ロドルフ・テプフェール「エリザとヴィドマー」

【原典:Rodolphe Töpffer, « Elisa et Widmer » dans Nouvelles genevoises, 1845】
【本作の初出は「ジュネーヴ万有文庫 Bibliothèque universelle de Genève」誌の1834年3月号ですが、シャルパンティエ版『ジュネーヴ短編集』(1841)にはなく、のちのJ.-J. ドゥボシェ版『ジュネーヴ短編集』(1844)に挿絵つきで収録されています。フランス語で書かれていますが、表題からも分かるとおり主人公はドイツ系です。テプフェール自身が父方はドイツ系であったこととも関係あるでしょう。〔〕は訳註です】

わたしはときどき墓地へ行く。その場所はわたしを悲しませるよりもむしろ感動させるのだ。歳を重ねるにつれて、生きている者たちとの繋がりが解け、亡くなった者たち、つまり、わたしが間もなく加わるであろう来たるべき集まりとの繋がりが、密かに作られているような気がする。

わが国のプロテスタントの都市では、日曜日のある時刻になると、通りは静まり返り、家々には誰もいなくなる。聖なる沈黙が街に漂っているかのようだ。家族連れは太陽と気晴らしを求めて田舎に散らばり、少数の信仰者、老人、病人、何らかの不幸に見舞われた者たちが、群衆と喧騒から逃れ、教会の玄関前の日陰に座って、礼拝に耳を傾け、主への祈りを唱えている。わたしはしばしばそうした聖堂のひとつに入って、穹窿の下の冷たさを味わい、説教の神秘的な響きに耳を傾け、パイプオルガンの前奏に感動し、ひとたび心動かされたら聖歌の合唱に加わるのだ。誰もいない上階の回廊に、わたしだけが立っている。わたしは聖具室係と知り合いだが、彼はわたしのことを、必ずしも健全な考えを持っているわけではない、おかしな男だと思っている。

この時刻になると、もの悲しくなって、わたしはたびたび家を出て野原へ行く。街の日陰を抜けて、蒼穹の下へと赴く。しかし、人だかりに悩まされ、祭りの服に戸惑う。喧騒と土煙に悲しくなって、見捨てられた場所のほう、人里離れた道のほうへと向きを変える。わたしの足は、誰もいない、ただ死者だけが最後に歩んだ道を辿る。入口に着くと、敷居を跨いで、墓の間を彷徨う。

ここでわたしの心に染みいるのは、もはや悲しみではなく、ときに少し苦い、しかしたいていは甘くて温かい憂鬱だ。足で草を踏みしめ、柳の木蔭を通り、幽境を囲む白い壁のまばゆい輝きを眺めると、それ以上の気晴らしはなく、わたしは時間の速く充実した流れを感じる。感覚が満たされると、千の夢想が心を捉え、千の人物が現われ、千の感情が息づく。曖昧だが深遠な、不吉だが感動的な、詩の領域だ。人生を、年齢を、運命を超越し、わたしの踏みしめる大地を覆うさまざまな世代を天から眺めている気になる。間もなく我に返り、踏まれる側になる。青春は終わり、喜びは残っていない。もう情熱を燃やしたり陽気に笑ったりはできないが、魂はまだ死という大いなる謎に興味を持つ。死は抗いがたい魅力で魂を惹きつけ、この悲しい喜びは他のいかなる喜びにも勝る。

それに、この死の平原がわたしに呼び起こす記憶の一切が暗いわけではない。楽しい子ども時代に守ってくれた存在、わたしが喪の悲しみを知るよりも前に亡くなった存在が、そこに匿われている。苦しみを覚えるのは時が経ってからだ。もっとも、一生を長い子ども時代のまま終える者が、どれほどいることか! 何にも執着しないから何にも苦しまない軽薄な存在、おめでたい存在だ、そんな幸せは羨ましくないが。

そういうわけで、年老いた叔母の眠るこの場所を訪ねるとき、悲しみはなく、むしろ今なお残っている記憶が、みずみずしく朗らかな少年期を思い出させてくれる。わたしが呑気で喜びの昂奮に満たされていた頃、体が不自由で、老けこんで、年齢と苦悩ゆえに腰の曲がった叔母は、人生の終わりに差しかかっていた。わたしは叔母に会いに行った。十字の窓枠ごしに湖が見え、青い水が見事に感じられた。隠れ家から見える世界は、わたしの若い想像力にとって、紺碧と豊穣に飾られた住まいであり、遊びと笑いのための煌びやかな宮殿であり、鳥が空を飛び生きものが花の中で草を食む幸福な安息の地であり、人間がいつも穏やかな至福を感じる場所だった。今日、こうした幻想は持たなくなったが、それでも記憶には鮮明に残っており、骨と塵で迫ってくる墓にいても、死という恐ろしい現実を記憶の輝く網で隠してくれる。

可哀そうな叔母! わたしがどの程度の血縁なのかは分からないが、思い返してみるに、今でも耳に残る訛りからして、叔母はドイツ人で、わたしの父方の親戚なのだろう。叔母は苦悩を抱いていた。以来わたしも悲しみを共有するようになった、しかし悲しみとは! 理解できない。こんなにも幸せな世界、楽しい住まいで! 愛らしいカナリアを2羽と優雅な猫を飼い、戸棚にはお菓子、抽斗には砂糖のある叔母の悲しみとは! 悲しみ! 確かに叔母の顔には悲しみのしるしが見えるけれども、意味も理由も分からなかった。わたしと何か遊びをしたあと、叔母は安楽椅子に座って、しばしば物思いに耽り、悲しげになり、別の抽斗にある紙を読みはじめ、そうすると決まって叔母の頬を涙が伝うのが見えた。「叔母さん、その紙は置いておこうよ、泣いているよ」とわたしは言った。「そうね、もう終わりにしましょう」叔母は紙を抽斗に戻したが、しばらく涙は流れ続け、わたしは遊びに戻っても気がかりで、はしゃぐ気になれず、しかし泣いている理由も分からずじまいだった。わたしの心を打つ思い出だ! 優しさに惹かれていたが、それからは労わるようにもなった、善良な老婆! 時とともに輝き、離れるほどに鮮やかな遠い夢、それは心の宝物であり、老年期の慰めだ!

叔母が亡くなって32年ほど経った。わたしは叔母の最期を間近に見たに違いない、なぜなら何カ月も前から叔母は寝たきりで、それでもわたしは叔母を訪ねたからだ。叔母は、痛みに苛まれているときを除けば、以前よりも悲しみを深めたわけではなかった。緑のカーテンに囲まれた古いベッドから、叔母はわたしの遊びを見守り、わたしのおしゃべりを盛りあげ、わたしの陽気さに微笑んだ。叔母はもう起き上がれないので、わたしは自分で戸棚や抽斗をあさるという甘美な仕事を与えられた。わたしがいつも目ざとく一番大きな砂糖の塊や一番豪華なお菓子を取るので、叔母は笑って「わたしより上手に選ぶね」と言った。わたしには今も叔母の声が聞こえる。

ときに叔母は小口の赤い立派な本を読んでいた。おぼろげながらも直観的に、叔母の読書を邪魔してはいけないと思った。わたしは部屋の中をそっと歩き、窓辺で伸びをしている猫の邪魔をしないよう気をつけながら近くに座り、カナリアたちのおしゃべりを聴き、飛んだり遊んだりするのを見て、自分がしたくてもできない鬱憤を晴らした。しかし、立派な本が閉じる音で、すぐさま自由になった。

立派な本は聖書だった。のちに分かった。読書中たびたび瞑想し、読後には晴れ晴れとした様子の叔母を見て、わたしはこの本そのものに、また宗教が素朴で敬虔な心にもたらす確かな慰めに、忘れがたい尊敬の念を抱いた。叔母は亡くなった、可哀そうな叔母、しかし叔母は神の約束を恃みに、よりよい世界へと渡るのを切望して、自身の行為や美徳、悲しみ、そして、過ちを消し去り努力を認めてくれる回復や解放の神を敬う美しい魂の甘美な信仰を携えて行ったのだと、わたしは確信している。いや! この墓は断じてわたしを悲しませない! 叔母に再会するには跨がねばならない敷居なのだ。わたしの骨が墓へ運ばれるとき、わたしの魂は痛みや死の苦しみから解放されて叔母のもとへ飛んでゆくだろう。

