グザヴィエ・ド・メーストル「気球実験の報告を記した手紙」

【原題:Lettre contenant une relation de l'expérience aérostatique de Chambéry】
【モンゴルフィエ兄弟による1783年の気球有人飛行を受けて、わが街シャンベリでも気球を揚げようと試みた弱冠20歳のグザヴィエ・ド・メーストルが、昂奮さめやらぬうちに顛末を記した手紙です。宛名は明記されていませんが自身の所属する連隊の上官に宛てたものと思われます。原典はŒuvres inédites de Xavier de Maistre, Tome 1, 1877を使用しました。()は原註、〔〕は訳註です】

鷹よりも軽やかに空へ昇った
鷹匠に折よく頭巾を取られ
獲物を見せられた鷹よりも
アリオスト、第4歌、第46節
〔ルドヴィーコ・アリオスト『狂えるオルランド』の引用。原文イタリア語〕

親愛なる伯爵さま、おそらく貴方がわたしたちの哀れな気球の運命について抱いたであろう心配を、急いで終わらせます。貴方は4月22日の事故いらい、静かな城で、もっと上手くいった実験の知らせを、どれほど待ちわびていたことか。しかし成功をお伝えする前に、惨めな22日に戻らねばならないでしょう。わたしたちは言われました、気球の出来が悪かったのだ、一度も膨らみはしなかったのだ、計算の最も重要な項目を蔑ろにして3人、4人、5人、そして7人と乗せようとしたのだ、それから……ああ!何か言われなかったことがあるでしょうか?ビュイッソン=ロンの囲い地でさえ根も葉もないことが言われていたのだから、20里か30里も離れたら本当のことなど全く軽視されていたでしょう。ともかく、残念な出来事について、幾らか詳細を手早く知りたいですか?すぐに得心いただけます。

わたしたちはまず、市民の手で気球を作り、離陸させ、上昇させると決めました。したがって外部の専門家が支援を申し出てきても全て断りました、気持ちだけは受け取るが手は借りなかったのです。それに、この企画に集まった大勢の職人や画家や好事家たちのうち、気球の有人飛行を見たことがあるのはひとりだけで、彼は二回目の実験には立ち会えませんでした。つまりわたしたちは未経験による様々な困難に進んで飛び込んだのです、ただ克服の喜びを得たいがために。この国民的な驕心による行動(もっとも、それは唯一よい驕心でもあります)のために、わたしたちは一時、少しばかり屈辱を味わいました。いかに練られた理論でも経験不足を完全に埋め合わせることはできません、わたしたちの見立ての幾つかは間違っていました。網は想像よりも遥かに重いものでした。桟敷席を250リーヴルと見積もっていましたが、その倍の重さでした。それだけではありません、焦って引っぱられた気球は10分で膨らみましたが、これが大きな間違いでした、急ぎすぎると空気の希薄化が甚だ不充分なのです、わたしたちの辛抱よりもずっと根気づよく待たねばならないのでしょう。けれども、待つのに疲れ、見世物を渇望していた観衆が、飛ばせと言うのです、このふたつの感情は残念ながら壇にまで及びました。さらに折悪く、職人たちは夕食に行っていました。あれこれ役に立たない操作のあと、離陸させられるだけの風を起こせると期待して、桟敷席を浮かそうと考えました。桟敷席を取り囲み、手で持ち上げたのです。綱が外されました。機体は壇の端まで運ばれました。最後の過ちに近づいていたのです。どれほどの熱狂が皆の頭を捉えていたか分かりません。口々に声が上がり、何も聞こえませんでした。才能と同じくらい熱意もあるティオリエ〔Tiollier〕氏が、台無しになるぞと警告しましたが、無駄でした。ある職人が、上手く書けませんが「下へ投げろ!飛び始めるだろう」といったようなことを叫びました。なるほど尤もだと聞き入れられました、哀れな気球は「打ち上げられた」というよりも「投げ捨てられた」のです。そして重力の不可侵の法則によって、壇のすぐ下の草地に落ちました。落ちるとき、不用心にも支柱にたくさん打たれていた釘に当たりました。釘は網を引っ掛け、編目を20箇所も引き抜きました。大きく揺さぶられ、気球は横向きに倒れました。桟敷席が斜めに墜落したので、搭乗者のひとりが燃焼装置の下敷きになり、わたしたちは震え上がりました。けれども彼は無傷で済みました。ただちに救助され、綱が切られ、気球は重い荷物を失ってひとりで浮き上がると、すぐに網の重さでひっくり返りました。このとき損傷したのは、紙の裏地と、「赤道」の少し下で燃えた2枚か3枚の紡錘形の一部だけでした。

