シャンフルーリ「日本の諷刺画」第5章:太っちょと痩せぎす
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図像学に少しでも関心のある方なら誰でも、ブリューゲルによる2枚の版画『太っちょと痩せぎす』を多分ご存じであろう。天才の作品よろしく、そのコンセプトは簡潔だ。
太った男たちが厨房でご馳走に夢中である、その天井には豚のモツや脂身の塊が鈴なりに吊られているようだ。戸口には痩せこけた音楽家がおり、不幸者の吹くミュゼット〔バグパイプ〕に合わせてカチカチと骨が鳴ることだろう。
――失せろ、と太っちょたちが怒鳴る、食糧の山を物欲しげに見つめる弱々しい男に気分を害したのだ。失せろ、お前を見ていたら消化不良になっちまう!
それと対をなす絵では、惨めさに満ちた部屋の人々が、一日パンなしで過ごしたかのように痩せ細り、樽詰めの鰊のように萎びて、心まで張り裂けそうな襤褸をまとっている。ひとりの太っちょが間違えて痩せぎすたちの陋屋に入ると、窶れた者たちが招き入れようとするから、こう叫んで逃げるのだ。
――いやいや、お前たちは貧乏すぎる、貧相すぎる。
ブリューゲルの表わそうとするものを註釈者たちが探究してこなかったのも尤もである。
耆宿の着想は、肥満と貧窮の、巨躯と痩躯の対比であり、貪る太っちょたちを描いた最初の版画のコンセプトは滑稽である。痩せぎすたちの版画にも同じく美的価値があるだろう、つまり陰気である。
太っていることは古代から現在まで常に陽気な要素であった。ルキアノスは俗物を嘲って「太っちょ」と呼んだ〔『偽預言者アレクサンドロス』第6節〕。たいそう太った神であるシーレーノスは、古代においてオリュンポスの傑出した神々の一柱と看做されることはなかった。
フォルスタッフは太っている、サンチョも太っている。彼らは剽軽な、けれども小胆な男なのだ。
日本人も同じ道を辿って、ブリューゲルよりも簡略に、太った人々の寸劇を描いている。
日本の画家の全ては素描にある。――これぞ太っちょ、というわけだ。
かくして北斎は、酒を飲もうと腰を下ろして待ち構える大食漢や、魚を捌く魚屋、靴紐も結び直せないほど節々の膨らんだ男を、画集の数ページに亘って溢れさせた〔『北斎漫画』八編・九編〕。
動き回るにも苦労しながら、ぽっちゃりした小柄な女が散歩に出かける。でっぷりした女が家事をするにも息を切らしている。ものぐさ女が丸々とした頬に白粉を乗せて化粧している。表情豊かで、とても正確に動作を写した素描である。
続くページでは、北斎は逆に痩せた人々を描いている。わが国のチェス指しのごとく盤双六のような卓の前で世事を忘れた2人の男、鎖骨に乗せた天秤棒のひっくり返った荷持、ぞっとするほど弱々しい力士、地面に横たわり肋骨で穴の掘れそうな男、なけなしの色気で髪を結う女、喧嘩して髪を引っ張り合う女。北斎は解剖学の知識を披露しようとしたのかも知れない。ただ、ブリューゲルと同じく、こちらは陽気さを欠いている。
痩せている、それは何もかも足りないということであり、惨めで寒々しいものだ。血色よく贅肉を「着込んだ」ジョン・ブル〔イギリスの擬人化。「身につけるporter」にポーター(イギリスの黒ビール)を掛けている〕は嘲笑を誘うが、飢えたアイルランド人が滑稽な諷刺画に描かれることはなかった。
骸骨によって演じられる中世の死の舞踏は、キリスト教の訓誡どおり諷刺的な道徳を含み、人間から財産や威厳を剥ぎ取って、王の死体を最下級の臣民の死体と同じように表わしている。大金持ちの富豪も乞食より価値があるわけではないとする平等主義の象徴である。
ホルバインに重大かつ辛辣な作品の主題を与えたフレスコ画家たちは、骸骨を悲劇のための役者として使い、藝術に全く空想的な要素を取り入れたのだ〔15世紀にパリの聖イノサン教会の地下墓地に描かれたフレスコ画が「死の舞踏」の起源とされる。ホルバインは16世紀の画家〕。
動く骸骨は、痩せた人間にはできない超人的な隆盛を誇る、というのも余命わずかになってさえ、生の息吹が貧相な肉体から離れるまでに受ける幾千もの苦しみを予期せずにはおれようか?死と瀕死を混同してはならない。
この日本の画集を捲りながら、江戸の絵師は西洋の藝術を知っていなかったか、ブリューゲルの『太っちょと痩せぎす』は北斎の手許になかったか、一度ならず疑問に思われた。日蘭の交流は長い。工藝品のやり取りによって、17世紀には非常に流布しており後世のような稀少価値のなかった版画が、日本に伝わっていたかも知れない。
日本で人気の通俗画誌の巻頭に、ベラスケスの惜しみない筆致で描かれた宮廷の幼い王女たちの姿にも似た少女の顔が、堂々たる簡潔さで描き上げられているのを目にすることがある。他にも北斎の漫画にはゴヤの影響を受けたかのようなところが見られる。しかし日本史においては、日本がオランダ以外のヨーロッパ諸国に対して鎖国していたという確かな情報があり、アムステルダムやロッテルダムの船員ならオランダの版画やスペインの絵画を貿易なり商売なりで江戸に持ち込めたとも考えにくい。
遠く離れて作られた藝術作品が不思議と似通っているのは、海を渡る風に運ばれた種が芽吹き、不意に異国の花を咲かせたのだと考えざるを得まい。もっとも、近年出版されたスペイン史の未刊資料によれば、1580年に江戸の宮廷の使節4人がマドリードを訪れ、エル・エスコリアル修道院の宝物を隅々まで見学したという〔些か不正確な記述だが天正遣欧使節のこと〕。
スペインの写本編纂者は、使節たちがフェリペ2世の荘厳な宮殿に驚嘆し、日本に帰ったらこの特別な体験談の折に触れて話すつもりだと、たびたび語っていたことを記している。
太っちょと痩せぎすの章におけるこの余談は、国を越えた藝術の底流に関心のある方にとっては無益でないだろう。馬鹿正直と喜劇役者の類似は、未開人と文明人の間に、しばしば見られるものだ。日本人を未開人と看做すことはできまい。模倣好きの日本人は一度ならず猿のような性質を見せるが、それに直面したら、もっと軽妙な他の特質を充分に認識し、思慮深い者は用心すべきである。
(訳:加藤一輝/近藤 梓)
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