ロドルフ・テプフェール「牧師館」
【原典:Rodolphe Töpffer, « Le Presbytère » dans Nouvelles genevoises, 1850】
【シャルパンティエ版『ジュネーヴ短編集』(1841)に収録された「牧師館」は、その後テプフェールが加筆して長編の書簡体小説として別に刊行したため、のちのJ.-J. ドゥボシェ版『ジュネーヴ短編集』(1844)では省かれています。ただ、テプフェールの魅力は青年期の淡い恋心を描いた短編小説であり、最初の版のほうが短かくまとまっていて読みやすいだろうと思われるので、ここに訳出します。太字は原文にある強調、〔〕は訳註です】
人生には、上手く条件が重なって、幸せが確実となったかのような瞬間がある。情念が静まり、不安が消え、楽しむように仕向けられる。さらに、精神の充足に生活の豊かさが加わり、快適な気分に輝く暮らしを送れば、時間は甘美に流れ、存在の感覚は最も陽気な色で飾られる。
わたしの目の前にいる三人は、まさしくそのような状態だった。心配、苦悩、後悔は、些かも顔に浮かんでいなかった。むしろ、僅かに喉元を膨らませ、精神の充足による然るべき誇りを見せていた。重々しい足どりは、冷静な心と高潔な頭を表わしていた。暖かい日差しに誘われて微睡むときでさえ、眠りながら無垢と平穏の柔らかな香りを放っているようだった。
わたしはというと(人間は邪念を抱きやすい)、しばらく前から石をいじっていた。とうとう、邪悪な欲望に強く駆りたてられ、わたしは石を近くの池に投げこんだ……。たちまち三つの頭が翼の下から飛びだした。
言いそびれたが、それは三羽の鴨だった。わたしが池の縁に座って考えごとをしている間、鴨たちは池ですやすやと昼寝しており、わたしも同じくらい幸せだった。。
野原では、真昼は静寂や休息、夢想の時間だ。太陽が真上から平原を照らすとき、人間も動物も仕事を止める。風は静まり、草はおじぎする。虫たちだけが、暑さのせいか、競ってぶんぶんうなり、遥かな音で静寂を強めているかのようだ。
わたしは何を考えていたのだろう? 大小さまざまなこと、どうでもよいことや大切なこと。わたしは蟋蟀のざわめきに耳を傾けた。あるいは仰向けに寝転んで、大空に浮かぶ雲の変化を眺めた。またあるときは、うつ伏せになって、洞のある柳の根元で目に見えない花々を咲かせている湿った苔を見つめた。間もなく、その小さな世界のうちに、黄金虫や勤勉な蟻が頻繁に出入りする山や谷、日陰の小道を発見した。わたしの精神の中で、万物が神秘や力といった概念と結びつき、わたしは地から天へと引きあげられた、そして創造主の存在を強く意識させられ、大いなる思考に心が満たされた。
ときには山々を見つめ、山の向こう、遠くの国、砂浜、大海原に思いを馳せた。途中で別の考えに出くわしたら、わたしはその考えに導かれるがまま、大洋の海辺から近くの草原へ、自分の服の袖へ、すぐさま向きを変えた。
また、池から五十歩の、わたしの後ろにある古い牧師館に目を向けることもあった。時計の針が正時に近づくときには必ず眺め、鐘楼の古いアーチ越しに、紺碧の空を背にして黒い鐘つき棒が揺れて青銅を打つのを、毎秒待ちわびた。とりわけ、最後の一打が残す余韻を聴くのが好きで、響きが収まり静寂に消えるまで、小さくなる波を拾った。
それから牧師館へ、平和な住人たちのところへ、ルイーズのもとへ戻った。頭を腕に乗せて、千の思い出とともに、わたしの心だけが知っている世界を彷徨った。
思い出とは、子ども時代の遊び、楽しみ、田舎の娯楽だ。わたしたちは庭を耕し、鳥を飼い、野原の片隅で焚火をした。原っぱで牛を牽き、驢馬に乗り、胡桃を落とし、干草を転げ回った。果樹園の桜一本、宿坊の南側の壁を隠す桃一本さえ、果物のごとく新たな季節ごとに呼び戻される千の思い出ゆえに、わたしたちにとっては全世界のあらゆるものとは違っていたのだ。わたしはというと(子どもは悪いことを考えがちだ)、わたしは彼女のために、近所の名士の木々から初物の果実を摘んだ。さらに彼女のために、わたしは犬や農村保安官、市警と取引した。彼女が初物の果実を好むのだから、どうしようもない。当時のわたしには現在しかなく、動き、走り、登った。ほとんど考えこまず、夢もあまり見なかったが、ときおり夜に農村保安官のことを思った。
しかし、わたしがお話しするのは、農村保安官など頭にない日のことだ。そして彼は亡くなった。後任者は、わたしが初物の果実を狙うよりも独り池のほとりにいるほうが多いのを知って、わたしにとても好意的な評価を下した。この良識ある人物は、わたしが池の乾いた岸辺を好むのは、彼の職分として管轄すべき初物の果実への関心とはまったく無関係な興味からきているに違いないと察したのだ。
実際、不毛で乾いた狭い岸辺だったが、わたしはこの小さな池と枝の落ちた柳が大好きだった。少しずつ自分の領地にすると、昼には三羽の鴨としか出会わないと分かり、鴨たちの存在がわたしの夢想の魅力に合わさると、静かな集まりはわたしを大いに喜ばせた。
これも言っておかねばならないが、わたしの中で奇妙な変化があって、しばらく前から、わたしはルイーズの傍にいるよりもルイーズについて考えるほうが好きになっていた。
おかしな好みだ、どうしてそうなったのか分からない、というのも、それまでわたしたちは、同じ存在として、互いを探し、喋ったり走ったり一緒に遊んだりする以外の本能を持ち合わせていなかったのだ。ただ、わたしは何度か彼女の顔が赤らむのを見た。より恥ずかしがり屋になり、より慎重に微笑むようになり、より憂いを帯びた表情になり、どのような種類の慎みかは分からないが、能天気な陽気さと素朴な無頓着さに取って代わった。わたしはこの不思議な変化にひどく動揺した。幼馴染だったのに、会ったばかりのように思え、それからは彼女への態度がぎこちなくなった。その頃から池によく行くようになり、そこで彼女を思い浮かべながら何時間も我を忘れていた。過去に遡り、今しがた述べたような新たに見つけた彼女の魅力で思い出を飾るのが、とりわけ楽しかった。最も遠くの思い出まで、ひとつひとつ拾い集めた。それぞれに最近の心象を加え、わたしたちの素朴な田舎暮らしのあらゆる場面を喜びとともに遡り、嬉しくなって、田舎暮らしが愛おしくなった。
来客があった。雀が来てうっかり柳にとまったのだ。わたしは雀が好きで、雀を守っている。英雄的な役目だ、雀の住む田舎では、誰もが雀を憎み、悪い奴を懲らしめようと一致団結している。雀は穀物を食べるという罪を日々犯しているからだ。
わたしはこの雀を知っていたし、他にも三、四羽は知っていて、人間の利己主義に対抗すべく力を合わせた。麦が熟すと、畑の真ん中に大きな杭が立てられ、はためくボロ布の頭となる穴の開いた帽子が載せられた。雀たちは金色の大きな穂を確かに見ていた。しかし、いくら穀物がたくさんあろうと、真剣な番人が睨みを利かせていては、一粒たりとも触ろうとはしないだろう。そういうわけで、わたしは畑の端にある池に来ると必ず、何の後ろめたさも覚えず、ひそかな喜びを感じながら、十二本ほど穂を摘んだ。周囲に穂を撒くと、ささやかな餌めがけて近くの枝から雀が飛びかかり、わたしの手にある穀物までついばむのを、言いようのない喜びとともに眺めた……。帰り道、再び幽霊とすれ違ったとき、微かな誇らしさが心に浮かんだ。