散歩の途中、何度か立ちどまって塚のまわりに刻まれた碑文を眺めた。眠っている者の年齢と名前だけを記したものもある。奇妙なことだ! それがわたしの興味を引く。名前だ。どうしてかは分からないが、いつの間にか名前のうちに多かれ少なかれ愛すべき特徴を見出し、その特徴から、心の特性や人生の境遇、悲しみや喜び、豊かさや貧しさを推察すると、この見知らぬ人物に、名前を知らないときよりも共感を覚えている。もっとも、年齢のほうは、さらに語りかけてくる。墓に刻まれた年齢は雄弁だ。亡くなった者が、喜びの只中で召されたのか、青春の酩酊のうちに捕らわれたのか、母や恋人の腕から引き離されたのか、それとも、すでに長い人生の終わりに到達し、心は消え、無用の重荷となって、老いの無気力から墓の眠りへと移ったにすぎないのか、年齢が物語るのだ。

墓石の中に、初めてこの地を訪れたときからわたしを惹きつけたものがあった、刻まれた碑文の意味も分からないのに不思議なことだ、碑文はドイツ語で書かれていたのだから。実を言うと、子どもの頃に少しドイツ語を習ったので、最初の一行は解読できた。あまりに単純な考えではあるが、読んだ場所と、わたし自身の性格ゆえ、唯一無二の憂いを帯びた表現に思われた。このような一行だ。

Das leben gleicht der Frühlingsblume…

「人生は春の花のよう」そのとおり! 悲しいほどに真実だ! わたしは独りごちた。この言葉を、碑文の余白に刻まれたさまざまな図柄と結びつけて、花の絵の下で見知らぬ可愛らしい少女が称えられながら青褪め、地面に横たわり、冷たい遺体を投げだすのが想像できたが、続く行にある名前が予想を確実にした。それは女性の名前、エリザだった。わたしはすぐさま名前を心に留め、特徴を持たせ、この愛すべき者のために涙したであろうひとたちに加わった、すると早くも、冷たい石の隣で、悲しむ者たちや友人たちに囲まれているかのように、甘く温かい気持ちで心が慰められた。ただ、もう遅くなっている。沈みかけの太陽がかろうじて塚の頂上を照らし、糸杉が長い影を遠くまで伸ばし、日没とともに門が閉まろうとしている。わたしは立ち上がり、その場を離れた。しかし、いきなり墓を立ち去るのは名残惜しかった。何か持ち帰ろうと、墓に書かれた詩を写し、理解できた一行の悲しみを味わいながら、ゆっくりと家に戻った。帰宅して、ランプを灯し、辞書を引いて他の行の意味を調べた。かなり骨が折れた。しかし、関係ない人間に頼って謎に秘められた魅力を枯らしてしまうよりは、不完全な理解のほうがましだった。

詩の意味を読み解くほどに、エリザを好きになった。いつしか暗唱できるようになり、外国語を発音する困難にもかかわらず、詩を繰り返すと甘く響いた。さらにわたしは、訳してみたくなった。けれども、最初の数語で難しさにうんざりし、それに何より、元の詩の素朴で感動的な特徴が、われわれの言語〔フランス語のこと〕に移したら変質するのが嫌で、翻訳を断念して暗唱に専念した、その詩がこれだ。

人生は春の花のよう、
盛り上がっては枯れてゆく。
エリザは静かな栄誉に包まれて眠っている、
ああ、彼女に涙せよ!――早くも墓の下にいる。
彼女はわれわれのもとへ植え替えられ、
ふさわしい場所で花開かなかったため、
彼女を完全な天使にすべく
神が彼女を連れ去った――彼女はそこで咲く。
Das Leben gleicht der Frühlingsblume,
Sie gehet auf, und welket ab.
Elisa liegt mit stillem Ruhme,
O weint um sie! - im frühen Grab.
Sie stand verpflanzt auf unsere Erbe
Und blühte nicht am rechten Ort,
Damit sie ganz zum Angel werde
Nahm Gott sie weg ; - sie blühet dort.

しばらく経って、わたしは墓地に戻った、といっても普段どおり単なる暇つぶしの散歩のつもりだった。天気は陰鬱で、サン=ジャンの岩山は灰色で味気なく、曇った空に稜線を描き、吹き荒れる風が平原の草をしならせた。悲嘆の息が墓の上に吹き、死者の湿った国にまで入りこむかのようだった。立ち入るやいなや小さな犬が駆け寄ってきて、わたしに懐いた。こちらからも愛情を返そうと腰を下ろしたが、間もなく小犬は期待はずれといった様子でわたしを離れて遠くへ行った。目で追うと、平原の反対側に男が見えた。わたしは男のほうへ向かった。

墓掘り人だった。シャベルに凭れて待っていた。わたしは尋ねた。「この可愛い犬はあなたが飼っているのですか?」「いや、墓の中にいるひとの犬だ。昨日そこに埋めたんだ。その傍にいたはずだ。朝もそこで見た……。一度ではない!」

男の話を聞きながら、わたしは犬に近寄り、この動物の忠順な愛情に心動かされた。犬は墓の傍に座ったままだった。尻尾は歓迎の動きを示していたが、元気のない目は苦い諦念を表わしており、そうした感情を抱きうる動物の見せる感動的な苦悩だった。わたしが撫でてやると、ますます悲しみと不安が募ったらしく、ついには、赤の他人の手に触られたせいで主人の不在を痛感したかのように、鈍い声で吠えはじめた。忠犬の意気消沈をこう解釈して、その姿に憐れみを覚えたが、墓掘り人には悟られたくなかった。

わたしは急いで話を続けた。「葬列を待っているのですのか?」「ああ。なかなか来ない。雨が降ってきた(雨粒が墓に斑点を作っていた)!」「亡くなったのが誰か、ご存じですか?」「いや。死体であるには違いない。それしか知らないんだ、俺たちは」「そうすると、この犬の主人が誰なのかも、教えていただけないのですね?」「いや、それなら知っている。生きているとき、その犬を連れて、俺たちに会いに来ていたからだ。犬はオスカーと呼ばれていた(犬がこちらを向き、尻尾を振った)。可哀そうに、もう誰の犬でもない。ほら!」そう言って乾いたパンきれを投げたが、犬は触らずに匂いを嗅いだ。

わたしは墓守に言った。「誰の犬でもないなら、是非わたしが飼いましょう」「そうだな、それがよい。それに、こうした動物を飼うのにいくらかかる? 大してかかるまい。余程のことがなければ、わたしが引き取ろうと思っていたくらいだ」「飼い主はあなたがたに会いに来たんですか?」「俺たちではない、彼の奥さんに会いに来たんだ、向こうに埋まっている」「主人は若かった?」「若くはない、それに腰が曲がっていた、分かるだろう、悲しみのせいだ。珍しい夫だ。ときどき泣きに来た、それ以上は知らないが、犬が俺たちの相手になった」「夫はどの墓に入ったんですか?」「あの黒い墓だ、柳の下の……」

エリザの墓だ! はじめ、この男の話が、想像していた若い娘の姿と相容れず、わたしは失意を覚えた。どのような現実であろうと、現実には夢のような魅力はないのだ。しかし当初の幻滅が過ぎると、若い娘、絶えざる愛惜の対象は、いっそう心を揺さぶりはじめ、何年も苦しみを背負った夫に同情した。不幸者たち唯一の生き残りである忠犬は、その全員に、わたしの想像力では掴めなかった予想外の特徴を、強烈な魅力とともに附与した。