シャンベリの気球に山ほど投げつけられた冷淡で辛辣な言葉の素晴らしさを、想像してみてください!わたしたちは幾つかの点で間違っていましたが、それだけなのです。偉大な奇蹟をご覧ください!わたしたちはラ・フォンテーヌの狐と同じくらい、いやそれ以上に上手くやったのです。

はじめは下手だったが、次は少々ましに、その次は上手く、
ついには完璧にやった。
〔ラ・フォンテーヌ「狼と狐」、『寓話』第12巻第9話〕

最初の実験が残念な結果となったあと、寄付者たちは気落ちするどころか、さっそく軽航空機を修理するための基金を立ち上げました。失敗を生かして完璧な成功に役立てようと誓ったのです。それで、まずは気球の上半球を覆う網を取り除きました。これで重量がだいぶ減りました、この重い被りものは少なくとも180リーヴルあったのです。網の代わりに、2本あった「骨」を倍に増やしました。綱を48本まで支えられれば、球形を保つのに充分で、内部の流体の膨張にも耐えられるからです。それから桟敷席について考えました。最初の実験では500リーヴル近くありながら、強度は不充分でした。強化と軽量化を同時に行なうため、トネリコの木で気球の開口部と同じ直径の大きな輪を作って、前の桟敷席の残骸から作った2種類の駕籠を等間隔にしっかりと固定しました。この駕籠はふたつの演壇に似て、外側は全長11ピエ、内側は9ピエしかありませんでした。円形に沿わせ、鉄の横棒で3つの等しい「区画」に仕切り、中央を旅客用、両側を荷物用としました。金具も含めて総重量は約300リーヴルでした。気球の形については何ら変える気はありませんでした、実際、球形というのは異論なしに最も優れた形だからです。この点について、どれほど言いがかりをつけられたか、信じられないでしょう。あちこちから不吉な予言を浴びせられ、大きな気球が完全な球形をしていたら上昇の妨げになると筋道立てて論証されました。そうした方々への反論に代えて実例を示せなかったら、では大気をたやすく「貫き」、月へ一直線、故アストルフォの訪れたという瓶を開栓しに行けるような、長さ2万ピエの紡錘形の「軽航空機」を作ってみてください、と彼らに勧めるところでした〔月には各々の失った理性を詰めた瓶が埋まっており、失恋から発狂してしまったオルランドの理性を取り戻すため、アストルフォは月へ行く(『狂えるオルランド』第34歌)〕。

どんな形でも構わないのであれば、古代の学者に称えられた形態に内在する素晴らしさを鑑みて、いつだって球体に決めるのが一番です。

アリストテレスの『気象学』第一巻に
いみじくも言いけらく……
〔ラシーヌ『訴訟狂』第3幕第3場、以下ふたつも同じ〕

どうかラシーヌのダンダンのようなことを言わせないでください。

わたしは言うぞ、
ここではアリストテレスは何の権威もないんだ。

もし貴方が古代人たちを敬わないとしたら残念です、結局いつも古代に立ち戻らねばならないのだと信じてください。スタゲイロスの哲学者〔アリストテレスのこと〕の思想をご紹介しましょう、

ペリパトス派の権威に曰く
形態とは……

もっとも、こうした知識は退屈なようでしたら、もう止めにします。しかし貴方が古代人の作った華々しいもの全ての証拠を蔑ろにするとは思えません。アリストテレスだけでない、多くの重要な本に引用されるタレスやピタゴラス、プトレマイオス、クレオメデス、キケロ、プルタルコス、アル=ファーラービー、つまり皆が球形を優れた形と看做すことで一致しているのです。誰もが球形を完全性の象徴とし、かの見事なプラトンは『ティマイオス』で「この驚くべき形に比肩しうるものは何もない、それ自身のうちに他の全ての形を含んでいるのだ」と述べています〔33b〕。