雀は、柳で小休止したあと、鴨の隣にある穂へと飛び降りた。鴨は領地の主として、雀に邪魔されるのは不愉快に思った。怒って首を伸ばし、小鳥に向かって叫んだが、小鳥のほうはすでに宙を舞い、穂を咥えて、幽霊の鬚のところで楽しそうに再び集まった。
しかし鴨の鳴き声は――見当違いの動きではなく、むしろ連想を操る神秘的な法則の強力な効果によってであろう――いま三羽の仲間から聞こえてきた少し嗄れた歌は、わたしの思考を無意識のうちに牧師館の聖歌隊長へと向けた。悪意があって思い浮かべたわけではないだろう、というのも、この男について考えるのは好きでなかったからだ。できる限り記憶から遠ざけていたし、記憶に出てくると決まって静けさを破るのだ。実際、彼がいなければまだしばらく知らなかったであろう、恐怖や恥辱、怒り、憎しみといった悪い感情を、彼はわたしにはじめて抱かせたのだ。
彼は公正だと言われていたが、わたしは意地悪だと思っていた。厳しいと言われていたが、わたしは残忍だと思っていた。実のところ、これには個人的な理由があった。彼は正義感から、名士や農村保安官、さらにはわたしの保護者にまで、わたしの罪を何度も告げ口し、救いようのない悪党だと思わせたのだ。叱責に身振りを加えて、腕っぷしの強さと大きな手による音の炸裂をわたしに一度ならず味わわせたのは、厳しさゆえだった。これがわたしの見方に影響を及ぼした。もし彼とふたりきりで暮らしていたら、おそらくわたしはそうしたやり方に慣れていただろう。そして、たいていわたし自身にもやましいところがあると自覚して、それらを高潔な怒りの結果と看做しただろう。しかしわたしは他のひとも目にしていたし、他のひとの心には寛容な優しさがあるのを見ると、それとは対照的な聖歌隊長の美徳を、すっかり嫌いになった。つまりわたしにとって正義や美徳には二種類あるのだ。ひとつは厳格で怒りっぽく親しみにくい。もうひとつは寛容で優しく永遠に愛されるべきである。
もっとも、わたしにはもうひとつ聖歌隊長に対する不満があって、そちらのほうが深刻だった。わたしが成長すると、聖歌隊長は以前のような言いかたをしなくなった。けれども、激しい非難や、わたしの誇りを傷つけるような不信感に満ちた言葉で、怒りを発散した。とはいえ、ある程度はわたしにも原因があった。小教区にはもうひとり、わたしの行ないを包み隠さず知る者がいたので、わたしは聖歌隊長にすべてを告白すべきだとは思っていなかった。そのため、もう嘘や偽りの非難は免れたと思いこんで、彼に対して言外に悪意を向けた。それで前に怒りを買っていたため、残酷な仕打ちを受けたのだ。彼の漏らした致命的な言葉は、わたしを激怒させたいという男の意図を示すと同時に、それまでわたしの感じていた幸福な安心を大きく変えてしまった。
彼の乱暴な態度をわたしの保護者の忍耐強い優しさと比べ、彼の怒りに歯向かっていたとき、彼が言ったのだ。「拾われた子にしては上出来だ」
あまりに驚いて、わたしは急いで独りの場所へと逃げこみ、この言葉で動揺した心を落ち着けようとした。
それ以来、わたしは彼の存在を避けるようになり、田舎の仕事で彼が教区を離れる日が一番よい日だった。そうした日は、朝から自信に満ちた安心感を覚え、わたしの予定の全てが魅力的に思え、あれほどわたしを動揺させた不吉な言葉さえ忘れてしまった。
それに、この男がルイーズの父親なのだと思うと、無意識のうちに尊敬の念を抱いているのに気づき、邪険にされたからといって好きになれないわけではないような気もした。この感情はさらに強くなり、彼への反感が募るにつれて、献身や自己犠牲や思いやりによって彼との距離を埋めようとすべきだと思えてきた。憎しみのない日々が遠くに輝くのを見つつ、わたしは心の赴くまま、孤独の只中でこの恐ろしい男を慈しんだ。
聖歌隊長について考えながら、わたしは帽子を顔に載せて日差しを遮り、仰向けになった。
そんな体勢でいると、地面に無造作に投げ出した右手の親指の先から甲のほうへ、わずかな痒みがゆっくりと伝うのを感じた。ひとりでいるときは何もかもが事件だ。わたしは原因を知ろうと身体を起こして座った。それは美しい赤に黒い斑点のついた、この地域ではペルネット〔陶磁器を焼くときに釉薬が垂れて棚板と固着しないよう下に挟む器具。日本語でいうトチ〕と呼ばれる小さな甲虫だった。わたしの手の名所めぐりに来ており、すでに第二関節を過ぎ、悠然と旅を続けていた。わたしはさっそく歓迎したくなった。その部分で皮膚の皺が壁になって困っているのを見て、わたしはもう片方の手で藁を取り、親指と人差指の間に渡して立派な橋を作った。行く手を遮って少し誘導すると、甲虫は深い谷をものともせずに橋へと進み、わたしは言いようのない幸福を覚えた、といっても谷底には太陽に照らされたわたしのズボンの皺があるのだが、甲虫にとっては恐ろしい断崖の切り立った端のように見えたに違いない。ただ、わたしは甲虫の頭が回転しているのに気づかなかった。しかし、さいわい珍しい不幸ではあるのだが、通行人とともに橋が落ちた。わたしは事故を起こさぬよう細心の注意を払って全てを元に戻し、訪問者は間もなく対岸に着いて人差指の先まで歩き続け、そこにはインクの黒いしみがあった。
このインクのしみに目が留まって、わたしは保護者を思い出した。
彼は、古い牧師館の周りの野原に散らばる小さな群れを率いる無名の羊飼いだった。幼い頃、わたしは彼を父と呼んでいた。その後、彼の苗字がわたしと違うのを知って、わたしは皆と同じく彼をプレヴェールさんと呼ぶようになった。しかし、ほんの少し前から考えはじめていた秘密を聖歌隊長の言葉によって暴かれると、プレヴェール氏が別人のように見え、父親には見えなくなったが、いっそう父親と思えるようになった。それ以来、彼の優しさに対して抱いていた信頼感や親近感に、ささやかな尊敬を伴った密かな崇拝が加わった。わたしは、貧しくも人間味に溢れたこの人物が、捨てられたわたしの揺籠を引きとる姿を、一心に想像した。それから、彼がわたしの過ちを許し、わたしの喜びに微笑み、ときに優しく戒めを与えてくれ、しばしば悲しい目つきや心を痛めている様子によって反省を促してくれたのを思い出した。彼はいつでも、他人の目を気にして出生の不備に劣等感を抱きかねないところを、優しい心づかいで補ってくれた。長年に亘り、出生の秘密を明かすのを嫌い、わたしから感謝されないようにしていたのだと思うと、わたしは強い尊敬と愛情に心動かされた。
もっとも、彼への愛情が深まるほど、それを表わすのが恥ずかしくなった。感謝の念に駆られて、彼の腕に飛びこみ、涙と動揺に身を任せて、あえて言わなかったことやどう言ってよいか分からなかったことを全て話そうと、何度も思いかけた。そのたびに、彼を前にすると自制心が働いて、感情のほとばしりを押しとどめ、わたしは彼の隣で、ぎこちなく、無言で、見かけ上は普段よりも落ち着いていた。そうなると、離れねばならない気がして、居心地が悪くなり、わたしは独りに戻った。そこでは彼と話すきっかけとなる出来事が幾つも思い浮かぶのだ。たちまち言葉が見つかり、柔らかな口ぶりで彼に話せた。しかし、あえて言おうか? わたしはしばしば、空想のいたずらに導かれて、自分が致命的な病気に罹り、この尊敬すべき人物を枕元に呼ぶところを考えるのが好きだった。夭折のときが迫っているために、わたしの言葉は心打つ真実味を帯び、過去の過ちの許しを請うた。彼の気づかいと優しさに感謝して涙ぐんだ。最後の別れを告げた。胸中にこみあげる気持ちを言葉に込め、彼の涙がわたしの嗚咽と混じり合うのを想像して楽しんだ。
