グザヴィエ・ド・メーストル「コーカサスの捕虜たち」冒頭

【原題:Les Prisonniers du Caucase】
【「コーカサス(カフカス)の捕虜」というとプーシキンの詩やトルストイの小説が有名ですが、それらがロシア人の捕虜と現地の娘とのエキゾティックな恋物語であるのに対し、メーストルの本作は少佐と従卒との信義を主題とした冒険譚です。原典はŒuvres complètes du comte Xavier de Maistre (Nouvelle édition), 1866を使用しました。()は原註、〔〕は訳註です】

コーカサス山脈は長いことロシア帝国に包囲されているが、属してはいない。荒々しい住民たちは、言語も利害もばらばらで、多数の小部族を構成し、互いに戦略的な関係を結んではいないが、等しく独立と掠奪を志向して生きている。

もっとも人口の多く恐ろしい部族のひとつが、コーカサスの頂にまで谷筋の通じている大カバルダ〔北コーカサス地方の西部、クバン川の上流域〕と小カバルダ〔北コーカサス地方の東部、テレク川の上流域〕の両域に住むチェチェン族である。住民は美しく勇敢で知的だが、残酷な盗賊でもあり、ほとんど常に前線兵(カスピ海と黒海の間、テレク川の河口からクバン川の河口までを守るロシア軍の国境警備隊のこと)と交戦状態にある。

この危険な部族たちの中、長大な山脈の中に、ロシアはアジアに有する領地への道を建設した。ジョージアまでの道は飛石状に方形堡を設けて守られているものの、その堡塁の間ひとつ渡ろうという旅人すらいない。週2回、歩兵による輸送隊が、大砲とコサック騎兵の大隊を連れて、旅行者や政府の文書を護送していた。堡塁のひとつは山脈の麓にあり、それなりの人口を擁する小さな村落となった。そこでヴラジ=コーカサス(ロシア語で「制御する」「支配する」を意味するヴラジェーチという動詞から)と名づけられ、先に述べた大変な任務に当たる隊の司令官の宿舎となった。

ヴォログダ連隊のカスカンボ少佐は、ギリシャに先祖を持つロシアの貴族で、コーカサスの峡谷にあるラルスの駐屯地に指揮官として赴任することになっていた。早く任地に着こうと、無謀なほど勇敢な少佐は、軽率にも自分の指揮下にあるコサック兵50人ほどを従えて行軍に出ようとし、さらに甚だ軽率なことに計画を実行する前から口外し吹聴していた。

国境近くに住むチェチェン族は平和的チェチェン族と呼ばれ、ロシアに対して従順で、そのため自由にモズドクへ行ってよいことになっていた。とはいえ今でも大部分の者が山間の部族と関わりを持っており、半数がしばしば山賊に加わっていた。その山賊をしている者どもが、カスカンボの行軍のこと、さらには出発日まで聞き及び、大勢で行路に出向いて待ち伏せしたのだ。モズドクから20ヴェルスタ〔ロシアの距離単位、20ヴェルスタは約21km〕ほど離れた、藪に覆われた小さな丘を曲がるところで、カスカンボは700人の馬乗りに襲われた。コサック兵たちは馬を降り、さほど離れていない堡塁の部隊が加勢してくれることを祈りながら、毅然として攻撃に耐えた。

コーカサスの住民は、個々にはとても勇敢だが団体攻撃は苦手であり、だから平時の部隊にとって大した脅威ではない。しかし優れた武器を持ち、正確に攻撃してくる。このときは大軍でもあったから、かなり一方的な戦いとなった。長く続く銃撃戦でコサック兵の半数以上が戦死あるいは戦闘不能となった。残った者は死んだ馬で円形の防壁を作り、中からなけなしの弾を撃った。チェチェン族は、いつも遠征に同行させ必要に応じて通訳に使っているロシア人の脱走兵に、コサック兵たちに向かって「われわれに少佐を引き渡せ、さもなくばお前たちをひとり残らず殺す」と叫ばせだ。カスカンボは、味方の敗北は必至と見て、生存兵の命を守るため、自身を差し出すことを決めた。配下のコサック兵に剣を預け、単身チェチェン族のほうに歩み出ると、すぐさま銃撃は止んだ、というのもチェチェン族の目的はただひとつ、カスカンボを人質にして身代金を得ることだからだ。投降して間もなく、送られてきた救援隊が遠くに見えたが、あとの祭りだった。山賊たちは素早く立ち去った。

