シャンフルーリ「ダゲレオタイプにまつわる伝説」
【原典:Champfleury, La légende du daguerréotype (dans Les bons contes font les bons amis, 1863)】
【ダゲレオタイプは1839年にダゲールによって発明された銀板写真です。原著は全5話を収めた子ども向けの短編集で、エドモン・モランによる挿絵がたくさん載っているのですが、拙訳では割愛しました】
パリで最初のダゲレオタイプ師は、ミディという床屋のカルカッソンヌという理髪師で、それまでの職業柄、長い髪に長い腕貫、ゆったりとした胸飾りをトレードマークにして、その恰好しかしてこなかった。けれども、正面扉に何枚も飾られた、自分で撮った肖像写真の中では、霊感のありそうな、いささか蠱惑的な人物のような姿を見せていた。
男たちは写真の前を通ると「カルカッソンヌみたいになりたいものだ!」と思った。娘たちは「カルカッソンヌさんって美男子ね!」と声を上げた。
カルカッソンヌの美貌や写真家としての腕が一帯で噂となっていたので、おのぼりさんのバランダール氏は、新しい方法で作られた自分の肖像画をショーモンへ持ち帰って妻を驚かせようと考えた。
そこで、ある朝その田舎者が工房を訪ねると、カルカッソンヌは胸飾りをさっと整え、髪を風になびかせた。
「素晴らしい肖像写真を撮ってさしあげましょう。あなただと分からないくらいにね」
「いや、わたしだと分からないような写真を撮ってどうするんですか?」バランダール氏は大声で言った。
「言葉の綾ですよ……座って、動かないでください……ひと梳きさせてもらいますね……動かないで……あなたの地元には心地よく髪を切るひとがいないのですか……動かないで、鋏はどこだ……チョキ、チョキ、チョキ、これでよし。鏡でご確認ください、動かないで……10歳は若く見える……ちょっと待って、軽くポマードをつけましょう……動かないで」
「それで肖像写真は?」しびれを切らしたバランダール氏が声を上げた。
「すぐに撮ります。ただ旅焼けを取るのに少し白粉をつけましょう、動かないで!」
「カルカッソンヌさん、どうして動いてはいけないんですか?」
「撮影中じっとしてもらわないといけないので、今から慣れてもらうためです……ご辛抱ください、さあ始めましょう。動かないで!」
そしてカルカッソンヌは、被写体を狙う大砲のように巨大なダゲレオタイプを、バランダール氏に向けた。
「まぶたを動かさないでください!注意して!動かないで!」
「まったく、こんな姿勢には耐えられない」目を見開いたバランダール氏は思った。
「手を動かさないで!胸をもっと張って!……それ以外は動かさないで」ダゲレオタイプ師は機械に頭を突っ込んで言った。
技師は箱から出るとバランダール氏のところへ戻ってきた。
「はなはだ見栄えの悪い髪が一房ある……コテをあてておけばよかったな。さあ、お待たせしました、始めましょう。動かないで!1、2、3!注目!撮れました!」
「やっとだ!」バランダール氏は立ち上がって叫んだ、つらい不動の姿勢が終わったのと光で写された肖像を見られるのとで嬉しくなっていた。
しかし写真板は黒よりも黒く、口も鼻も目も耳も分からなかった。
「動きましたね、やり直しだ……さあ座って、もう動かないでください」カルカッソンヌ氏は言った。
バランダール氏は椅子に座り直したが、3回やっても写真板に表われたのは相変わらず腹立たしい四角一面の黒だった。
「つまりあなたは絶えず動いているんですね?でも、じっとしているなんて簡単なことでしょう!」ダゲレオタイプ師が言った。
じつのところ、この元理髪師はダゲレオタイプの技術など全く分からず、見知らぬ化学物質を当てずっぽうに使っており、光を手懐けるのに難儀していたのだ。
4度目の撮影を試みているとき、バランダール氏は鼻に奇妙なむず痒さを感じ、掻かずにいるにはかなりの自制心を要した。