わたしはまた別の、同じくらい奇妙な、といって目的を果たしやすいわけでもない手段に頼った。毎日顔を合わせ、いつでも話せるひとに、手紙を書こうと思ったのだ。はじめは立派な思いつきのような気がした。部屋に籠って何通か書いた。最も気に入った手紙を選んでポケットに入れ、機会があればすぐさま自分で渡せるようにした。しかし、いざ手紙を持ち歩くと、わたしはなるべくプレヴェール氏を避けるようになった。ふたりきりで会うと顔が真っ赤になり、話しかけられているとき一番に考えているのは、ポケットの手紙、どうしても彼に伝えたいことが書かれている手紙を、くしゃくしゃにして捨てることだった。
もっとも、その日わたしが指先に黒いしみを作ったのは、そのような手紙のためではなかった。あの日の朝、池のほとりで読み返した一枚の紙に、わたしはこう書いていた。
わたしはこの手紙を何度も読み返し、その日のうちに手渡そうと決心した。
前年の秋のある晩、わたしたち、つまりルイーズとわたしは、山の中腹にあるチーズ作りの小屋で夏を過ごす小教区の二頭の牛を訪ねた。わたしたちは森を抜け、道すがら喋ったりふざけたりし、出くわしたものには何でも足を留めた。開けた場所のひとつで、わたしたちは谺を響かせようと叫んだ。すると雑木林から不思議な声が聞こえて、わたしたちは一種の不安に襲われ、森から誰かに見られているような気がして、ふたりで黙って目を合わせた。離れて恐怖を笑い飛ばそうと、一緒に走り出した。
わたしたちは水を湛えた小川に行き当たった、渡りにくそうな、少なくとも足を濡らさずには渡れない小川だった。わたしはすぐさまルイーズに対岸まで運んであげようと言った。何百回もやったことだ。彼女は断った……わたしが驚いて彼女を見つめると、彼女は顔を真っ赤にし、わたしも幾つもの印象にかき乱されて顔を赤くした。今まで知らなかった恥ずかしさの感覚に、わたしたちは目を伏せた。わたしは彼女のために大きな石で橋を作ろうとしたが、彼女が恥ずかしがりながら靴を脱ごうとするのを見て察し、先に進んだ。
すぐ後ろから彼女の足音が聞こえた。ただ、何だか分からない羞恥心のせいで、振り返れなかったし、目を合わせられなかった。そのとき、上手く視線を避けられるよう、彼女は申し合わせたかのようにわたしの隣に来て、ふたりとも無言で歩き続け、もはや小屋など頭になく、左に折れて小屋へと向かうところ、小教区のほうへと戻る道を進んだ。
しかし、少しずつ野原に夜が広がり、満天の星が空に輝いた。遠くの物音や、近くでは郭公の単調な鳴き声だけが、ときおり夜の静寂に混じった。木が疎らなところでは、葉や枝の間に月明かりが見えた。さらに進むと深い暗闇に入り、道はかろうじて黒っぽい草で仕切られているだけだった。ルイーズはわたしの横を歩いた。草の中からざわめきが聞こえ、ルイーズが思わずわたしの手を握った。ふたりとも不安だったが、わたしはたちまち勇気が湧いて、まったく新しい快感で心が高鳴った。
わたしたちの置かれた情況で、それは気まずさの解消、心地よい和解のようなものとなった。彼女はわたしが守ってあげねばならないらしいと思うと、わたしは密かな喜びを感じ、か弱く内気な彼女を支えた。わたしが見つめても暗くて彼女には気づかれないから、わたしはずっと、見えなくても彼女のほうに目を向けていた。ともかくわたしは彼女の存在をより強く感じ、全身に染みわたる温かい気持ちを楽しく味わった。
こうして森の端に辿りつき、ふたりで再び天蓋と月光の下に立つと、わたしは別の恥ずかしさに襲われた。もはや手を握るのを止める理由はないように思えたし、逆に手を引っこめるとしたら冷たさや衒いがあるとも思った。だから、そのとき彼女の手がわたしの手からひとりでに滑り落ちるのを願った。わたしは彼女の指の僅かな動きからあれこれ推測し、わたしの指が思わず動くと昂奮きわまった。じつに好都合なことに、柵が現われ、跨がねばならなかった。わたしは急いでルイーズの手を離したが、離す前に再び強烈な感覚を刻まれた。
間もなくわたしたちは小教区に到着した。
手紙を読み返していると、牧師館の窓が開く音がして、わたしは振り向いた。プレヴェール氏が部屋で立ってこちらを見ていた。わたしはすぐに、他の手紙と同じく、その手紙も無かったことにした。
プレヴェール氏は何か考えているように腕組みしながら立ったままで、ルイーズやわたしに忠告するときのようにわたしを呼ぶでもなかった。彼が窓にいるのは気詰まりだが、といってわたしのほうが立ち去るそぶりを見せたくもなかったので、彼が外出用の帽子と服を着ているのに気づいたから、わたしは彼が窓から早く立ち去るのを願いつつ座りこんだ。
さいわい、たびたび素晴らしい仕事でわたしを助けた友人が、窮地を救ってくれた。
それはドゥラークという牧師館の犬だ。美しくはないが知的な顔つきで、明敏かつ表裏のない無愛想さが親しみやすさとなっていた。頭に大きな黒い毛並があり、その下には両目が輝いて、少し野性的なまなざしはわたしに対してだけ和らいで優しく従順になった。しかも背が高く勇気に満ちていたので、いつも仕事があった。前年の秋、わたしたちが山歩きをした数日後、彼は見事に羊をすべて連れて小屋から戻ってきたが、片方の耳を失なっており、そのために村の尊敬と称讃を集めた。
わたしに会いに来たのは彼だった。わたしは彼を撫でようとするふりをして立ち上がった。導かれるままにどこへでもついて行こうという装いで、わたしは別の隠れ場所を探した。
池から何歩かのところに、菩提樹や胡桃の木に囲まれた静かな牧師館の建つ高台のような場所が、壁で支えられていた。苔や地衣類、何千種類もの植物が古い壁を覆っていたが、辺鄙な場所だから多くの木々が無秩序に生えていて壁には近づけなかった。何箇所かは茂みになっておらず、草だけが地面を覆い、暗く涼しい小さな囲い地を作っていた。
こうした隠れ家のひとつに、わたしは身を落ち着けた。犬はわたしよりも先に入り、地面を嗅いで、動かぬ葉叢に潜む鳥たちを追い払った。わたしが座るやいなや、彼は成行を察したかのようにわたしの向かいに座った。
そんなことを考えていると、数歩先で小さな物音が聞こえた気がした。わたしは急いで立ち上がった。行く手を阻んでいるしなやかな枝を押しのけると、聖歌隊長が地面に寝そべって昼寝しているのが見えた。
しばらくわたしは何だか分からぬ好奇心で彼を見つめた。いつも見慣れている男を、寝ている、猜疑心のない、まったく違う姿で観察するのは面白かった。安らかな寝顔を見ると心が浄化され、眠りを尊重しようとするうちに、彼に抱いていた距離感は消された。それで、そっと引き下がりかけていたのだが、ある軽率な衝動から、いっそう静かに戻った。
聖歌隊長は、外側に大きなポケットがふたつついた黒い厚手の上着をまとっていた。ポケットのひとつから、手紙の形に折り曲げられた紙が半分ほど覗いているのに気づいた。この紙はプレヴェール氏から離れたときの物思いに耽る態度と何か奇妙な関係があるという考えが心によぎった。わたしの好奇心は、そんな漠然とした思いに捉われたのだ。
それでわたしは戻ったのだが、犯罪者のような気分にもなった。周囲の僅かな物音に震え、木の上から誰かに見られているような気がして何度も立ち止まって目を上げると、聖歌隊長を見失なわないよう急いで視線を下げた。短かい黒髪、頑丈な形の首、大きな両手の上に載った険しく日焼けした顔が、密かな不安を覚えさせ、恐るべき目覚めを想像すると恐ろしくなった。