「墓掘り人さん、その男について知っていることを全部教えてください」「洗いざらい話したよ。名前は知らない。相続についてだったら、役所に行けば分かるだろう。可哀そうな男、とあなたに言った、それしか知らないのだ。あと、ときどき銀貨を何枚かくれたな」「街のひとでしたか?」「おそらく。いや、それも実のところ全く分からない」

男と話していると、喪服姿の老婆が墓地に入ってきた。すると犬が異様な喜びようで駆け寄った。ところが、ついてくるよう老婆が促しても、墓の傍に戻って座りこんだ。老婆は動揺し、犬を連れ戻しに墓の傍まで来るのを躊躇ったようで、遠くから呼び続けた。ついに老婆はわたしたちに言った。「連れてきていただけますか? 綱を持っているのです」「あなたの犬なんですか?」「そうです、間違いありません」「どこにお住まいですか、あとで連れて行きます」「すぐ近くです、シャンペルの下です」「お名前は?」「マルグリットです。ヴュー=シェーヌ〔「古い樫」の意〕と尋ねてください。そこに住んでいます。しかし、どうか約束してください。この犬はわたしに託されたのです……飼い主から……」涙で声が途切れた。わたしは老婆のところへ行って綱を受け取ると、その日のうちに犬を連れて行くと約束して、先に帰らせた。

老婆が立ち去ったあと、わたしは墓掘り人に助けを求めた。墓掘り人が犬を抱きかかえ、わたしは綱をハンカチに結んで、ハンカチを首輪のようにして犬の首に巻いた。犬はされるがままになっていたが、その場から引き離そうとすると苦しげに鳴き、力いっぱい抵抗し、何か言いたげな目で懇願してくるので、わたしは意気を挫かれた。この方法で連れて行くのは諦め、ハンカチで目隠しをして腕にしっかりと抱え、抵抗する犬を撫でて宥めようとした。とりわけ、門のところで墓掘り人を待つ車列とすれ違うとき、犬を抑えるのに苦労した。

動物のこうした苦悶は、痛切な憐憫の情を呼び起こす。素直で、打算なく、混じりけなく、純粋な活力の表出であるが、われわれのようには言葉で癒されない。慰めることはできず、ただ眺めるしかない。可哀そうな犬! 墓に執着する犬の誤解を解けなかった。墓から引き離すのが乱暴に思われ、愛情を注ぎ足りないのであれば、ひたすら不満や嘆きを聞くほかなかった。

わたしはシャンペルの丘の下にある寂しい小道を歩きながら、ヴュー=シェーヌの家はどこかと農家に尋ねた。間もなく教えられた目印が見つかった。樫の老木の枝が茂って古い門を隠し、寒く静かな小さい庭を大きな影でほぼ完全に覆っていた。樫の後ろで小さな家が丘に凭れており、丘の麓は森で覆われ、荒涼とした無人の頂上が聳えていた。

この場所の主について予め知っていたことが、わたしの印象に影響したに違いない。ともかく、この住まいを見て、悲しく素っ気ない雰囲気に驚いた。乱雑で荒廃しているわけではないが、素朴な生活の喜びや、花や植木を楽しみ、小さな土地を飾り、自分好みの住まいを作る田舎ふうの趣味といった、目に見える特徴が家のまわりに全く見られなかったのだ。花壇も鶏小屋もなく、農機具も菜園も柵もなく、ただ草が鬱蒼と茂り、玄関のすぐ傍まで、刺草や牛蒡、何種類かの野草が、老木のじめじめした木蔭で育っていた。わたしが入ると、鼬が庭を横切った。

物音を聞いた老婆が2階の窓から顔を出した。「上に行きます、降りてこなくて結構です、犬をつれて来ました」そう言ったが、老婆が出迎えに降りてきたので、わたしは老婆に従って、上の階の、衣服と書類を整理するのに使われている部屋へ行った。老婆は全ての作業を放りだして犬を迎え、手元に犬が戻ってきたのを喜び、目に涙を浮かべてわたしに感謝し、愛撫を惜しまなかったが、犬は不安で気がかりなのか、かすかに尻尾を動かすのみで、われわれがこっそり閉めた扉の前に何度も戻った。老婆がミルクを茶碗に入れ、犬は夢中で飲んだ。

「おひとりですか?」わたしは言った。「今はそうです。主人にお仕えしていたのですが、神の許に帰りました」「でも、ご主人に親族や友人がいたのではないですか?」「親族はもういません、友人もわたしひとりになりました、あなたには失礼ですが。昔は主人の母がいたのですが、亡くなったので、女中のわたしとここへ来たのです。主人はここでひっそりと暮らし、誰にも会いませんでした。親族がいないので、葬列に並んだのは、わたしの兄と近所のひとたちでした」「お話を伺って、とても興味を持ちました。せっかく少しばかりあなたのお役に立てたので、あなたの涙するご主人について、知っていることを教えてください」

「主人を悼むのはわたしの務めです。主人についていえば、死が主人を解放しました。もう生きたくなかったのです。わたしの知っている限りをお話ししましょう。ほんの少しですが。主人は自分の悲しみを決して話さず、わたしは別のところで知りました。若い頃、彼はある若い娘と相思相愛になり、互いに相手に尽くすと約束しましたが、財産はありませんでした。職を得て、何年も懸命に働き、仕事が軌道に乗ったところで、ふたりは結婚しました。当時わたしはふたりを知らず、若くて青白い顔をした奥さまが、ある日この窓から外を眺めているのを見ただけでした。程なくして彼女は亡くなりました。何の病気だったかは知りません。ともかく、その日から、可哀そうな主人は嘆き、悼みながら生きていました……。主人が衰え、もはやわたしに話しかけなくなって2年です……。一週間前……つい一週間前、主人はわたしに言いました……。「マルグリット! ……もうすぐ終わりだ!」」

老婆は涙を流し、しばらく話を止めた。

そして主人の言葉を続けた。「「君はもうわたしから自由だ……自分がまだ生きているのに驚くよ……」こんなにも心の張り裂ける台詞を、涙なしに語れますか? ……死が迫るにつれて、主人はわたしによく話しかけ、二度わたしの手を取ってくれました、それまでになかったことです、だからまた元気になると思ったのです。けれども、わたしが何をしようと、主人は医者に会おうとせず、神に感謝して、時が来たのだと言いました。時を進めなかったし、戻したくもなかった、と言いました。主人は言いました。「マルグリット、わたしの人生は、幸せに触れたと思ったときに打ち砕かれた……。その後どうなったか、君は見ただろう、わたしが命を惜しむと思うか? ……時が流れますように……時が流れるごとに、わたしの望む終わりへと近づく……エリザが待っている……わたしを呼ぶ……一緒になるのだ、今度こそ永遠に!」

老婆は何度も涙で口ごもった。わたしもまた話に感動し、胸を熱くし、初めて話す相手なのを忘れるほど、完全なる信頼という温かみを帯びた会話となり、マルグリットが自分の主人についてわたしに話して心を落ち着けるのを、わたしは喜びをもって眺めた。

老婆は続けた。「主人が死んだのは金曜日、夜の10時頃でした。朝はまだベッドに座れていました。主人はわたしに言いました、ここでは繰り返しませんが、決して忘れられないことを……」「どうかお話しください、隠さねばならない秘密でなければ」「秘密ではありません、しかしわたしには相応しくない言葉なのです……。「マルグリット、わたしたちは別れねばならない。今から言うところに、わたしの形見がある。しかし、あなたの心づかいと愛情に対する感謝の気持ちは、どれほど埋め合わせをしても足りず、言葉にできないほど深い……。人生を終わらせなかったのは、あなたのおかげだ。わたしがこの世を名残惜しく思うとすれば、それはあなた、マルグリットのおかげだ……とはいえ、わたしたちは再会するだろう……」そしてわたしを抱きしめました。