「おお!おお!これはましな結果だ」カルカッソンヌが叫んだ。
そして黒い写真板の真ん中に鼻が映っているのを得意げに客に見せた。
「鼻は動かさなかったんですね、だからよく映っている。もう少し頑張れば上手くできるでしょう」
6度目の撮影で、バランダール氏は蚤の大群に襲われたかというほど耳を掻きながら立ち上がった。
「おかしい、耳がなくなったような気がする」そう言って耳を掻きむしった。
「ブラボー!上出来だ!」カルカッソンヌが叫んだ。
今度はバランダール氏の耳が、ごく普通の姿で板に映っていた。
「素晴らしい、次こそ全部映るでしょう。動かないで!」ダゲレオタイプ師は言った。
バランダール氏は蟻の一団が髪の中を動き回っているように感じた。
カルカッソンヌ氏は言った。「気にしないでください、ポマードが頭皮に浸みて毛根が疼くんです」
蟻の感覚のあとには立派な前髪が写真板に映った。
9度目にはバランダール氏の右目がチクチク痛み、そのせいで左目を閉じてしまった。
すると確かに右目が板に表われた。
「おお神よ!何という痛さだ!」バランダール氏は胸騒ぎに心を締めつけられてひとりごちた。この哀れな男に自己の消失を思わせた、痒みや痛み、蟻の這うような感覚は、何を意味していたのか?
座る者を暗く大きな目で冷ややかに見つめる不思議な機械の前に身を晒すのは、危険なことではなかったか?大きな黒布に頭をうずめたままのダゲレオタイプ師の服装は、何と不気味なことか!
気が確かならば、バランダール氏は工房から立ち去っていただろう。だが、椅子に座って機械と向き合ってからというもの、意志は衰え、始終「動かないで」と言いながら20回も座らせては撮り直すカルカッソンヌに逆らえなくなっていた。
一方カルカッソンヌのほうは、実験によって腕を上げ、かなりぼんやりしてはいるが当初の黒さと比べれば格段に優れた肖像写真のようなものを撮れるようになっていた。
じつは、この粗末な成果を得るために、ダゲレオタイプ師は劇薬の化学物質を写真板に塗っていた。
はや3時間も経ち、弱りきったバランダール氏が力をふり絞って汗だくの額を拭おうとしたとき、カルカッソンヌが勝鬨を上げた。
「ついに素晴らしい肖像写真ができた、すべてがそっくりだ!」
歓喜の叫びに、かすれた声が答えた。
「見せてください」
「ええ、バランダールさん、どこですか?」ダゲレオタイプ師が尋ねた。
「ここですよ」
「どこですか?」
「椅子にいますよ」
確かに、その声はついさっきまでモデルの座っていた椅子から聞こえた。だが、もう田舎者は見当たらなかった。
「バランダールさん!」ダゲレオタイプ師は叫んだ。
「カルカッソンヌさん!」
「ははあ、バランダールさん、ご冗談を……隠れていないで出てきてください」
「わたしが見えないんですか、カルカッソンヌさん?」声が言った。
工房を隈なく探し回った末、無学なダゲレオタイプ師にもようやく恐るべき事実が分かった、ショーモンの哀れな男の顔も体も服も消してしまうほど強力な酸を使っていたのだ。
50回も実験を続けたために、モデルの身体は少しずつ消えていった。バランダール氏は声しか残っていなかった!
しかるべき人物を消したことは法的な罪に問われるだろうと怖くなったカルカッソンヌは、ダゲレオタイプ師という危ない仕事をやめ、元の理髪師に戻った。しかし、まるで永遠の罰のように、バランダール氏の影がいつもどこへでも憑きまとい、かつての姿に戻してくれと絶えず懇願するのだった。
このもっともな訴えを鎮めようにも、カルカッソンヌが静かなひとときを得られるのは、髭を剃ってもらおうとするひとが過度の用心からこう言うときだけだった。
「もう動きません!」
(訳:加藤一輝/近藤 梓)
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