しかしドゥラークは、わたしの期待や動揺といった雰囲気に騙されて、前足を上げ、鼻を風に向けて、あたりを見回していた、すると枯葉の下で蜥蜴の這う音がしたため、大きく跳びあがり、着地で枯葉をやかましく鳴らした。わたしは立ちすくみ、全身に冷汗をかいた。
わたしはとても怖くなって、ただちに立ち去ろうと思ったが、好奇心を最大限に刺激される新たな出来事が起こった。わたしは紙に近づいており、ルイーズの筆跡と分かったのだ。
しかも、ドゥラークの立てた大きな音でも起きないほど聖歌隊長は深く眠っていたため、わたしは不安が消えて大胆になった。わたしはドゥラークに只ならぬ憤りを覚え、無言で怒りの仕草をし、あらゆる種類の雄弁な身振りで静かにしていろと伝えた。しかし、ドゥラークは滑稽な動きと思っているだけだと分かり、飛びかかって鼻先で吠えられては困ると、急いで説教を止めた。
わたしはもう一歩踏み出した。手紙は綺麗に畳まれてはおらず、無造作に丸められていた。芝生に聖歌隊長の眼鏡が置かれていたから、いま読んでいたのだろう。
しかし、外側にルイーズの手で「シャルルさんへ」と書かれているのを読んだとき、わたしは恍惚とした驚きに打たれた。わたしはその手紙を自分の所有物、最も貴重な財産として奪いとろうと考えた。ただ、その行動が引き起こすであろう結果を考えると、わたしは躊躇い、さらに蠅が鼻の端にとまって聖歌隊長が少し苛立ったような動きをしたため、わたしは動揺した。それで、蠅を見張りながら、二枚の手紙の中を読もうとした。
わたしにとって、とてつもない災難がひとつあった。こめかみから追い払われた蠅は、再び鼻に戻り、そして眉にとまった。わたしが蠅を追い払おうとしているのを見たドゥラークは、蠅に飛びかかろうと立ち上がった。だからわたしは、蠅を無視して手紙に戻り、同時にドゥラークを見張った。
まずは紙の間に息を吹きかけて広げ、行末の言葉を覗き見た。最初に読んだ言葉は、意味が掴めなかったが、わたしを大いに驚かせた。「……この手紙で、あなたはすでに遠くへ行っているでしょう……」
その行はそこで終わりだった。わたしは見間違えたのかと思った。誰が遠くへ行くのか? 誰から遠くへ行くのか? あれこれ推測に迷った。次の行で何か分かるのではないかと期待して、わたしは作業を再開したが、もはや成果はなかった。紙が斜めになっていたため、行の端はどんどん短かくなり、最後の行では一、二文字しか見えなかった。
散らばった単語や文章の断片を読んでも、それ以上は何も分からなかったが、ともかく強い不安に陥った。
続けて、内側になっている裏面を読みはじめると、同じ形式の部分に次の行の始まりが書かれており、程なくして、今でも覚えている甘美な喜びで有頂天になった。完全には意味を取れなかったが、むしろ好都合だった。分からない部分を自由に思いのままに補って読むには充分なだけ見えたからだ。
「……そう、シャルル、わたしは今そのことで自分を責めています。でも、あなたのことを思えば思うほど、気恥ずかしさが抑えられず、僅かな動きでわたしの心の秘密を漏らさぬようにさせたのです。でも今では……」
この言葉に涙で視界がぼやけた。わたしはしばらく動かなかった。作業に戻り、二枚の紙の端を持つと、広げて下を読んだ……。すると、まるでその日のすべてが、わたしの最も大切な夢の魅力を実現すべく一致団結していたかのように、彼女の髪の巻毛が目に入った……。
ここで聖歌隊長が突然頭を上げた……わたしは飛びあがってひっくり返った。
もう何も分からず、恐怖で息も絶え絶えだった。わたしが倒れたのに驚いたドゥラークがやってきて、わたしの顔を舐めた。鼻面を叩くと悲しそうに鳴いた。恥ずかしさと混乱で息が詰まり、わたしは後先かまわず寝たふりをした。
しかし、ひとたび目を閉じると、再び開ける勇気はなかった。深く静まりかえっていたから、聖歌隊長がもう動いていないのは分かった。しかし、また眠っているとはとても思えず、彼がわたしの横で屈みこんで、顔をわたしの上に傾け、わたしが目を開ける瞬間の視線からわたしの企みを見抜こうと疑り深く見つめている姿が頭に浮かんだ。手を上げているのが見え、荒っぽい言葉づかいが聞こえた。だからわたしは、不穏な想像に身が竦んで、目を閉じたまま、微動だにしないことで極度の昂奮に捉われているのを隠していた。
とうとう、とてつもない努力で薄目を開けたが、急いで閉じた。それから、徐々に目を全開にし、顔を向けた……。聖歌隊長は体勢を変えて、すやすやと眠っていた。
わたしがこっそり起き上がろうとしたとき、荷馬車が道路を行く音がして、ドゥラークが茂みの中から猛然と飛び出し、聖歌隊長を跨ぎ越えた。わたしは急いで深い眠りに戻った。
休息を邪魔された聖歌隊長は、よく分からない呻り声を上げ、犬を叱るような言葉を呟いた……。わたしは機を窺った。もっとも、彼の声が聞こえなくなって、わたしはすでに希望を抱いていたのだが、そのとき足を強く叩かれた。わたしは激しく身震いしたあと、いっそう眠りを深くした。
推測する時間はあった、恐怖によって目を閉じたままにしていたからだ。ついにわたしは、その怪物の熱を感じ、恐ろしくなった。不安が頂点に達して、わたしは見た……。大きく硬い手がわたしの脚の上に無造作に伸び、腕全体が凭れかかってきていた。
このとき、わたしは固まり、罠に捉われたようになった。進退窮まった。しかし恐怖心に背中を押され、聖歌隊長が動かなかったので、わたしは冷静になって考え、この状態からの脱出策を探った。逃げたあとの代わりとなる支えを作って、少しずつ足を抜こうと考えた。頭の中で脚を抜いてみたところで、高台から「シャルル!」と呼ぶ声がした。プレヴェール氏の声だった。
同時に、デュラクが茂みを飛びこえ、わたしに向かって一直線に進み、聖歌隊長を足蹴にして、吠え声を響き渡らせた。
聖歌隊長が立ち上がり、わたしも立ち上がった。彼は真っ先に手紙の入ったポケットに目と手をやった。それからわたしたちは顔を見合わせた。
「ここにいたのか!」彼が叫んだ。
「シャルル!」プレヴェール氏がもう一度呼んだ。この声に聖歌隊長は自制し、これだけ言った。「行きたまえ、かたがつくだろう」
わたしは震えて逃げ出した。
プレヴェール氏のところへ行くのに、わたしは回り道をして、少しでも時間を稼ごうとした。合わせる顔がなかった。しかし、茂みから出ると、すぐ目の前に彼がいた。
彼はわたしに言った。「君を探していたよ、シャルル。さあ、帽子を。一緒に散歩しよう」
こう言われてわたしはひどく戸惑った、というのは聖歌隊長の傍に帽子を置き忘れたからだ。彼の恐ろしい視線から逃れたばかりなのに、再びその視線に曝されるのは怖かった。それでも躊躇っているように見られたくなかったので茂みに戻った。ところが、聖歌隊長が木蔭から黙ってわたしたちを見ているのに気づき、わたしは驚きと混乱でよろめいた。彼はわたしに近づき、帽子を差し出して、低い声で言った。「ほら、持って行きたまえ」
わたしは受け取って去ったが、怒りのない表情と耳慣れない静かな口調に、いっそう狼狽した。
わたしはプレヴェール氏のところへ戻り、出発した。横を歩いているうちに動揺は収まった。しかし、心が落ちつくと、別種の不安が頭を擡げた。聖歌隊長の雰囲気、プレヴェール氏の悲しみ、予想外の散歩、こうしたすべてが一度に心に迫ったため、不思議な形で結びつき、不吉な予感で頭が働かず、早くルイーズの手紙について知りたかった。