それから、机の抽斗を開けるよう言いました。そこには手紙の束があり、目にすると主人はひどく動揺し、弱っていたこともあって、話を続けられなくなりました。主人はわたしに待ってほしいような仕草をしました。再び口を開くと、主人は言いました。「火を持ってきてくれ、そしてわたしの目の前でそれを燃やしてくれ」わたしは言われたとおりにしました」「あなたはその手紙が何なのか知らなかったのですか?」「おそらく若いころ恋人に送った手紙だろうと思いました、というのも手紙の一枚に「エリザ・マイヤーへ」という宛名が書かれていたからです」

「マイヤー! その名前に間違いないですか?」「はい、そのひとの姓だというのは、別のところで知りました」「彼女はこの国の出身ですか?」「いいえ、この国の生まれではありません、母親と一緒にこの国に来ました……」「母親とはお知りあいですか? ……」「いいえ、わたしが主人に仕えるようになったときには亡くなっていました。しかし間違いなく彼女の姓です、主人が引き継いで使っていた布に書かれていたのを見ました。この本にも……」

「叔母さん!」わたしは叫んだ。小口の赤い聖書だった。今しがた覚えた感情のすべてが、いちどきに幼少期の記憶と結びつき、しばらくわたしは、驚きと混乱、そして聞いたばかりの話に自分が加わるという何だか分からぬ心地よさに捉われていた。わたしの取るに足らない半生を、これほど興味深いひとたちの人生に混ぜこむのは気が引けるが、ともかく自分の親族についてわたしが知らなかった理由を少し説明しておかねばなるまい。

叔母の家を訪ねるようになったとき、わたしはすでに母を亡くしており、この立派な女性が、自分も悲しいにもかかわらずわたしを呼びよせ、幼いわたしがはしゃぐのを我慢したのは、わたしの家から失なわれた母性の温かさを補うためであったに違いない。ときどき叔母は自分の娘について話してくれたが、その娘を見たことがないため、わたしの記憶からはほぼ消えかけていた。

叔母の死後まもなく、わたしは青年になった。同世代の遊びや友だちに夢中で、家族とかかわる機会は少なかった、というのも、父は仕事が不調で品行も乱れがちになっていたため、自ら家族とのかかわりを断ち、わたしに維持させようともしなかったからだ。いつの間にか、わたしは自分の家族にとってすっかりよそものとなり、嵐のような青春時代のあと、その後の人生を決定づけた出来事があって、他ならぬその出来事のせいで、まだ留まることもできた家を失なったのだ。

愛はいつでもわれわれの運命に大きくかかわっている。人生の始まりに心を掴み、火をつけ、支配し、風が軽い葉を弄ぶように、心を弄ぶ。若者は美しい日々を不実な支配者に捧げ、盲目の案内人に身を委ね、楽しく華やかだがさまざまな出口を隠した道を進みはじめる。最も幸せな者であっても、花は萎れ、空は青い輝きを失なう。進むにつれて道が険しくなるのだ。しかし最期まで果実を摘んで味わえる。通りすがりの陶酔は、強烈ではないが長続きするものになる。それ以外のひとにとっては! ……束の間の陶酔のあとに、いかなる失望、苦い誤算、長い溜息が待ち受けていることか! この花咲く道を、不毛の岸、荒涼とした浜、恐ろしい深淵へと進む者が、どれほどいることか! 純粋な幸福を一瞬たりとも味わわず、情念の混乱や嫉妬の苦悩から逃れて、魅力のない平穏へと落ち着くばかりの者が、どれほどいることか! 不幸者! 魂は枯れ、心は空になり、しばらく共有して楽しめたはずの幻想を、あまりにも早く奪われる! ……

わたしは後者に属する。たっぷりの飲み物で満たされた杯のように、わたしの心は初恋で一杯になった。もはや渋い澱しか残っていない……。つまり、年齢よりも老けこんだわたしは、他のひとにとっては人生を彩る愛情や、他のひとにとっては魅力や価値を持つ心づかいや義務とは無縁で、この世にとどまろうと執着せず、かといって去りたいのでもなく、ひっそりと暮らしている。というのも、この世でもあの世でも、彼女には再会できないからだ。つい先刻わたしが涙した男よりも憐れまれるべきかもしれない、彼ほど暗い人生を送っていないにしても、苦しみの和らぐ見込みもないのだから……終わりなき流刑なのだ。だから孤独を求めて、見捨てられた場所へ行き、墓地に入って、墓の間を彷徨う、なぜなら陰気な気晴らしにはまだ何かしら面白さを見出せるからだ。わたしの悲しみは深まり、後悔は和らぎ、記憶は潤う、そして言うまでもなく、死の惨禍と人間の苦痛について考えるとき、荒廃した魂は暗い喜びを味わう。

激しい恋慕に際限なく身を任せる若い時分に、わたしは愛ではなく悪徳を知ったのだ。わたしの心がまだ初々しかったときに、最も激しい情念の錯乱を心に知らしめる女性が現われた。わたしは愛し、崇めた。誓いの陶酔、約束の甘い誘惑、昂奮の激しさを知った……。しかしわたしは何をしようとしているのか! 傷を開き、傷跡をいじくり、再び血を流させる……。いや、わたしは放蕩によって誠実な結婚への道を閉ざそうと気を配った、と言えば充分だろう。わたしには道徳や偏見の元となる地位も富もなかった。彼女の両親は彼女をわたしから引き離した。彼女は信念を貫くために闘おうとした……けれども、無力だったか、愛が足りなかったか、ともかく信念を曲げて別の者の許へと向かった。その知らせを彼女自身の手から受け取って、翌日わたしは恋人の連れ去られた不吉な場所を去った。

死が彼女を襲ってから2年が経った。わたしは帰ってきたが、故郷の人々や物事とは何の縁もなく、古いつながりもなく、新しい関係を築く気もなかった。留守にしている間に父が亡くなり、母からの僅かな遺産を得た。近親者を避けたかったので、存在すら知らない者については尋ねる気もなかった。これは後悔している。墓にまつわる話を聞いたにすぎない男と知り合っていれば、わたしの悲しみを彼の悲しみに重ねたくなっただろう。この不幸者と、わたしに欠けている友人、もっと恵まれた運命ゆえにわたしとは関係のない人々のうちには見つけられない友人として出会えたかもしれない。

こうした話を老婆に語り、本を見たときの驚きを説明したところ、主人の親族との出会いを感情的にも忠義心からも喜んでいるのが分かった。「とても嬉しいお話です。わたしはひとりきりで主人の遺品といるのにためらいがありました。といって、どうしたらよいか……。今日、主人にお金をくださっていた方の家に行くつもりでした。もう必要ありません、もしあなたが親族についての物事を引き受けてくださるのであれば」

わたしは答えた。「そんな権利はありません。しかし、彼があなたに何か指示を残したかどうか、教えてくれませんか?」「ええ。その日、わたしが手紙を燃やしたあと、主人はわたしに、自分が亡くなったら、遺言を記して封印した紙を抽斗から見つけるよう言いました。それがこれです」「開けなかったんですか?」「開けませんでした、証人なしで開けたくなかったし、急いでもいなかったので……封印された紙が怖くて」「あなた宛のものですよ、ご自分で開けますか、それとも代わりに開けましょうか?」「お願いします」

わたしは紙を開いた。紙にはさらに別の紙が挟まっていたが、封筒にはマルグリットに宛てた文章が何行か書かれていた。わたしが読んで聞かせると、彼女は涙を流した。これがその文章だ。

「親愛なるマルグリット、
同封の紙をあなたに託します。わたしが目を閉じたら、中身を読んで、すぐにピガール公証人に渡してください、あなたがそのひとに渡す封書の中で、あなたの利益となるよう推挙しています。わたしはあなたに、もう仕事せずに休んでもらいたいのです。
さようなら、マルグリット。あなたがこれを読んでいるとき、あなたの主人は幸せです。どうか憐れむのではなく愛するために彼のことを思い出してください。
あなたに感謝する友
シャルル・ヴィドマー」