少佐のディンシク(従卒)は、少佐の持ち物を積んでいる騾馬の後ろに残っていた。雨溝に隠れて戦闘が終わるのを待っていると、コサック兵たちに出会い、主人の不運を告げられた。勇敢な従卒は、ただちに主人と運命を共にしようと決意し、騾馬を曳いて、チェチェン族の帰っていったほうへと馬の蹄跡を辿った。暗くなって道を見失いつつあったとき、うろついていた敵に出くわし、チェチェン族の溜まり場に連れて行かれた。

自分の従卒が進んで苦境を分かち合おうと来てくれたのを目にした捕虜の気持ちは、推して知れよう。チェチェン族は舞い込んだ戦利品をその場で分配し、少佐には道具一式の中からギターだけを嘲笑まじりにくれてやった。イヴァン(これが従卒の名前である)(イヴァン・スミルノフといい、フランス語に訳せば「温和なジャン」とでも言えよう、あとを読めばお分かりになろうが、彼の性格とは極めて対照的な名前である)はギターを掴み取り、突っ返すよう命ずる主人に反対した。「気落ちしてどうするのですか?「ロシア人の神は偉大です(危機に際してロシアの兵士がよく言う諺)」。山賊たちの興味は、あなたを捕まえておくことであって、危害を加えることはないでしょう」

数時間の休憩ののち、一行が再び歩き出そうとしたとき、チェチェン族のひとりが合流して、ロシア人たちが急行しており、どうやら他の堡塁の隊も追撃のために集結しているらしいと伝えてきた。族長たちが相談を始めた。問題は潜伏先を隠すことだ、それは捕虜を逃がさないためだけでなく、敵を村落の外に向かわせ報復を免れるためでもある。一行は方々の道に散開した。徒歩の10人が捕虜ふたりを連れてゆくこととなり、100頭あまりの馬は集団のままカスカンボの向かうべき方角とは違う向きに進んだ。カスカンボは鋲つきの靴を取り上げられた、土にそれと分かる跡を残すだろうからだ、それでカスカンボもイヴァンも朝のうちは裸足で歩くこととなった。

川のほとりに着くと、少人数の一行は岸に沿って芝の上を半ヴェルスタほど進み、岸の最も切り立っているところを、棘のある茨の中、足跡を残さぬよう注意しながら降りていった。少佐は疲れ果てており、小川まで連れてゆくのに帯を支えてやらねばならなかった。足は血まみれになっていた。残りの行程をこなすため、靴を履いてよいことになった。

一行が最初の村に着いたとき、カスカンボは疲労以上に傷心がひどく、護衛の者たちにも命にかかわるほど衰弱し憔悴して見えたので、もっと人道的に扱うことにした。休憩を与え、馬に乗せて行かせた。ただし、ロシア人たちを然るべき捜索から逸らすため、そして捕虜が自分の居場所を味方に知らせないようにするため、村から村へ、谷から谷へ、用心のため何度も捕虜に目隠しをしながら運んでいった。大きな川を渡ったとき、カスカンボはソーニャ川であると思った。道中では食事も休憩も充分に与えられ、よく世話してもらっていた。ところが、最終的に閉じ込められることになっている奥地の村に着くと、チェチェン族の態度は一変し、あらゆる酷い仕打ちを受けた。手足に鉄枷を嵌め、鎖で樫の首かせ棒に繋がれた。従卒は幾らか手加減され、鉄枷は軽く、主人の世話をすることが許されていた。