プレヴェール氏は無言で歩き続けた。とうとうわたしがそっと彼の顔を窺うと、困惑が見えたような気がした。そう気づいた途端、いつもの気後れが消え、今度こそ自分の思うとおりに話したいと思った。これほど幸せの似合う人物が、何か秘められた悲しみを抱えていると思うと、もしかしたらわたしに打ち明けるのを嫌がらないかもしれないと思い、わたしは勇気づけられた。
わたしは顔を赤らめながら言った。「プレヴェールさん、もし何かつらいことがあるのでしたら、ぼくに話していただけないでしょうか?」「そうだ、シャルル。君に話そう。君の知っておくべきことだし、君がそれを受け入れられるだろうと思うとわたしも安心できる。でも、もっと先まで歩こう」
この言葉にわたしは動揺し、千もの憶測が頭をよぎった。とはいえ、動揺には誇りも混じっていた、信頼の込められたプレヴェール氏の言葉がわたしの自尊心を高めたからだ。
山のふもとに着くと、プレヴェール氏が立ち止まって言った。「ここにしよう、ここならふたりきりだ」
そこは古い採石場の岩壁に囲まれた一種の囲い地で、胡桃の木々が美しい木蔭を作っていた。そこからは遠くの田畑が見渡せ、無数の柵でまとめられたり分けられたり、山があったり森に覆われていたり、ローヌ川が縦横に流れていたりした。遠くでは鐘楼が点々と集落の場所を示し、近くでは羊の群れが野原のあちこちで草を食んでいた。わたしたちが腰を下ろしたのは、そんなところだった。
プレヴェール氏が穏やかに言った。「シャルル、もし自分の年齢について考えたことがあれば、わたしの話にも驚かないだろう。君の子ども時代は終わった、これからの人生は青年期の過ごしかたにかかっている。君は今、世間を知り、同輩と交流して、特性を伸ばさねばならない。いっそう勉強に励んで知識を広げねばならない。能力を磨き、努力と才能と品行に応じて、少しずつ、この世での天職に就かねばならない……。ただ、もはや君の居場所は、このような質素な田舎ではない……」
わたしは恐る恐る彼を見た。
「……シャルル、これ以上わたしのところで君の役に立つものは見つけられない……わたしたちは別れねばならないだろう」
ここでプレヴェール氏は最後の言葉に声色を変えて口ごもったので、わたしは内なる幾千もの葛藤で身動きがとれなかった。彼が再び話しはじめた。
「……わたしは仕事があるからここに残らねばならない、できれば君について行って社会への第一歩を導いてやりたいが、それはできない。けれども、シャルル、わたしの過保護な手を離れ、もっと有能なひとの手に頼るのは、君にとってよいかもしれない。わたしにはない知恵や力を、別のひとが君の幸せのために使ってくれるだろう、そしてわたしは、自分にはできなかったであろうことをしているからといって咎めず、そのひとのしてくれるであろうことを喜ぶだろう。この、君が尊敬するであろう人物は、わたしの友人のひとりだ。彼はわたしの故郷であるジュネーヴに住んでおり、君を家に迎える。そこで君は、ここでは見られないような多くの素晴らしい立派な模範を見ることができるだろう、田舎の生活は単純で受動的で、魂の最も高貴な性質を発揮しないままにさせるのだ。君と別れるのはとてもつらい。けれども、さっき言ったとおり、君がわたしと同じように別れの必要性を理解してくれれば、わたしの悲しみも減るだろう。自分自身を見誤ってはならない。自分の欲や好みを越えたところに目を向けなさい、そして、自分の立場や能力に応じて、自身の向上や仲間の幸福のために行動しなかったら、しなかったことの責任をいつか取らねばならないのだと、肝に銘じておきなさい」
プレヴェール氏が話している間、わたしは無念と失望に囚われていたが、謙虚な口調と最後の言葉の気高さに慰められた。しかしわたしは彼に何も言えず、地面を見つめる目にこみ上げる涙を黙って堪えた。彼はわたしの動揺を見て、こう続けた。
「……もっとも、ほんの数年だ、シャルル、そのあとは自分で自分の人生を選ぶのだ。自分の力を試したあと、都会の煌びやかな生活よりも、わたしのような質素で無名の生活を好むかどうかは、君しだいだ。いずれ神慮がわたしたちを近づけてくれるのを願っている。そして、もし君の心が、わたしと同じ仕事のほうへと傾くならば、あなたに懐いているこの小さな群れは、いつかわたしの手から君の手に渡るかもしれない」
最後の言葉に、わたしの心は喜びの光で輝いた。プレヴェール氏の言葉の下に、わたしの最も大事な希望が隠れているのを垣間見た気がした。落胆は、たちまち力強い勇気の激情となった。新たな野心に燃えた。別離も、勉強も、不自由も、ルイーズに相応しい自分となるため、ルイーズの許に戻って自分の人生を捧げるためなら、軽く思われた。
それでわたしは勇気づけられて言った。「プレヴェールさん、ぼくの理解が正しければ、あなたの言葉はまさしく願ったり叶ったりです。でも、そのようなことをしながらも、いつかルイーズがわたしと運命を共にし、ふたりであなたの傍に暮らせると期待してよいですか? ああ! プレヴェールさん、もし努力の末にそうなると分かっていれば、そこまでの数年が何だというのでしょう、今日から魅力あふれる幸福な希望となるものを犠牲と呼ぶ理由があるでしょうか! ……」
こう言い終わったところで、プレヴェール氏の額に悲しみの雲が広がり、唇から悲しい答えが漏れだすのが見えた。彼は同情から苦しげな目をして言った。「いや、違う、シャルル、君を欺くことはできない……。そんな考えは捨てねば……。勇気を出すんだ……。ルイーズもわたしと同じように言うだろう。あなたを選ぶか、彼女の父親に従うか、彼女に選択を迫るのか?」
「彼女の父親!」……すぐさま恐ろしい閃光に襲われた。プレヴェール氏の悲しみも、聖歌隊長の様子も、手紙の一部始終も、娘が前もってわたしを励ます機会すらこの疑り深い男に奪われたのも、いっぺんに理解した。「彼女の父親! ああ! この男はずっとぼくを憎んでいるんだ!」わたしは苦々しく言った。
プレヴェール氏が話を遮った。「シャルル、彼の意向を尊重しよう。彼の権利は神聖なものだ。とくに、情念で目が曇って、彼の本心とはかけ離れた感情を想定するのはやめよう。動機を探るのはやめよう。真っ当ではなくとも、正当ではありうるのだから」
この光芒に、わたしは叫んだ。「知っています! ぼくは知っているんです! ……ああ! プレヴェールさん、ああ! ぼくの恩人! ぼくのお父さん、この世で唯一の友人! ……ぼくは孤児なんだ!」そして膝をつき、彼の手の中で泣き乱れた。やがて彼の涙がわたしの涙に加わって、わたしの絶望に幾らか温かさが混じるのを感じた。
わたしたちは長いこと沈黙していた。動揺が落ち着いて静かな悲しみになると、プレヴェール氏を見たわたしは自分についてばかり考えなくなった。