公証人宛の手紙のほかは閉じられていなかったので、わたしはマルグリットに読んで聞かせた。一枚目には、故人の財産について書かれていた。もう一枚には、遺言による規定が書かれていた。遺言のほうは、ここまで物語を追ってきた読者にとって興味深いものだろうから、ふたつの規定だけ書き写しておく。

「相続人がいないので、わたしは自分の財産を二等分して遺贈する、詳細は別紙に記すが、片方はわたしの家がある町の貧しい者たちに、もう片方はマルグリット・ベッソンに、20年間わたしを世話してくれたので少しでも応えるために。彼女が、わたしたちの一緒に暮らしてきたこの家を所有し、住み続けるよう、わたしは無条件に希望する。わたしは彼女に、上記の取り分に加えて、わたしが亡くなるときに家にあるすべての衣類、銀食器、家具を遺贈する。
わたしは妻と妻の母から三千フランと様々な物品を相続した、詳細は別紙に記す。妻の従弟であるルイ・ルマルヌ氏がご存命かどうか分からないが、妻の兄が亡くなってからは、妻の最も近い親戚である。彼が亡くなっており、また他の権利継承者がいない場合、わたしが受け継いだ分は、上に指定した相続人に等分に遺贈される」

ヴィドマー氏の遺言で指名されているのは、わたしだった。こうして、刻一刻と、今日まで隠されていた道筋によって、わたしはこの不幸な男、彼の若い妻、わたしの大切な叔母へと近づき、あまりに奇妙な偶然によって、この聖書、この安楽椅子、これらの古い家具の所有者となり、これらを見ていると、人生の苦難を越えて幼少期の幸福な日々へと戻る。とくに聖書は貴重な宝物のようだった。何度も懐かしみ、年老いた叔母のように聖書を読みたいと思ったものだ。叔母に倣って聖書から静寂と平穏を引き出したい、そして、予想外の方法で子ども時代の仲間と出逢ったからには、また交友を温め二度と別れまいと、喜んで誓った。

こうしたことが明らかになるにつれて、マルグリットは次第にわたしを尊敬の目で見るようになり、それまでわたしたちの会話を心地よくしていた気取りのない親しさが失なわれてゆくのが分かった。主人の持っていた権威がわたしに伝わり、わたしが主人の財産の一部を受け継ぐことで、忠実な女中に服従と敬意を求める権利もわたしが受け継いだかのようだ。わたしは言った。「マルグリット、ヴィドマー氏の友人であるあなたにお願いします、元の立場に戻ってください、この紙によってではなく、あなたの尊敬されるべき美徳と性格によって、ここではあなたが女主人なのです、どうか受け入れてください」老婆は歩み寄ったが、わたしの言葉に納得したというより、わたしを喜ばせようと従ったのだ、というのも、献身的である以上に謙虚な心は、生まれつき寛大であり、自覚はないが偉大だったのだ。

さっそく遺産相続とマルグリットへの相続のための手続きに取りかかった。ピガール氏は正直で人間的な心の持ち主であり、ウィドマー氏からの推挙の重要性を直ちに理解して、熱心に取り計らってくれたので、わたしは何の苦労も感じなかった。封印が貼りつけられている間〔相続手続き中は家の扉に封印を貼りつける〕は、わたしの家にマルグリットを住まわせ、必要な手続きと正確な遺産分割に何週間か費やしたのち、ヴィドマー氏の小さな家に連れ戻した。しばらく離れていた家に戻ると、老婆は動揺を抑えられず、誰もいない家を目にして悲しみがこみ上げ、むせび泣いた。今の安定した身分を何とも思わず、過去を振り返るばかりで、主人を思って痛々しく泣き、主人に仕えずに生きていてもつまらないようだった。わたしはこの立派な老婆が、愛着を断ち切られた悲しみで憔悴する最後の犠牲者のように見えた。

わたしは言った。「マルグリット、主人は今や幸せになったのです、ご存じでしょう、愛惜の念ばかりではいけません。あなたが主人にとってどんな存在であったかを自覚して元気を出してください、あなたが安心して平和で自由な老後を過ごしてほしいという主人の願いを尊重してください」わたしの台詞は、主人の優しさを思い出させ、いっそう涙させるばかりだった。そこで、家に泊めていた間に考えた、心温まる計画を話した。

「聞いてください、マルグリット。わたしは、ここにあるわたしのものとなった家具を持ち帰るつもりはありません。むしろ、この家具とともに、あなたと一緒に暮らしたいのです、あなたがよろしければ……」「ああ! おっしゃるように、確かにわたしはここにいたいですが、一緒に住むのは無理です。あなたに仕えさせてくださり、あなたを主人とさせてくださるのであれば、わたしはここに住めます……。あなたがヴィドマーさんとなってくれるなら、わたしはまだ主人に仕えていると思えるでしょう……主人の役に立てると」「喜んで、マルグリット、しかし条件があります。わたしは家賃を相場どおり、それ以上でも以下でもなく、支払います。あなたの奉仕については、あなたの主人ではなく友人でありたいと示すために、喜んで受け入れますし、給料で雇うのでもありません。わたしは孤独で、悲しみゆえに世間から遠ざかり、わたしを慰めたり楽しませたりしてくれる愛情に欠けていると感じています、そしてあなたこそ他の誰よりもそうした愛情を与えてくれます。だから、この隠れ家を終の棲家とし、あなたと一緒に暮らしたいのです。あなたはちょっとした家事をこなし、わたしはあなたの好意を受けとめる、こうして互いに助け合えば、絆は深まるでしょう」そして犬を撫でながら言い足した。「そしてわたしたちの共通の友人です、マルグリット。あなたはわたしに犬を譲りたくないでしょう、わたしもあなたに預けてしまうのは惜しい。ふたりで飼いましょう……」

こう言うとマルグリットが目に見えて喜んだ。その瞬間から落ち着きを取り戻し、ほぼ普段どおりの状態になって、悲しみを紛らわすためにさまざまな仕事に取りかかった。情に厚く謙虚な心には献身が必要だったのだ。主人に仕える、誰かを世話する、自分を忘れて他人に尽くす、それが務めであり日課であった。そして、女中という身分よりも上に行く能力はなかったが、この慎ましい身分に品格を与え、よき主人という身分よりも本当に偉大なものとした。

こうして数日かけて新しく準備をしたのち、わたしはマルグリットに合流し、二度とここを出ないつもりで家に住みはじめる喜びと安心感を存分に味わった。暮らしを整え、叔母の家具をわたしの住みたい部屋に配置して、憂鬱をかき立てない人づきあいと、食卓を共に囲む友人という、長いこと失なっていた嬉しさを実感した。しばらく経ってから、ふたりで墓地を訪れ、夕方になって、わたしたちを新たな主人とした犬を連れて、悲しく帰宅した。

わたしのものとなった家具の中には叔母の紙束があり、娘からの手紙やヴィドマー氏からの手紙も混ざっていた。わたしは次なる暇つぶしとして、紙束に目を通し、とても愛されていたらしいエリザについて知りうることを丹念に集めるつもりでいた。新居が落ち着いて、さっそくこの興味深い作業に取りかかり、紙束をめくったところ、多くの欠落はあったものの、現世で始まり、運命に壊されながらも、時の試練に耐えて天国で再び結ばれる、深い愛の痕跡を見つけられた。作業の途中、わたしは何度も自らを省みて苦い思いをした。いや、愛の結びつきを断ち切り、心に最も血の滲む傷をつけるのは、死ではない! ……破られた誓い、二度と戻らぬ幸福、希望のない後悔、こうしたものこそ心に死をもたらすのだ。話を始めたからには続けたい、恋人ふたりについて知っていることを述べたい、わたしの話ばかりだったこの作品をそれで終えたい。ふたりの感動的な愛の秘密を暴くのに躊躇がなければ、わたしの持っている手紙そのものに語らせるところだ。というのも、愛情と気品に溢れ、青春の無邪気さ、新鮮さ、活力が心地よい筆致に表われ、その年頃の信頼に満ちた安心が、差し迫った恐るべき別れと胸打つ対照を成している言葉の魅力を、どのように語れば表現できよう? けれども、それはできない。魅力を穢すくらいなら弱めるほうがまだましだ。