あれこれの考察を抜きにしても、わたしたちがその形を採用するに至った単純な理由を、伯爵さまはご存じでしょう。わたしたちはこうも考えていたのです。

球体の気球の各部分は単一の型の反復でしかないから、作業が非常に簡単で、何日か経てば職人たちにとって失敗する恐れのほとんどない機械的な作業となる。
球という形の質量は、表面積よりも体積のほうが高い比率で増大するから、釣り合いをとる必要がない。
球体は気球を最も均一に膨らませやすく、物体の各所に任意の力を均等に配分する働きのために、これほど適した形はない。
気球の高さを抑え、重心を近づければ、危険な振動の恐れを少なくできる。

後のほうの理由は、それだけでは説得力を欠くようですが、前の理由と合わせれば納得できないではないでしょう。それに、事実によって然るべき力を持つのです。気球はどの向きにも55ピエで、300リーヴルの桟敷席、80リーヴルの燃焼装置、ふたりの人間、300リーヴル以上の荷物を搭載しており、「つまり離陸できない」のですが、今月6日に天と地とサヴォワ公国のもと離陸したのです。だから批判者たちには、わたしたちにとって上々の、また彼らも手に届くであろう事実を、ここに提示するので満足してもらわねばなりません。

わたしたちの話に戻りましょう。火による損傷に急いで対処した話は、既に述べたと思います。気球の救世主たちの小刀は、別の損傷の原因となりました。しかし寄付者たちの熱意と昼も夜も働く職人たちの作業のおかげで、4日の火曜には打ち上げると宣言できたのです。確かに、気球は完全に修復され、予定の日には準備できていました。ところが「北東の」風が止まず、実験を行なうことはできませんでした。2日間むなしく壇を眺めた末、観衆は待ちきれずに帰ってしまいました。ようやく日が高くなるにつれて風が弱まってきたのが分かったので、水曜の夕方、職人のひとりがメガホンを手に、この企画の主要な監督たちの指示として、気球は翌朝6時に打ち上げられると告げました。

観衆の最大の関心事は、気球に乗ったことのない搭乗者をひとり見つけることでした。当初、軽航空機に乗るのは、この企画の推進者であり自然指導者〔技師のこと〕であるシュヴリュー士爵の予定でした。士爵は皆から好かれており、観衆は士爵が自身の企画を達成するのを見たいと思っていました。ところが父親の優しさというものが皆の願いを叶えさせなかったのです。彼のお父さんは物理学を愛好していましたが、しかし心配する父親としては、息子がこのような新しい種類の乗物に乗るのを断固として認めなかったのです。父の心配と息子の恭順は互いに称え合うものです。とはいえ、この敬愛すべき士爵が去ったのは本当に悲しいことです、さんざん骨を折ったのに実験の失敗を見ただけとなってしまったのです。せめて成功報告が彼の慰めとなるよう願っています。

若さ漲るわたしたちが、指導者と同じくらい搭乗者にも志願したことは、お分かりでしょう。しかし競争にして揉めるのは避けようと、その場にいたもうひとりの搭乗者に決めてもらうことにしました。彼はブラン君〔Louis Brun〕といい、若いながら優秀な人物で、とても数学に通じた24歳でした。間もなく王の裁可を得てプロイセン国王陛下に仕えるところです。この第一歩が彼にとって幸福な一歩となるよう、わたしたちは切に願っています。

当初の相方を失ったブラン君は、海軍志願兵であるメーストル士爵と一緒に空中旅行をしたいと強く希望しました、士爵のほうも死ぬほど望んでいたことです。ただ連隊の出発予定日時はまさに実験の時刻であり、また父の怒りというのもやはり大問題でした。まずは最初の問題を解決するため、午後に出発してモンメリアンで隊に合流する許可を得ました。父の心配については、あれこれ助言を聞いた結果、やはり大変なものだろうと考え(もっとも、それはどうかなという気もしますが)、黙って離陸のときまで内緒にしておけばよいと決めました。とはいえ水曜の夜になればもう計画を完全に止めることはできません。搭乗者一家のうち話を知っているのは、たまたま聞き及んだひとりだけでした。

職人たちは水曜から夜を跨いで木曜まで気球の前で過ごしました。午前3時から、弱いけれども一定に保たれた火で、気球を膨らませました。この緩慢な希薄化こそ実験成功の鍵と思われたのです。6時になって、観衆がビュイッソン=ロンの囲い地にやって来ました。離陸の準備は全て整っていました。燃焼装置の中で炎がきらめき、張りつめた綱は「前途洋々」と告げていました。