彼の立派な顔には深い感情が刻まれており、天使のような穏やかさとは裏腹に、心を抑えるための激しい苦悩が読みとれた。わたしの言葉によって、わたしの子ども時代から屈辱の影さえも取り除こうと絶えず努力してきた成果が消し去られたかのようで、彼は突然の告白に狼狽し、人間性と、稀有な美徳の実践による優しさをもって長いあいだ愛してきた青年の運命を、胸を突くような苦しさで悲しんでいた。わたしは、ほんの少し前まで、彼が持ち前の率直さを犠牲にしてでも言葉を選んで危険を避けようとしていたのを思い返した。それが苦悶の原因なのだろうと思った。そして、いま彼が打ちひしがれているのを目の当たりにして、その痛みは他ならぬわたしの衝動的な言葉のせいだと気づき、とても可哀そうになった。わたしは心が熱くなって言った。「プレヴェールさん、プレヴェールさん、お許しください! ぼくが自己犠牲を示すべき唯一の機会に、示しそびれました。お許しください! 自らの行動で悔い改めたと証明します。ぼくは、あなたがわたしの手許に置いてくださった好機を最大限に生かすよう努力します……。ぼくはあなたの友人を愛します、プレヴェールさん……。毎日、神に感謝します、ぼくをあなたの許に置いてくださった神に……ぼくを最も幸せな子にしてくださった神に……。ぼくは努力します、ルイーズを忘れるように……彼女の父親を愛するように……。ぼくは今晩にも出発しようと思います」
こう話していると、わたしの保護者は少しずつ苦しみが和らいだようで、目に浮かぶ涙の間から微かな喜びの光が差した。わたしの感謝の言葉に、青褪めた頬が、そっと紅潮した。気持ちが昂ってわたしの台詞が途切れると、彼はわたしの手を取って、敬意と幾ばくかの満足の籠った感動的な握手をした。そしてわたしたちは無言のまま立ち上がり、牧師館への道を悲しく引き返した。
ルイーズに会いたかった。会えなかった。聖歌隊長も現われず、中庭には誰もいなかった。わたしは自分だけがわたしを待ちうけていることを知らなかったのだと悟り、部屋に戻って服を数着まとめた。残りは後で届けられた。
数日前にルイーズのくれた小さな絵を壁から外した。絵には池とその周辺、柳と幽霊が描かれていた。それを慎重にふたつ折りにして、初めての聖体拝領のときにプレヴェール氏から貰った聖書に挿んだ。このふたつの物は、わたしがこの世で愛したものの全てを思い出させてくれるだろう。
プレヴェール氏が入ってきた。ふたりとも昂奮して、お互い示し合わせたかのように他愛ない話で別れの時を先延ばしにした。いよいよとなると、彼はわたしに紙に包まれた何かを手渡した、二枚のルイ金貨と幾らかの小銭だった。そして両腕を広げた。ふたりで泣きながら、わたしたちは長いこと抱擁したままだった。
わたしが小教区を出たのは七時ごろで、夕暮れの輝きが悲しみをかき立てた。池のそばを通るときに一瞥したが、無味乾燥で生気なく見えた。ただ、三羽の鴨が夕日を浴びながら、幸福で平和でいられるであろうと確信してこの地でくつろいでいるのは、少し羨ましかった。鴨たちと過ごした穏やかな時間を思い出し、後ろ髪を引かれながら別れた。程なくして、わたしは道に戻った。
そのとき初めて、わたしは小教区から離れて世界で独りになったと感じた。さほど苦くはない愛惜や悲嘆の感情に、消極的な意気消沈が続いた。記憶も希望も、それまでのわたしの人生と結びついていたものをことごとく奪われ、わたしは新しい世界、人口の多い都市へと向かった。わたしの心は、乾燥しきった荒野に向かうほうが千倍もましだと思っていた。何の生命も感じられなかった。退路は完全に断たれていた。前途は忌まわしいものだった。周囲では、動物でないもの、わたしの通り過ぎる生垣や牧草地や柵でさえ、違って見えた。その光景を惜しむのではなく、見慣れた土地でなくなれば不安も減るだろうと、足どりを速めた。わたしは集落を横切らねばならなかった。しかし、農夫たちが家の前で夕涼みを楽しんでいるのを見て、わたしは村の向こうの道に入り、草原で草を食んでいた小教区の驢馬とすれ違った。
とはいえ、夕暮れの輝き、この季節の風景の生き生きとした色、わたしの頼みでよくルイーズを送ってくれた年老いた召使の姿が、一緒くたになってわたしの想像力をかき立て、かつての印象を呼び起こし、はじめは昔の茫漠な思い出、やがて最近の鮮明な思い出で、わたしの感じていた空虚感を徐々に満たしていった。やがてわたしは、その日の朝、池での夢想、プレヴェール氏、聖歌隊長、そして最後にルイーズが心のうちを書いた手紙にたどり着いた。その筆跡を思い出すだけで、わたしは喜びに震えた。しばらくの間、わたしはまだ幸せであるかのように思え、一歩進むごとに、ともに過ごした少女から遠ざかるのを忘れていた。
わたしは丘の頂上に着いた。反対側へと下る前に、わたしはもう一度小教区に目をやったが、間もなく見失なった。沈みゆく太陽が菩提樹のてっぺんと古い尖塔の頂を緋色に縁どり、それらとわたしを隔てる谷には青い陰が落ち着いた色で広がっていた。
宵の涼しさの中、草は茎を伸ばし、虫たちは静まり返り、すでに夜の鳥が何羽か暗い雑木林を飛んでいた。遠くでは、まばらな歌声や牛の呻りや荷車の音が一日の仕事の終わりを知らせ、田園の休息を優しく予告し、夜の重々しい静寂をもたらそうとしていた。穏やかな渓谷から少しずつ昼の光が去り、牧草地の陽気な色彩が青白い夕闇に消えてゆく。この光景に心動かされ、わたしは道端に腰を下ろした。立ち去ろうとすると、わたしはこうした印象に何だか分からぬ魅力を覚え、ひとつひとつの印象が、過去を語る言葉、わたしの悲しみを和らげて漠然とした温かい憂愁へと誘う言葉を持っているかのようだった。
そのとき牧師館の時計が八時を告げた。この聞き覚えのある音は、まったく気分にそぐわず、わたしの想像力を牧師館のほうへと追いたてた。この時分、いつもであれば、美しい夏の晩、わたしたちは古い高台に座って、ときにプレヴェール氏の素朴で高尚な言葉による格調高い穏やかな会話をし、ときに皆で宏大な天空の深淵と向き合った。
新たな感情がわたしを真剣に悩ませ、しばしば不思議な経路によって善良なる神の姿と純粋この上ない少女の姿を重ねるようになって以来、私はこれらの瞬間が特に大好きでした、わたしはこの時間がとくに好きだった。さらに、この時間は暗闇がわたしたちの表情を見えにくくしていたため、お互い臆病にならずに打ち解けられた。長椅子に座ろうとした瞬間に隣り同士だと気づいても、夜がふたりの恥ずかしさも嬉しさも隠した。彼女の服の折目がわたしの手に触れるのを感じた。彼女の唇から出た吐息がわたしの頬に届くこともあり、わたしは地上にこれ以上の幸福などないと思った。
丘を登ってくる荷車の音が、わたしの夢想を止めた。遅い時間になっていると気づき、わたしはすぐに立ち上がって歩きはじめた。牧師館が見えなくなると、わたしの胸は悲しみで一杯になった。荷車とすれ違った。しかし振り返ったときには荷車も丘の向こうに消えようとしており、独り取り残されたわたしは涙を流した。わたしは草原に踏み入り、草の上に身を投げ、沸きあがる未練で咽び泣いた。永遠に見られなくなったルイーズの姿に、わたしは悲しみで混乱した声を上げた。「ああ、ルイーズ、ルイーズ……ぼくを愛してくれたひと……ルイーズ! ……どうして知り合ってしまったのか? ……そしてプレヴェールさん! ……」しばらく黙っていると、突飛な計画が心に浮かんで涙は止まったが、その計画がかかわる当のひとたちへの尊敬の念に止められて、計画はなくなった。
目を覚ますと、野原は久しく夜で覆われており、聞こえるのは遠くの川のせせらぎだけだった。プレヴェール氏の友人のひとりに泊めてもらうはずの村に着くまで、まだ二里もある。誰も起きていないだろうし、寝ているひとを起こさねばならないし、ひとに会うのは耐えがたく思われた。今いる場所で夜を過ごせるだろうと考えはじめた。翌日の日曜日、日の出前に出発し、自分以外の誰とも話すことなく、夕方には街に着く。わたしの悲しみに訴えかけるこの計画はすぐに決まったので、わたしは隠れ場所を探そうと生垣のほうへ向かった。