こうした状態で、カスカンボが辱めを受けるたびにロシア語を話す男がやって来て、一万ルーブルと定められた身代金を得られるよう味方に手紙を書けと勧めてくるのだった。哀れな捕虜には大金を払う術などなく、政府の保護を望むより他なかった、政府は何年か前に山賊の手に落ちた大佐を買い戻したことがあるのだ。通訳は紙を寄越し、手紙を届けさせると約束した。しかし同意したあと何日か姿を見せなくなり、その間に少佐は更に酷い苦痛を受けさせられた。食事を与えられず、敷いていた茣蓙も枕にしていたコサックの鞍の座布団も取り上げられた。再び通訳が現われると、こっそり教えてやるといった態度で、国境警備隊が要求額を拒否したり支払いが遅れたりしたら、チェチェン族は要した費用と手間の償いに少佐を処刑すると決めている、と告げてきた。手酷い扱いの目的は、より逼迫した手紙を書かせるためだったのだ。ついに、紙と、タタールの道具である尖らせた葦を渡された。手と首を繋ぐ鉄枷を外し、自由に書けるようにした。手紙を書き終えると、その翻訳を聞いた族長たちは、手紙を国境警備隊の司令官に届けさせた。
それ以来、やや待遇はましになり、鎖も足と右手を繋ぐものだけになった。
宿の主人、というか看守は、60歳の老人で、大きな体と獰猛な顔つきは性格どおりであった。ふたりの息子をロシア人との決闘で失ったという事情により、村民の中から捕虜の番人として選ばれたのだ。

このイブラヒムという男の家族には、片方の息子の妻であった35歳の未亡人と、マメと呼ばれる7歳か8歳の子がいた。母親は、老いた番人と同じくらい意地悪で、いっそう気まぐれだった。カスカンボは非常に苦しめられたが、幼いマメの優しさと温かさは気晴らしとなり、また苦しんでいるとき実際に支えられもした。この子は捕虜にたいそう懐いて、祖父が脅したり痛い目にあわせたりしても暇を見て遊びに来るのを止めなかった。この国の言葉で客とか友人とかいった意味のコニアクという名前をくれた。手に入れた果物をこっそり分けてくれた。断食で苦しめられているときなど、幼いマメは同情して、家族のいない僅かな隙に、灰の下に入れて焼いたパンやジャガイモを持ってきてくれた。

手紙を送ってから音沙汰ないまま数ヶ月が過ぎた。この間にイヴァンは女と老人から好意を受けられるようになっていた、少なくともふたりにとって必要な人物となっていた。分遣隊の将校の台所に立つだけの仕事は全て心得ていたのだ。上手くキセリ(ロシアの酒、小麦で作られるビールの一種)〔クワスと混同しているか?〕を作り、きゅうりの塩漬けを拵え、食卓に甘いものを取り入れ家主たちを慣れさせた。

さらに信用を得るため、どんな時でも一緒に道化芝居を演じ、日々新しい冗談を考えて楽しませた。イブラヒムは、とくに一緒にコサック踊りをするのを見て喜んだ。誰か村の者が訪ねて来ると、イヴァンの鉄枷を外して、踊りをやらせた。いつも愛想よく踊ってみせ、毎回ちょっとした滑稽な振付を加えた。こうした日頃の態度によって、村を歩き回る自由を得ると、おかしさに釣られた子どもの一団を従えるのが常であった。タタールの言葉を知っていたので、よく似た方言である当地の言葉もすぐに覚えた。

少佐もまた、従卒と一緒にロシアの唄を歌ったり、ギターを弾たりして、残忍な人々を楽しませるよう強いられた。はじめのうちは座興のために右手の鉄枷を外されていたが、あるとき鉄枷をしていながら手すさびにギターを弾いているところを女に目撃され、それからは外してもらえなくなった。かわいそうな音楽家は、才能を見せてしまったことを一度ならず悔やんだ。のちにギターのおかげで自由の身になれることなど、まだ知る由もなかったのだ。

〔以下、少佐と従卒の捕虜生活が続きます〕

〔訳者の確認した限り、以下の既訳があるようです。
中村義男「コーカサスの捕虜」、『コーカサスの捕虜』、山根書房、昭和19(1944)年
大塚幸男『コーカサスのとりこ』、第三書房、昭和27(1952)年(語学教本)〕

(訳:加藤一輝)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?