ブラン君は普段着で壇の上に立って指示を出していました。しかし皆が見ていた搭乗者はただひとり、制服で腕組みして何の計画も指示しないメーストル士爵だけでした。けれども、ブラン君が駕籠に乗りこむと、「気球」を一周した相方の搭乗者も自分の駕籠に近づき、服を脱ぎました。これは書いておかねばなりませんが、立地の問題から、観衆の場所は囲い地の両端だけでした。そして正体不明の搭乗者の駕籠は観衆とは逆側でした。だから大勢に見られることなく駕籠に乗りこめたのです、そしてきちんと立たずに寝転がって布をかぶっていました。そのとき駕籠を支えていた綱の一本が急に切れたのです、おそらく気球が少しずつ上昇しはじめていたから、またその綱が他の綱と完全に揃えられておらず少し短かったせいで全重量がかかったからでしょう。しかし搭乗者は少し考えた末、残りの綱でも安全に不足はないと確信し、無用の修理に時間を費やしたり頭のよいひとたちを不安がらせたりするのはよくないと考えました。すると、壇の上にいた彼の兄〔ジョゼフ・ド・メーストルのこと〕が他の綱に触り、言葉少なく「それじゃ」と言って、人だかりの中に消えました。ついに予定の時刻が来て、太い綱が下げられました。完璧に膨らんだ「気球」は飛び立とうとしていました。皆の心が沸き立ちました。望遠鏡がいっせいに空へ向けられました。――皆が無言の要求をします。――ブラン君が向き直ってピストルを鳴らします。それが合図でした。全ての綱が放されます。何にも縛られなくなった「気球」が壇を離れます。皆の目に炎が輝きます。気球は空中に浮かんだのです。――皆の昂奮を書き表わせるでしょうか?否!そんなことをしようというのは天使か馬鹿だけです。けれども、多くの才能を持っておられ、とくに優れた画才をお持ちの伯爵さま、お聴きください!絵具を擦ってください!画布と絵筆を執ってください、わたしが適切なモデルを差し上げます。囲い地の中で、矢のように飛びたつ気球を潤んだ目で見つめる若者たちを、ご覧ください。わたしにそれを描いてください!恐怖に蒼ざめる顔、感嘆し恍惚とする顔、優しく微笑む顔を、わたしに見せてください。その場に立ちつくすほどの昂奮、大気に支えられ、導かれ、岩に落ちないよう守られた空中の「気球」を探す無意識の動作を、描いてみせてください。さあ!頑張って!立派に、貴方の思うがままに!貴方の絵がモデルと同じくらい真に迫って「あそこに兄さんがいる!」と言いますように。――けれども貴方は、自分は天使でも馬鹿でもないから、と仰るでしょう。閑話休題です。

何トワズか上昇したところで〔1トワズは約2m弱〕、ブラン君は囲い地のほうを向き、集まったひとたちに実に冷静な挨拶をしています。相方はというと、はじめの姿勢を止めるときだと考え、起き上がってメガホンを取り、「案内」で約束したとおり、あらん限りの声で「ご夫人がたに栄光あれ!」と叫んでいます。けれども、その高度のあたりでしか聞こえませんでした。囲い地では、文字どおりこう言うことができたのです。

神は聞こえるように雷鳴を轟かせたが、無駄だった。
〔ボワロー『諷刺詩』第6歌第62行〕

そのとき偶然、何とも幸運なことに、海軍の連隊がビュイッソン=ロンの城壁に沿って進んでいました、ご存じのとおりピエモンテへと続く街道です。気球はちょうど一隊の上を飛び、地上では太鼓が鳴らされました。

ところが、気球は驚くべき速さで上昇したものの、ほぼ垂直に昇ったので、搭乗者ふたりは満足できず、風のひと吹きが欲しいと思いました、つい先日まで風にやきもきさせられていたのですが。かなり高くまで昇ったとき、微風が吹いて、少しずつ出発地点の「北東」にあるシャルのほうへと流されました。不運な凪が10分ほどありましたが、弱い風とはいえ、機体の状態もよく、搭乗者は充分に安全だったので、おそらく例のない成功が垣間見えたのです。しかし、そうした情況の常として、経験不足による失敗を犯していました、必要な燃料の量を見誤っていたのです。180リーヴルの薪を積んでおけば大丈夫だと思っていました。これが間違いで、そのために実験の輝かしさが随分と失われました。