しかし、隠れ場所を探しながら、牧師館に近づきたいという気持ちが心に浮かんだ。はじめはプレヴェール氏に対する裏切りだと思って退けた。それでも無意識に小道に戻って丘の頂上までゆっくりと戻った。そこでわたしは自分に負けた。後悔と恐怖がわたしを立ち止まらせようとしたが、わたしは一歩また一歩と進み続けた。ついには池の近くまでたどり着いた。
何とすべてが変わってしまったことか! その場所に、まだ少しの間だけ求めていた幻想を見出すどころか、以来わたしは自分が他所者であるという苦い印象しか感じられなくなった。すべてが冷たく、幻滅させられ、かつて見て最も楽しかったものこそが今わたしの目を最も傷つけている。自分でもどうしたらよいのか分からなくなって、わたしは再びその場を立ち去った。
菩提樹の葉を照らす青白い光を見たのは、わたしがすでに数歩戻っていたときだった。ゆっくりと近づくと、その光がルイーズの部屋から出ているのに気づいた。わたしは立ち止まって動かず、彼女の影が映る小さな壁板に目を凝らし、彼女の存在を感じて再びわたしのまわりや内側が生気を帯びた。
ルイーズは窓際の小さな机に座っていた。書くのに集中しているのだろう、その文章はわたし宛てだろうという希望が、わたしの悲しみに微笑んだ。しかし、わたしが彼女の影の微かな動きを熱心に眺めていると、立ち上がった彼女自身が目に飛びこんできた。そのとき、初めて少女の感動的な美しさを目撃したかのように、最も激しい愛の昂揚が胸を高鳴らせ、胸に残っていた手紙の甘い感覚に混ざり合った。しばらく時が流れ、その間に、彼女の悲しげな表情から、わたしたちがまだ共通の苦しみで結ばれているのが読み取れた。そして机の上の鏡に向き直ると、彼女は櫛を外し、美しい髪をふわりと肩にかけた。こんなに優雅で無造作な彼女を見たのは初めてだった。そんな仕草を目にした嬉しさと恥ずかしさが混じって胸中に混乱を感じ、菩提樹の葉蔭に隠れた。
そのとき、中庭の扉が開く音がして、すぐに灯りを手にした聖歌隊長が現われた。わたしは逃げたかった。しかし、恐怖で力が出ず、墓地の低い塀まで体を引きずるのが精一杯だった。わたしは塀によじのぼって裏に隠れたが、見られていたかどうかは分からなかった。
聖歌隊長はまずルイーズの窓の下で立ち止まり、彼女がまだ寝ていないのを確かめた。そして、わたしの立てた物音に呼ばれてか、また歩きはじめた。わたしの位置から、尖塔の上を過ぎる微かな光が見え、彼が近づいているのを教えてくれた。そこでわたしは草叢を這って教会の扉まで行き、そっと扉を閉めた。
そこでようやく一息つけた。古い扉の隙間から外を窺うと、すぐに見えたのは、聖歌隊長が灯りを消して、暗闇の中をゆっくりと歩きながら、あたりを見回し、僅かな物音にも耳を澄ませているところだった。彼はゆっくりと離れていった。しばらくして、彼の宿舎がある教会のほうで何か動く音が聞こえたので、彼が帰ったと分かった。その後の深い静寂から、小教区で起きているのはわたしだけだと判断し、助かったと思った。
怖くてすぐには出られなかったし、行くあてもなかった。それで、教会で二、三時間過ごし、日の出前に出発しようと決めて、ルイーズの席に座った。時計が一時を打ち、わたしは疲れ果てていた。しばらく頑張ったが、とうとう長椅子に横たわって眠りに落ちた。
大きな音で目が覚めた。教会の鐘が小教区のひとたちを礼拝に呼んでいたのだ。わたしは跳ね起き、動転して余裕を失ない、どこへ行けばよいか分からず教会内をうろついた。やがて鐘の音に続いて、さらに恐ろしい静寂が訪れた。聖具室のほうで錠前の音がした。わたしは側廊を走り、オルガンの後ろに隠れた。
聖歌隊長が聖句に印をつけ、説教壇の準備をしに来たのだ。彼が開けっ放しにした扉から、早くも菩提樹の下に集まっている小教区のひとたちの声が聞こえた。オルガンは修理中のため、その日曜日には演奏されないのを思い出し、わたしは鍵盤の出っぱりと楽器の側面でできた窪みに隠れた。椅子が外されていたので、わたしが見えるであろう長椅子の正面になるよう調整し、天命を待つことにしたが、前の晩に引き返さないようにという警告の声に耳を傾けなかったのを何千回も後悔した。
やがて何人か入ってきて、側廊はぐるりと埋まった。わたしの苦しみを増幅させるかのように、礼拝はいつもよりも人数が多かった。ところが、皆の話題がわたしにとって好意的であるのに気づいた。自分について話されていると分かったとき、好奇心でしばし警戒心が緩んだ。
わたしの周りでは、わたしの出立やプレヴェール氏や聖歌隊長が話題となっていた。ある者はルイーズに同情し、ある者はプレヴェール氏がわたしを連れてきて育てたのは間違いだったと考えた。ある声が続いた。「やっぱり、よいところに生まれなかったひとは、必ずひどい目に遭うんだ」別の声がした。「間違いない、どうしたらよいか分からない乞食たちが置いていったんだ。プレヴェールさんは、そいつらが誰だか知りたければ知れただろう、小屋から戻ったクロードに上の森で母親を見かけたと聞いていたのだから。でも追いかけさせなかった。それで子だけが手許に残った」
別の者が言った。「それでよかったんだ。「神さまの贈りものだ、この子を悪党どもに返すのか、そんなことをしても井戸に投げ捨てるだろう?」と、プレヴェールさんは言うだろう。そして彼はその子を育て続けた。悪いことをしたのか? 俺は違うと思う、育てられるんだから。確かに、父も母もいないし、俺だって娘を嫁がせはしないが……。ともかく、少なくとも乞食がひとり減った。それに、これは言わねばならん、シャルル君はよい子なんだ」するとたちまち、わたしに初めて利己的な偏見を露わにした当の農夫たちが、わたしから見ても疑いようのない優しさで、競ってわたしを褒めた。わたしは驚いた、最も激しい偏見と生まれつきの善良さが同じ魂のうちに同居できるとは、当時は知らなかったからだ。とはいえ、彼らの言葉はわたしを感動させ、引き裂かれそうなわたしの心を癒してくれた。
そのときルイーズが入ってきた、そして少し後にプレヴェール氏も入ってきた。たちまち会話は途絶え、ただならぬ静けさが教会を支配した。プレヴェール氏が説教壇への階段を上ると、全員の視線が集まった。それから聖歌隊長に、そしてルイーズにも向けられた。いつも内気な少女は顔を伏せ、帽子のつばで赤面と戸惑いを隠した。
プレヴェール氏は、毎週日曜日の礼拝の冒頭を飾る美しい祈りを典礼から読み上げた。そして詩篇の歌が始まった。いつもと違い、彼は合唱に加わらなかった。ただ、座りながら、悲しく打ちひしがれた顔をしていた。いつもわたしを見ていた場所に何度も目をやったが、そこには誰もいなかった。そして、小教区のひとたちに気づかれないようにして、思いやりの籠った顔をルイーズに向けた。歌が止んだ。何箇所か気になる声音で二度目の祈りを唱えたあと、プレヴェール氏は聖書を開き、次の言葉を読んだ。「誰でも、このようなひとりの幼子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである」〔マタイ十八・五〕そして次のように語った。
「親愛なる小教区の皆さん……
今日、いつもの説教にわたしが割りこむのを、お許しください。わたしは、もはやあなたがたに黙っておくべきでない真実を、お伝えしたいのです。どうか率直にお聞きください! 真実が、苦しみや苛立ちなく、わたしの唇から語られますように!