エリザ・マイヤーはチューリッヒで生まれ、幼少期を過ごした。父親もまた心惹かれる人柄の好漢で、娘に特別の愛情を注ぎ、優しい父親を喜ばせる幸せな性格に育てようとしていた。しかし、素晴らしい教育ではあったものの、娘の感受性を幼いうちに育てすぎ、急いで果実を収穫したがったらしい。エリザは、まだ仲間たちが明るく能天気なだけだった年齢に、硬軟あわせて千もの感情を知り、昂揚した魂は早くも崇高なる愛や献身や誓約を夢見ていた。だから、数年後に父親が亡くなったとき、か弱い娘は悲しみに圧倒され、父親の後を追いかねないところだった。当時まだ十歳である。わたしの目の前に、そのとき描かれた彼女の肖像画がある。優雅で繊細な表情をしているが、目つき、口許の憂鬱な微笑み、何だか分からないが青白い額を包む深刻な雰囲気から、この子が年齢よりも早熟で、深い情念を知っている心に違いないと、容易に読みとれた。

叔母は夫の死後、家族の傍にいたいと思い、ここに住むようになった。ここでわたしの母と出会ったのであり、ここで母への敬愛に満ちた思い出を持ち続けていたのを、わたしは覚えている。叔母はふたりの子どもを育てるのに夢中で、娘の早すぎる成熟を遅らせ、エリザより年少の、自分の息子を着実に成長させようとした。ある青年が、叔母の息子の教師となった。貧しいけれども教養ある好青年が叔母の家に来れたのは、庇護を受けるに値する品行と才能のおかげであった。このひとがヴィドマーである。エリザはしばしば授業に同席した。教えを熱心に聴いたが、それは当時の女教師から得られる無益な知識よりも心に合っていたのだ。少しずつ青年自身にも興味を持つようになった。質問し、話を聞きたがった、そして青年のほうも、可愛らしい生徒の知性と品性に惹かれ、これまでに味わったことのない強烈な魅力を存分に浴びた。おそらく、この頃から、叔母は恋心の芽生えを見抜いていただろう。しかし、優しい母親として、また偏見のない女性として、この誠実な青年が、娘から永遠に愛されるべき、娘の幸福を最も確実に保証してくれる人物になるだろうと考えた。

エリザ14歳、ヴィドマー16歳の頃だった。すでに相思相愛で、純真だからこそ思いは募り、叔母からヴィドマーへの手紙によれば、ふたりの子どもは、無邪気さゆえに、互いの気持ちを告白し、永遠の愛を誓うのを、まったく悪いことだとは思っていなかったようだ。娘の率直な願いを知った叔母は、手紙の中でウィドマーに寛大かつ上品な言葉で語りかけ、純粋で誠実なものと知っている行為に猜疑心を抱かせまいと、軽はずみな叱責はしなかった。ただ、儀礼上必要な通知として、あまりに多感な娘の性格ゆえに要求される態度や努力、心構えを説明した。そして、まだ約束はしないが、出世や品行、誠実さによっては結婚できると仄めかした。思慮深く親切な助言によって和らげられた若者ふたりの愛が、年月や運命の攻撃をものともしない親密な力を持つようになったのも、驚きではない。

ヴィドマーは、希望に追い立てられて、たゆまず勉強に打ちこんだ。愛という外見をまとった野心によって、熱意は学問の高みへと昇華され、同年代の若者の間で、輝かしい経歴を歩むであろうと早くから注目されていた。こうした自らの熱意による勇気の一方で、エリザの勇気によっても、偉大で高貴な、熱を上げるに値する人物となるよう奮い立たせられた。娘の昂揚が相手に伝わり、そちらも昂揚させたのだ。すると今度は、娘のほうが、恋人の昂奮を抑え、飛躍を先延ばしにさせた。こうした気高い交感によって、互いに相応しい魂が融合し、あらゆる点で合致しており、言葉で誓いあって将来の約束をせねばならないと考えていた時分よりも、はるかに進んでいたに違いない。もはや婚約の問題ではなく、すでに叔母が若干の不安を覚えながら見るとおり、ふたつの人生は互いに依存しあっていた。そのことについてヴィドマーから叔母に書き送られた文章が証拠だ。この不幸者は、強烈な感情による向こう見ずな確信から、エリザの母親を安心させようとしていた。運命に立ち向かうかのごとく、運命の攻撃にも怯まず、しばし人間を超越させる情念にかき乱されて、こう書いている。「何でもないのです、死によってわたしたちの身体が何日か離れ離れになろうと何でもない、魂さえ死ななければ! 一方が他方に先立って天に召されようと、他方を待つだけです、その待っている間、一緒にいる、互いに相手のためにある、互いを求める、絶えず出会う、といったことを、ふたりは止めるのでしょうか? そんな心配はいりません、お母さん、純粋な天上の炎には必要のない心配です、炎は燃え盛りこそすれ、地上を吹く無力な風に消されはしません」

この頃から、不安が現実味を増したように見え、叔母は大いに苦悩した。さまざまな兆候から、叔母はエリザに密かな衰弱の表われを見てとったのだ。頬は温かな色を失なって青褪めがちになり、繊細な表情に痩せこけた様子が混じりはじめた。顔には弱々しい雰囲気が漂い、まなざしの穏やかで深い炎は、優雅で華奢な身体が燃える魂に少しずつ蝕まれているのをまざまざと示していた。不安は募るばかりで、間もなく治療をはじめ、ヴィドマーも事情を知るところとなった。医師の助言により、叔母は娘を穏やかな気候の土地へ、少なくとも空気は暖かいながら山に近く生き生きとした回復力を与えてくれる場所へと連れて行かねばならなかった。翌春に母娘は、アオスタ市という、グラン・サン=ベルナール峡谷の隣で、アルプスに近いためイタリアの熱風も和らぐ、ピエモンテの小さな町に赴いた。恋人は離れ離れになった。これは、もっと長い別れの予兆であり、悲しい予行演習であった!

もっとも、情熱的な心にとっては、あらゆるものが身を焼く炎の燃料となる。転地療養でエリザはヴィドマーから遠く離れ、再会を待ち焦がれた。もう会えず、話せないながら、そうした喜びを埋め合わせるべく、寂しい流謫の身となったヴィドマーがいるはずの海岸へと常に思いを馳せた。恋人の目の代わりとなって、新しい場所、異国の住民、アオスタの町を特徴づける古代ローマの遺跡と近代的な住居の絵のような組み合わせを観察した。花咲く谷のすぐ近くに聳える雄大なアルプスの雪峰を眺めて感動し、恋人と共有していない経験をなくしたいと思って、一日の大半を使って恋人のために感銘を思い返し、転地を詩的に描き、離れても全く衰えない優しさを熱心に表現した。困難と動揺と熱情の生活を送るうちに、穏やかな気候でも心労が身体を蝕むのを止められなくなってきた。いよいよエリザは衰弱した。もはや散歩や作業すら疲れて耐えられなかった。何も書けなくなり、力を失ないながらも昂奮するせいで、しばしば気づかぬうちに涙が流れ、苦い感動は健康の恢復には全く寄与しなかった。

愛すべき人間、心打つ娘が、こうして墓へ向かってゆく! 枯れかかっている若い花、まだ才能と魅力に彩られているのに! もろい小枝が、支えとなっていた若木から間もなく切り離される! ……わたしには続けられない。悲しみで胸が締めつけられ、涙で視界が曇る……。せめて迫りくる瞬間を遅らせられれば……その瞬間が迫っているのを隠しながら糸杉の下〔墓地のこと。ヨーロッパでは霊園に糸杉を植える習慣がある〕へと導ければ……。わたしにはできない。最期の美しい日々は謎の影に覆い隠されている。珍しい花の散りばめられた最期の日々を集めるには、燃やされた手紙を火から取り返さねばならない。

