シャンフルーリ「日本の諷刺画」第7章:日本の諺
(凡例はマガジンのページをご覧ください)
旅行者たちが充分に風俗を知ることのできなかった国民について研究するうち、わたしは諺に頼ることとなった。国民の常識は往々にして諺のうちに数語で凝縮されている。そうした坩堝の中に、民族の機微が溶かし込まれているのだ。
セルバンテスの物語で最も生き生きとしている人物は誰か?サンチョだ。見かけは低級な腹心役だが、無尽蔵に諺を作り続け、ときに憂い顔の主人〔サンチョ・パンサはドン・キホーテを「憂い顔の騎士」と呼んでいる〕の上に立ち、朗らかな顔で、もしかするとドン・キホーテ以上にスペイン気質を伝えている。『日本の諺百選』という本〔河鍋暁斎『狂斎百図』をフランシス・ステナケルと上田得之助がフランス語で翻案したもの〕も、日本の藝術が資料の貴重な情報源を示してくれていながら、学問の遅れから有用な翻訳で研究できないというときに、折よく現われたというわけだ。
諺、その世知の格言は、あるイエズス会士の言うとおり「俗世の経験による原理あるいは命令であり、全国どこでも異論なく流通する貨幣のように、広く使われている」(イエズス会シャルル・カイエ神父『約六千の諺』〔Charles Cahier, Quelque six mille proverbes, 1856〕)。
ステナケル氏と得之助氏は、諺の定義を、わが国の辞書のようにはしなかった。あらゆる慣用句、日本人に特有の言い回しを集めた、それが著者たちを導く主題だったのだろう。日本では版画がとても進んでおり、ほぼ諺と言ってよい下層階級の話法を表題に採ることもあった。挿絵の妙味で著作を引き立てたいと考え、著者たちは絵と文に解説をつけた。そのおかげで、註釈がなければ奇想天外で理解不能なままであった表題と挿絵を、奥底まで見通せるのだ。
著者たちの方法をよく理解できるよう、幾つか例を挙げる。
最初のものは、まさに諺である。
悪事千里を走る
これはつまり、悪い行ないは風よりも速く伝わる、ということだ。張本人が隠そうと気をつけていても、悪事は瞬時に千里を駆け抜ける。
孝行は日本では最も神聖な義務であり、次のような成句が生まれ、様々に描かれている。
鳩に三枝の礼あり
国民的に、子鳩は親鳩より三本下の枝に止まって尊敬の念を表わす、とされているのだ(191頁の挿絵を参照のこと〔挿絵省略〕)。
「銭を剥がす」(銭とは極めて小額の硬貨である)は、フランス語のリアール銅貨を四つに分けるに相当する風俗観察と言えるだろう、日本にヨーロッパよりも吝嗇家が少ないということはないからだ。日本の絵師によって、巧みに見出されたアルパゴン〔モリエール『守銭奴』の主人公〕的な特徴でもって、金銭欲が象徴的に描かれている(177頁の挿絵を参照のこと〔挿絵省略〕)。
老いた妻が一枚の銭を五枚に剥がそうとしている横で、吝嗇家は財産を勘定し、照明を使わぬよう自分の爪に火をともして明かりをとっている!しかし、甚だ滑稽な誇張も、この吝嗇家ふたりをあの世へ連れて行く任務を帯びて近づいてきた鬼の気を削ぐことはない。
阿弥陀の光も金しだい
これはルキアノス的な諷刺領域に踏み込んでいる、つまり次の絵を描いた藝術家は神の雷をほどほどにしか恐れていないのだ(229頁の挿絵を参照のこと〔挿絵省略〕)。
絵の説明はステナケル氏と得之助氏に任せよう。
「ここには金持ちから供物を受け取っている仏像が見て取れる、金持ちは溢れるほど奉納している。この神様は捧げられた金貨を溜め込み、大事に腕で抱えて、願掛けをする金持ちに惜しみなく光と恩恵を与えている。夫婦はご利益にすっかり満足している」
「神様は、彼らに恩恵を浴びせる一方、紙に包んだ僅かな小銭しか捧げない哀れな老人ふたりを、右側の手で軽蔑するように追い払っている。貧しい老人たちは、この仕打ちに驚き、あらゆる栄誉を惜しみなく与えられている金持ちたちを羨ましげに眺めている」
劇作家には、この言葉に添えられた絵をお勧めする、壁に耳あり。左官が均した内壁の黒地に、突然、不吉な耳介をした巨大な白い耳が現われる。器用な作家が上手く使えば、取り巻きの口にすることを何ひとつ聞き漏らさない冷酷な暴君の象徴として、舞台に一定の効果をもたらし、わが国の市民劇の絶望的な平板さを忘れさせてくれるだろうと思う。
より卑猥なものの出現が「噂をすれば影がさす」という成句によって露わにされている。
自由な、あるいは自由を越えた版画が、日本では普通なのだ。上流階級の空想が喜んで広められ、ステナケル氏と得之助氏はその面白い一例を挙げている。
「大名の屋敷で、女中たちが男性の噂話に興じ、こっそり猥らな絵を眺めている。女中たちは、火鉢(暖房器具)の周りに座って、ランタンの薄明かりの下で、興味深いものを矯めつ眇めつしている。とりわけ刺激的な絵の話で一座が盛り上がっていると、突然、紙を貼った窓枠に、巨大なきのこ形の像、関心ある者には然るべき感情を引き起こすものが現われた」
「望んでいたとはいえ予期しなかったものの姿は、女中たちを酷く怖がらせた。ある者はひっくり返って足を宙に投げ出し、また別の者は急に立ち上がって急須を倒し、三人目は袖で顔を隠している」
「この混乱は全てひとりの侍が引き起こしたものだ、女中たちの会話を聞いており、姿勢を楽にしようと辻行灯にもたれかかった、その灯が彼の影を障子(窓枠)に映し、女中たちの目に留まったような形となったのだ」
この絵の解説が、著者たちによる充分な説明だとは思えない。道徳が欠けている、われわれが東洋のものとして理解しているような道徳ではなく、この藝術家によって感じ取られたのであろう道徳が。
この絵師は皮肉な作風を見せており、それによって日本の風俗の奔放さを隠している帷の一端を上げているのだ。この通俗画の中に、庶民の知らない猥褻本に頼るほど擦れた上流階級の女性に対する批判を見てはならないだろうか?
もっとも、絵師たちによるこうした風俗描写は、一国の諺の道徳観を充分に描いてはいなさそうだ、日本人がわれわれに、中国で流布しているものと似た民衆的な格言による規範を与えてくれないとは思えない。
フランスがトンキン戦争で徹底的に思い知らされたであろうように、中国文明には猜疑心から来る厳しい諺があり、優れた統治者は大臣から百の微笑みを得るよりも、農民の涙ひとつ拭うほうがよいといった格言に基づいて生きる人民に用心せねばならない。
おとぎ話で、権力を濫用する君主が見えざる手の激しい平手打ちで不公平な行ないを罰せられるように、庶民は君主やそれに類する者たちに対して、貧困や怨恨、正義感、欺瞞への憎悪、不当な富への侮蔑から作られた諺によって復讐する。
財を成した愚か者とは何か?自分の脂身をどうすべきか分からぬ豚だという問いかけは、粗野ではあるが、大身に対する細民の、抑圧者に対する被抑圧者の、富者に対する貧者の、正当な復讐ではないか?
中国には沢山あるこうした諺を、わたしは日本語から訳してみたい、通俗的な成句の解釈はもう知っているのだから。
(訳:加藤一輝/近藤 梓)
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