十七年前の夜十一時ごろ、わたしたちは小さな子の泣き声に引き寄せられました。この教会の中庭でした。当時そこにいたピエールとジョセフ、あなたたちも知っているでしょう。ぼろきれにくるまった可哀そうな子は寒さに凍えていました。わたしたちはその子を家に入れ、暖め、小教区の母親たちから乳母を見つけようとしました……。誰であっても断らないつもりでしたが、誰も来ませんでした。その晩から、わたしたちの山羊が、兄弟たちよ……わたしたちの山羊が乳を与えたのです。
神は、この哀れな動物の懐で、その子が力と健康を得るのを許されました。しかし、その年齢に相応しい優しい世話は受けませんでした。あなたが自分の子に惜しみなく与えるような愛撫の代わりに、悪意ある好奇心が彼の揺籠を取り囲み、彼が人生を歩みはじめるや否や、野蛮な偏見の重石が無邪気な頭にのしかかったのです……。わたしの言うことは間違っていますか? あなたがたは、母親を持たないこの子に名前を与え、洗礼を受けさせる者をひとり見つけるのさえ苦労したのを覚えておられますか? ……
彼は成長しました。彼の長所、親切で寛大な性格は、あなたがたに好かれました。だからあなたがたは彼を愛し、自分の家に迎えいれ、親切にもてなし、そのたびにわたしはあなたがたに感謝しました……。ああ! わたしは思い違いをしていました。あなたがたは彼を愛していた! けれども、彼の出生を汚点としたのを、忘れたわけではなかったのです。あなたがたは彼を愛していた! けれども、あなたがたにとって彼はいつまでも孤児だったのです……。だからあなたがたは傲慢な心で彼を見下しました。だから会話の中でそうやって彼を呼びました。だから彼は、何としても彼に隠しておくべきことを知ってしまいました。そして屈辱が彼の青春を枯らし、最も美しい日々を台無しにしました。そう、あなたがたは彼を愛していた! けれども、もし神慮がわたしの切なる願いを叶えて、この若者がこの地に家族を求めたくなったとしても、兄弟たちよ! ……あなたがたの誰ひとりとして、彼に娘を嫁がせなかったでしょう!」
プレヴェール氏は掠れた声で続けた。「そう感じたから、彼を追い出さねばならなかったのです。さらに言いましょう、すでに老境に入って、老いの悲しみを紛らせてくれたひとと別れ、わたしは独り取り残された! 神よ、どうかこうはなりませんように! 自分のために選んだ伴侶を失ない、神がわたしに与えてくれた唯一の子が死ぬのを見るなんて……この宝をあてにしてはいけなかったのです。
彼のことはもうよい、わたしのことはもうよい、兄弟たちよ。わたしの望みは天にあり、彼の望みも天にある。それはわたしの悲しみや恐怖の原因ではない……。しかし、わたしはどこにいるのか? あなたがたの只中でわたしは何をしたのか? わたしはあなたがたをどこへ導いたのか? どのような申し開きをしたらよいか、ああ神よ! わたしが二十年も聖職を務めていながら、あなたがわたしに託してくださった魂たちは、野蛮な思い上がりによって、最も基本的な義務や、憐れみという最も自然な喜びさえも失なったような状態なのだとしたら! ああイエスよ! わたしたちはどうやってあなたを見たらよいか! わたしたちはあなたに何と言えるでしょうか? あなたが約束してくださった、それなしにはあなたを認識できない慈悲の心は、どこにあるのでしょう? あなたはこの小教区に、あなたを愛する者たちによって守られるだろうとの親切心から、小さな者たちのひとりの世話を託されました。それなのに、彼は母親も友人も家族も見つけられなかった! そして今、彼は、すでに枯れ果て、落胆し、ここで拒否されたものを見知らぬ人々のうちに探しに行かねばならないのです! けれども、彼に見つけられるでしょうか? ああ! つましい田舎者にすぎないあなたがた、彼の子ども時代を見たあなたがた、この不幸者を知り、愛したあなたがた……あなたがたが彼を拒絶したのです……。都会の只中、社会の差別の只中、あなたがたと同じくらい彼の美徳を知らない、しかし遠からず彼の出自を知るであろう赤の他人たちの只中で、何が彼を待ちうけているか、あなたがた自身が考えてみてください! ああ神よ! 彼をお守りくださるのはあなただけです。わたしたちも彼を守れたはずでしたが、そうしなかったのです。
慈悲、謙虚! 素晴らしい美徳! つまりこれらは地上にはあまりに純粋すぎるのです! 救い主とともに天の住まいに昇ったのでしょうか? かつてわたしは、都市の群衆の中に、それらを至高の価値とする者を何人か見たことがあります……。にもかかわらず、そうした稀有な例を見ても、わたしの目は悲しく、しかし希望を抱いて田舎に向けられ、この平和な田園がそれらの隠れ家であるはずだと信じていました。苦い思い違いだ! そこでも慈悲と謙虚は無視され、忘れ去られているのです。そこでもまた、農家、百姓、日雇い農夫は、たとえ自分たちが生まれ出た土に近い存在であっても、自分の出自の価値を高く見積もり、父の罪のために子を軽蔑するのです! ……
ならば孤児は他の教区へ行かせなさい! 他の戸口へ行かせなさい! ここでは、幸福な者は不幸な者を拒み、貧しい者は貧しい者を拒み、祝福された家族は家族のない不幸者を突っぱねます。ああ! 兄弟たち、愛する兄弟たちよ! 何と! 現世での時間のいかに短かく、いかに粗末に使われているか! 美徳を実践する機会も、最も甘美で美しい美徳を無駄にする機会も、何と少ないことか! 聖なる主は不貞の女を親切に立ち上がらせて崇高な模範を示した、そして有象無象の人間のうちには、純粋で正直な若者を軽蔑する、あまりの高慢さ、冷酷さがある!」
「親愛なる小教区の皆さん、厳しい話をしましたが、わたしもまた皆さんと同じ罪人に過ぎません。どうかお許しください。長年、この話をあなたがたに言わなかったために、わたしの唇からあまりに抑さえのない言葉が漏れ、あなたがたは泣いてしまった……。ああ! どうぞ涙を流してください、あなたがたにとって涙は無駄ではありませんし、わたしにとっても嬉しいものです。わたしの心を流れる涙が、沈黙による長い苦しみで溜まったつらさを洗い流してくれます。これからは、貧しい者、惨めな者、拾われた子のうちにも、イエスの友、イエスがあなたがたに送る客人、イエスがあなたの愛に向けて差し出す子を見つけられるという希望を、涙はわたしに残してくれます」
「もしわたしの言葉がそうした実を結ぶなら、わたしは乱暴な言葉を後悔するどころか、むしろ有益な効果を与えてくださった神に感謝するでしょう。ですから、あなたがたと慈悲の約束ができたと信じて、さほど不安なく人生の終わりが近づくのを見るでしょう……。ああ愛すべき小教区の皆さん! 遅滞なく救いの道に入り、残りの日々を有意義に使い、善行をしながら墓へと進みましょう。そして、朽ち果てるべき肉体が墓に入ったとき、最後の裁きで認められますように。あなたがたは、心を入れ替えたことによって。わたしは、わたしの現世での愛情すべてを注いだこのひとたちを天上に導くことによって!」
わたしが顔を上げると、もうルイーズの姿は見えなかった。聖歌隊長は苦悶に耐えかね、顔を伏せて泣いていた。目から溢れる涙ごしに、プレヴェール氏が天上の存在のように映り、跪いて足に口づけしようかというほどだった。わたしは信仰心や美徳、献身の美しさを理解した。そして、希望がわたしの心を揺さぶる前に、できるだけ早く気づかれないようにその場を立ち去ろうと急いだ。
三日後、ルイーズの父親から手紙が届いた。
(訳:加藤一輝)
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