冬が近づくにつれて、わたしの叔母は、娘をジュネーヴへ連れて帰るか、氷霧を避けてもっと遠くの地方へ連れて行くか、思案した。ヴィドマーは後者を望み、自分も合流するつもりだ、トスカーナの暖かい太陽が楽しみだ、と書いていた。出立したあと、マルティニーに着いたところで、わたしの叔母から近々引き返すと手紙で知らされ、郊外で日当たりのよい家を探すよう指示された。不吉な予感に苛まれていたエリザは、故郷の空や最初の誓いを立てた場所をもう一度見たいと思ったのだろう。エリザは最短経路であるグラン・サン=ベルナール峠を進んだが、すでに馬上で体を支えられないほど弱っており、駕籠で療養所まで運ばれた。驢馬に乗った母親はぴったりと横について、密かに苦しみを共にしつつ、気丈に振舞っていたが、天使のような娘に撫でられて感極まった。

その頃ヴィドマーは、小さな家を借り、エリザと母親を自分の家に迎え入れるべく準備を整えていた。この青年は意気消沈してはいなかった。強烈な感情に突き動かされていた。あるときは恋人の人生を鈍く蝕む重い病気を自らに重ね、あるときは叔母の手紙に微かな恢復の兆しを見つけて欣喜し、絶望の淵から喜びの絶頂までを行き来した。エリザがアルプスを越えたという知らせを受け、会うために飛んでいこうとしたところ、マイヤー夫人から到着まで待ってほしいと書かれた手紙が届いた。可哀そうな母親は、最も残酷な苦悩の末、娘の容態を鑑みてサンブランシェの小さな集落で留まらざるを得なくなり、娘を生きて家に連れて行けないだろうと思った。再び出発したが、急にヴィドマーが現われると、会ったときの昂奮で、エリザの寿命を繋ぎとめている細い糸が切れてしまうのではないかと恐れていた。

9月の最初の金曜日、ふたりが到着した。ヴィドマーは叔母の勧めで家を離れた。家を見下ろす木立の下に立っていた。青白く変わり果てたエリザが、駕籠の座席で半ば横たわっているのが見えた。エリザを再び目にした喜びで一杯となり、恋人の表情や態度に苦しさが見えるのは旅の疲れのせいだろうと考えた。しかし、御者が近寄って娘を抱きかかえ、家の中に運ぶのを見たとき、何とか心中に押しとどめていた喜びは、最も恐ろしい絶望の錯乱へと変わった。エリザが家に入り、マイヤー夫人が中庭に出てきたのを見て、夫人に駆け寄って腕に飛びこむと、ふたりは共通の悲しみで結ばれ、沈黙のうちに苦い涙が溢れた。

しばらくして、ふたりは涙を拭きながら家に入った。エリザは独りソファに横たわり、光の消えかかった目で薄暗い新居を見回していた。疲労と昂奮の重みに潰され、気だるい無気力に手足を縛られ、魂のうちには混乱した記憶の鈍い輝きだけが悲しく投げやりな絶望に混じって光るのみだった。母親が帰ってきて横に座り、ヴィドマーについて話そうとすると、娘は優しく手を差し出したが、押し黙ったままなのは変わりなかった。その瞬間、隣の廊下を歩いていたヴィドマーは、運命の恐ろしさを初めて目の当たりにして、荒々しく幸福を奪われ、二度と取り戻せなかった。

女中が灯りを持ってきた。ヴィドマーは待っているのに耐えられず、女中の後を追って扉へと向かった。「ヴィドマー!」エリザは驚かず、柔らかい声で言った。エリザ!」ヴィドマーは駆け寄って叫んだ……。衰弱し色褪せた恋人の姿を見て、暗い炎が目に灯った。その姿に釘づけとなり、刺すような苦痛に耐えられず、恋人の側に身を投げ出し、手を取って何度も口づけし、ありったけの優しさで抱擁して自分の嗚咽を紛らわそうとした。あまりに純粋な愛の証にエリザは心動かされ、青白い顔を涙が伝い、諦観した心に再び生きたいという気持ちが戻って、自分の無念が、間もなく自分よりも長生きすることとなる不幸なヴィドマーへの優しい思いやりに混ざり合った。

沈黙のあと、娘は言った……。「ヴィドマー、あなたのエリザはどうなったことか!」そして小さな声は涙で途切れ、力を振りしぼって続けた。「もっと勇気を持って、わたしに残された僅かな時間を過ごそうと思っていました……でも……わたしには、ヴィドマー、あなたを抱きしめ返す力もない……。愛するひと! ……わたしの愛しいひと! ……ふたりにとって、できすぎた至福でした……神がわたしを連れて行く……あなたの愛で喜びに浸るに充分な人生を与えてくれた神に感謝します……」

この言葉に、マイヤー夫人はこみ上げる涙で答えるほかなく、ヴィドマーは再び沈黙し、心を締めつけられ、目は乾いて、震えながら熱い手をエリザの弱々しい手に重ねた。妙なる娘、あらゆる幸福を受けるべき娘を死に追いやろうとする天に対して、神に対して、心のうちで呪詛が湧き上がった。そのとき恐ろしい計画が頭をよぎり、唇に不吉な笑みが浮かんだ。次いで、諦観した犠牲者を見て、自分を恥じた。忍耐強く、勇敢で、高貴でなければ、自分はエリザに相応しくないし、おそらく永遠に離れ離れになってしまうと気づいて、呪詛を押しとどめ、計画を取りやめた。つまり救いのない不幸と対峙したが、あまりの苦しさに涙さえ零れなかった。

とうとう言った。「いや、エリザ……、エリザ……、いや、神はあなたを連れて行かない! ……エリザ! ……最愛のひと! ……あなたなしでこの世にいるのか? いや! ……あなたと一緒に死にたい、さもなくば戻ってきてほしい! ……」絶望に打ちひしがれ、あまりに昂奮するので、マイヤー夫人はふたりの身を案じて彼を部屋から連れ出した。

マイヤー夫人はすぐに娘のもとへ戻った。しばらく前から夫人だけが娘の部屋で夜を過ごし、夜に尾を引く不安を看病で紛らせていた。一日の気疲れからか、意外にもエリザは何時間か眠っていた。ヴィドマーはというと、横にならず、夜明けとともに家の周りを歩き回って、勇気の湧くような考えに耽っていた。エリザの部屋の雨戸が半分ほど開くと、喜びを思い出したようで、マイヤー夫人との再会を待ち焦がれた。夫人が一階に下りると、たちまち駆け寄って抱きしめた。エリザが一晩明けてもまだ休んでいると聞いて感動した。それから夫人を中庭に連れて行き、しばらく一緒に歩いて、知恵と分別から夫人が反対するようなことを、冷静に抑えて話した。反抗しているうちにヴィドマーはいよいよ熱を帯びて、責めたて、懇願した。あるいは悲しみで脅して、限界まで追いこんではいけないとマイヤー夫人に反論を躊躇わせた。マイヤー夫人は何かを諦めたように引き下がり、ヴィドマーは静かに立ち去った。

目の前にある一通の手紙が、ヴィドマーの計画を教えてくれる。マイヤー夫人に宛てた手紙で、エリザと会ってきたところだと書いているのだ。たくさん走り書きのある紙切れが、不吉な日々を報告している。マイヤー夫人がいつもエリザの傍でつきっきりになっていたので、ヴィドマーは夫人とふたりきりにはなれず、といって娘の前で夫人と話すわけにもいかなかったので、この方法で夫人に知らせたいことを伝えた。

