――その考えがどれほど間違っているにせよ、自称詩人にはひとりならず悪くなく当てはまるだろう、パルスヴァル〔François-Auguste Parseval-Grandmaison〕のように偉大な叙事詩作家ならば何か言えるだろうが)
また、気の利いた諷刺詩も作っている。幾人かが書き写した彼の「墓碑銘」は、ややラ・フォンテーヌの墓碑銘を思わせる。
(最初の詩句は、こうなっている。
だが、ここには「蝶」という美しい一編を載せれば充分だろう、気品と感動があるから、彼の他の作品の記憶を台無しにすることはない。捕虜のひとりが彼に、ある日シベリアの牢獄に一匹の蝶が入ってきたことを話したのだ。
蝶
(この美しい一編はロシア語に訳され、原文を知らなかったフランス大使館の書記によってフランス語に再翻訳された。こうした椿事はミルヴォワの「落葉」〔Charles-Hubert Millevoye, La chute des feuilles〕についても起こったことだ)
メーストル氏は今、多くの用事に呼び戻され、われわれの要望を携えてロシアへ発つところだが、行きがかりに、彼に会うことのできたひと皆のうちに長く残るであろう思い出を残してくれた。面白く読め、そのうえ素朴で洗練された意見を役立てられよう。彼はフランスの現代作家をほとんど読んでいない。フランスへ来たときには、彼の気に入るであろうごく少数の作家すら、ほとんど名前しか知らなかった。流行の著作を見渡して、まず彼はたじろぎ、自分が長いこと異国にいる間にフランス語が変わってしまったのでないかと疑った。そして「それでも多少わたしを落ち着かせてくれるのは、わたしの出会った多くの方々が、書きかたは全く違うにせよ、わたしと同じ言葉を今も話している、ということです」と言った。フランスの両議会の審議を幾つか見物したとき、多くの言葉に面喰らっていた。邸宅の静寂や絶対王政の平穏を出ると、彼は雑音の意味をほとんど理解できず、正直に言って、さしあたりの意味を彼に示すのは大変だった。また彼は議会で15分もすると甚だ居心地が悪くなった。どうしてもっと楽しいひとときを過ごさなかったのか?下院の前を通るたびに、思わずヴェスヴィオ山が浮かんだという。――そう、少なくとも煙についてはそうだ、爆発の危険でないとしたら。しかし彼にとっては危険に思われたのだ。「ヴォルテール河岸」もあまり好きでなく(一家で嫌っている)、なるべく足早に、頭を低くして通り過ぎ、セーヌ川のほうに目を逸らしていたという。皆が思うように、有名な兄の著作に感嘆し、何とも寛大に、教条主義の影を除いて、最も単純な世界観の秩序のうちに、自然に組み入れたようだ。ジョゼフ伯爵の最も美しい本は『フランス教会について』〔De l'Eglise gallicane〕だと考えていた。わが国の立派な文士たちに対し、彼が最も求め、最も惜しんでいるのは、人生の一体性であるらしかった。それは彼自身が持っているのだ。単純さ、純粋さ、慎ましさ、誠実さ。優雅な知性と多感な精神のうちに完全に保たれている、古来の風習の素晴らしい見本だ!――よく褒めていたのは、情感と「諧謔」の作風ということで彼に少し似ている、あるジュネーヴの機知に富んだ作家だ。書類鞄に何か新作の掌編が入っていないか訊ねると、『牧師館』、『遺産』、『伯父の書棚』、『渡航』、『アンテルヌ峠』、『ジェール湖』、つまりテプフェール氏の著作選集を示して、フランスでも知られるようになってほしいと述べた。ところどころ二、三の欠点を取り除くために著者の許可を取っているところだ、というのも言葉づかいや文体について幾つか難点があるのだ。間もなく合意のもとで作られる模写版は、著者によるものだ(すでに刊行され、よく売れた。テプフェール氏はフランスに移入された〔詳しくは同じくサント=ブーヴによるテプフェールの評伝を参照のこと〕)。
グザヴィエ・ド・メーストル伯爵が、交流によって多くの文学的誤謬を和らげ、人間の本質を優しく見直させてくれる人物のひとりとしてわれわれに姿を見せているあいだに、彼の作品も少しずつ売れてゆき、ふたたび感性を確かにするであろう特筆すべき動きがあった。ほとんど告知されず、新聞で称えられることも僅かだった。販売促進のための影響力ある大々的な手段は全く使われなかった。それでも!昨年の12月14日からこの4月19日まで、つまり4ヶ月の間に(本屋にとって何と不作で苦しい時期だったか、ご存じだろう!)、彼の本は1948冊も売れた。正確な数字である、わたしはそれを励ましとして伝えた。つまり今でも感動と簡潔への信仰は続いており、こっそり信奉者を集めることもできるのだ。
サント=ブーヴ
1839年5月
――グザヴィエ・ド・メーストル伯爵は1852年6月12日、サンクトペテルブルクにて、89歳近くで亡くなった。
――『ジュネーヴ万有文庫』誌は1841年10月22日、「水晶体のうちに見える斑点を観察する方法」〔Méthode pour observer les taches que l’on peut avoir dans le cristallin〕と題するメーストル氏の小論を掲載した。しかし、この眼房をめぐる旅には、全く文学はない。身体の精緻で器用な観察に他ならない。そこには、この著者が既に絵画や色彩や水墨の技法について行なっていた繊細な実践と同種のものを見て取れる。
――アルベール・ブラン氏〔Albert Blanc〕によって刊行されたジョゼフ・ド・メーストルの『外交書簡集』(全2巻、1861年)、とくに第1巻の1頁、57頁、296頁には、グザヴィエ伯爵の興味深い出来事が載っている。兄は296頁に、ヴィリニュス、1812年12月21日、と記された弟の手紙を入れている。グザヴィエ伯爵はロシア軍に入隊しており、モスクワから国境までの間に目撃したことを語っている、それは死体の散らばる恐ろしい道で、「途切れぬ戦場」のようだったという。この「曖昧とも誇張とも無縁な」筆による手紙は、1812年の恐るべき退却について、他の多くの証言に、さらに加えられるものである。
〔訳者より:グザヴィエ・ド・メーストルには4人の子がいましたが、ペテルブルクでふたりを亡くし(アレクサンドリーヌ:1814-23、アンドレ:1817-20)、厳しい気候のせいではないかと考えてナポリに移ったのですが、そこでもふたりを喪い(カトリーヌ:1816-30、アルチュール:1821-37)、夫婦ふたりきりでペテルブルクに戻りました。パリを訪れたのは、このイタリアからロシアへ帰る途中のことです。妻のソフィー・ザグリアツカは1851年に72歳で他界し、その一年後にグザヴィエも世を去りました。なお現在ハープ奏者として世界的に活躍している同姓同名のXavier de Maistre氏(日本ではグザヴィエ・ドゥ・メストレと表記されることが多い)はジョゼフ・ド・メーストルの子孫です。〕
(訳:加藤一輝)
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