この手紙で、ヴィドマーはマイヤー夫人に、エリザに会ったこと、誰にも見られずに完遂できるならばという条件でエリザが計画に同意したことを伝えている。「かつて、昔日、永遠に惜しまれる日々、わたしたちは互い相手のためにあろうと誓い合った、けれどもその誓いはこの世の短かい期間で終わった……今わたしたちの交わした別の誓い……それは神聖で、不滅です! ……えれども、それだけでは足りません、この結合を神の前で封印したい! 祭壇の前で、あなたからわたしへ、わたしの婚約者を引き渡してほしい、死ぬ前に恋人ではなく妻にしてほしい! ……それならば、わたしは余生にも耐えられる……」

不幸者の計画とは、このことだった。ふたりの愛を常に支配してきた昂揚の調子が見て取れ、いまや恐ろしくも切れようとしている結びつきを縛りなおせば、少なくとも、ふたりの傷に幾らか膏薬を注ぎ、ふたりの痛みを一時的にでも紛らせられるだろうと読みとれる。とりわけ余命僅かなエリザにとっては、喜びとなるに違いない。ヴィドマーは彼女の期待に応えた。彼女自身がしたであろうことを恋人がするの嬉しく眺めた。もはや死は人生で夢見ていた結合を壊さず、ヴィドマーを待つ墓がは彼女にとって軽く感じられた〔墓碑銘の定型句「あなたにとって土が軽くありますように」を踏まえている〕。この計画に慰めの力があるとしたら、それだけであるように、わたしには感じられる。慰めが、この病人にとっての犠牲の恐ろしさを和らげられると考えると、奇妙ではなく感動的に思われるのだ。計画を立てて以来、エリザは生気を取り戻したようで、目が蘇り、懸命な力で手足を支え、横になっているソファから彼女みずから準備に参加した。

マイヤー夫人は、ふたりの恋人の願いには逆らえないと感じ、間違いなく実現すべく奔走した。夫人はエリザの教師であった牧師と絶えず連絡を取り合った。娘が心を開き、支えを求めたのは、その牧師だった。マンデュモンの小さな村、サティニーの教区司祭を務める立派な老人だ。牧師は、エリザが移動で疲れないよう、家に来て結婚を祝福する許可を得ようかと提案したが、そう母親から聞かされた娘は反対した。そうして段取りが決まると、さっそく翌日、日が暮れたのち、教会の前に一台の馬車が停まり、牧師は説教壇に登る用意を整えていた。

その日、ヴィドマーとマイヤー夫人とエリザは一日じゅう一緒に過ごした。若い娘は、ふたりの穏やかな表情から秘めたる苦悩を感じとり、ふたりに優しく語りかけ、心穏やかな諦観を伝えようとしたが、時が経つにつれて、皆が夜の儀式を話題に挙げなくなくなった。ジュラ山脈の青い峰の向こうに太陽が消えるのを見て「もう時間です……」と言ったのは、娘だった。ベッドで上体を起こすと、何歩か進んで近くの椅子にたどり着き、座って休んだ。母親は娘にゆったりとした毛皮を着せ、ヴィドマーは馬車に迎え入れる準備をした。エリザは自分で乗りこもうと、ふたりの腕に凭れかかり、そして乗りこむとすぐに馬車はゆっくりと遠ざかって、独り残された女中は中庭で涙を零した。

エリザは母親とヴィドマーの間に座って、手を片方ずつふたりに差し伸べた。途切れ途切れに優しい言葉をふたりに掛けたが、ふたりは答えようにもエリザの手を強く握りしめるばかりで、喋ろうと口を開いたら心が溢れて嗚咽しそうだった。ただ、ヴィドマーは一言だけ、自分を奮い立たせ、心配を誤魔化すために、時計を見て、牧師との待ち合わせの段取りについて話した。しかし、夕暮れも過ぎて暗闇で表情が隠れると、ふたりは声を殺して泣き、一粒ならずエリザの手に落ちた涙が、母親と恋人の魂にどれほど暗い思いが渦巻いているかを伝えた。教会に着いて、馬車が停まった。何秒か置いて扉が開き、老いた牧師がランプを手に温かく来訪者を迎えた。ところが、苦悶に呻くふたりに支えられた青白い花嫁を見て、牧師も重苦しい気持ちになり、慈悲深い贖罪の神に思いを馳せた。

説教壇の下にエリザのための椅子が置かれていた。ヴィドマーは傍で膝をつき、マイヤー夫人は立ったまま片方の腕で娘の力ない頭を抱きかかえた、その娘はほとんど限界だったが、最後の力を振りしぼって、気を失ないそうになるのを耐えていた。説教壇の上からランプの薄明かりが不幸者たちを照らし、陰鬱な静寂の中で、微かな音でも暗く虚ろな丸天井に響いた。

短かい祈りののち、牧師が典礼文を読みあげた。長い幸福の日々を予感させ、若い夫婦を嬉しい希望に胸躍らせて祭壇に向かわせるような言葉は、死にゆく乙女を前にしては酷な対比となってしまうため、何箇所か気を使って省略した。朗読を終えると、牧師はしばらく間を置いて、悲嘆に暮れる者たちへの憐憫で一杯になりながら、震える声で言い足した。

「わたしは今、永遠なる神の御前で、あなたがたをひとつにしました……神の思召しを計り知ることはできませんが、神の慈悲は間違いない。この瞬間も、神はあなたがたを見守り、あなたがたの涙を見て、あなたがたの悲しむ心を読んでいます、慎ましいしもべ〔聖職者のこと。この場合は牧師自身のこと〕は、あなたがたに相応しい幸福を一時的に覆い隠している雲を涙なしには見られませんが、慈悲と愛に満ちた神は、あなたのために、より確実で大きな恵みを用意しています、なぜなら、あなたの炎は純粋で、あなたの幸福はあなたに相応しく、あなたは神の叡智によって運命づけられた試練に耐えてきたのですから」

「エリザ・マイヤー……わたしの子〔教会の子、信徒という意味〕……この甘美な称号を与えます。わたしはあなたを知っています……あなたが何を理解できるか知っています。わたしはここで、わたしの魂のすべての力を使って、恩寵の分配者の加護を求めます、あなたの地上での日々を延ばせるように……。白髪頭のわたしにまだ残されている何年かを、神からあなたに与えてもらうことは、わたしにできないものか! わたしは喜んで差し上げるでしょう、しかし、それは神の意志ではない……愛するわが子よ! ……見てください、天国があなたを迎えようとしています……しばらくしたら、あなたの母もあなたに続くでしょう……この若者は、今あなたの夫となりましたが、久しく前から心はあなたのものだったのであり、ずっとあなたのものであり、この流謫の地を永遠に離れて、死のない地、限りない至福の地、この世であなたがたを結びつけた聖なる愛が再び永久にあなたがたを結びつける地であなたと再会するのを待つばかりです!」

老牧師は黙った。説教壇から静かな嗚咽が聞こえてきた。牧師は説教壇を降りて苦しむ者たちに混ざり、穏やかな慰めの言葉で支えようとした。しかし、あまりに強烈な悲しみに満ちた光景に、哀れな老人は苦しみで押しつぶされ、声が掠れて出なくなるのを感じた。ヴィドマーはエリザを抱きかかえ、馬車に乗りこむと、二度と離れようとしなかった。妻、愛しい妻、何によっても奪われない妻、と呼びかけ、ひたすら慈しむように撫でて、心血を注いで消えそうな命を蘇らせるかのようだった。もはやエリザは弱々しい抱擁で夫の昂奮に応えるばかりだった。

家に着いた。エリザは部屋に戻ると、ふたりに手招きして近寄らせた。息が短かく速くなって、手足に震えが走り、美しい顔に死の淡い菫色が浮かんでいた……。「お別れの時です……。可哀そうなお母さん、あなたを彼に託します……。ヴィドマー……わたしはあなたを待ちます……エリザの記憶があなたを支え、守ってくれますように! ……」そう懸命に言ったところで、後が続かなくなり、母親と恋人が抱きかかえて支えると、唇から最後の息を吐いて事切れ、純粋な魂は天に昇った。

(訳:加藤一輝)

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