はじめ搭乗者たちは喋ったり眼前の美しい光景を眺めたりするのに夢中でした。そうして感動している間にも、火は弱くなり気球は下がってゆきました。囲い地の観衆も、気球が地面に着きそうだと思っていました。しかし下降しているのを知った搭乗者たちは火を強め、すぐに上昇したのが観衆にも見てとれました。観察者たちの記録では、最も上がったところで506トワズでした。もっとも、空の「アルゴナウタイ」は(あらゆる己惚れを捨てて)この計算を少し疑っています。確かに「測角器」と「正弦表」による高度な考察は何にも劣りません。とはいえ、時間を決めて送った合図は見えなかったでしょうし、観察者のひとりは諸事情により厄介な体勢を強いられてほぼ垂直に観察していたようでした、それに「ニヴォレト」や「グラニエ」の尖峰、「シャファルドン」の岩山を眼下に見たことを思い返せば、(さしあたりその山々の標高が測られるまでは)506トワズよりもっと飛んでいたと考えます。この問題に気圧計は役立ちませんでした。メーストル士爵が「君は観察に専念してくれ、ぼくが火を焚くから」と言うと、ブラン君は「駄目だ!気圧計を壊した」と言うのです(気圧計はひとつしか積んでいなかったのですが、どうか何も言わないでください!)。相方は「こっちは熊手の柄を壊したところだ」と応じました。

これが重大な不都合で、柴をそっと火にくべるのではなく投げ入れる破目になり、燃焼装置は駕籠の端から突き出たところにあるので、哀れな若者は手こずって上手く行かず、3束の柴を失いました。

気球が飛んでいるとき、離陸に居合わせる勇気のなかったブラン君のお母さんが、たまたま通りかかった場所で空に浮かぶ気球を目撃し、「ああ!神よ!もう愛する息子に会えないのね!」と叫びました。母はすぐに息子と再会しました、ふたりのパエトーン〔太陽神ヘーリオスの息子、ヘーリオスの戦車で天界に昇ろうとしてゼウスの雷に打ち落とされる〕にはもう燃料がなかったのです。念のため、かの有名な物理学者ド・ソシュール氏〔Horace-Bénédict de Saussure〕に従って、搭乗員の数を2人にまで減らしました。網は取り除かれ、桟敷席は軽量化されました。燃料を充分に増やせたのです。柴束の嵩に惑わされました。ほとんど唯一の失敗でしたが、それが重大だったのです。全く無傷の「気球」が地面に着かざるをえないことに怒った搭乗者ふたりは、燃やせるものを何でも燃やしました。油を浸みこませた紙玉、大量の酒精〔エタノール〕、ぼろ切れ、たくさんの雑巾、紙屑籠ふたつ、水を入れていたバケツふたつ、全て火に投げ込みました。それでも気球はあと25分しか浮かんでおれず、シャルの沼地の端に落ちました。離陸地点から直線距離で半里のところですが、航路を確かめたら2倍か3倍は回り道しているに違いありません。ブラン君は機体の総重量と浮力について細目に亘って記録を欠かしませんでした。この詳細は、気体の希薄化は1対2の割合であるという仮説を覆すことを、おそらくたくさん立証するでしょう。しかしわたしは、それについては申しません、相応しい肩書の者の領域を引っかき回したくないのです。

これがわたしたちの「気球」の忠実な物語です、面白いものでしょう、見事に作られ、驚くべき速さで上昇し、搭乗者たちは合わせても44歳で、冷静かつ聡明に操縦され、少しも傷つかなかったのですから。しかし貴方は、これが何の衒いもなく書かれたものであることもお分かりでしょう。わたしは自分たちが面白いと思ったことだけを書き、わたしたちの同郷人に対してのみ語りかけています。もしこの紙が風で国境の外へと運ばれたら(そんなことは全く望んでいませんが)、わたしたちが興味深い実験を二度行なったことは分かるでしょうが、他人と同じくらい上手くやったからといってわたしたちが何らかの栄誉に浴することはないでしょう。

気球が着陸するや否や、全速力で駆けつけた四輪馬車が搭乗者たちを連れてゆき、皆も後に続きました。ビュイッソン=ロンに戻ったのです。ふたりの若者は壇の上に立たされ、皆に紹介され、祝われ、スヴァン伯爵夫人やモンタイユール男爵夫人やモラン夫人から冠を授けられ、「案内」で約束したことを素敵な顔で返してもらいました。また馬車に乗りこみ、ふたりの若い軍人が馭者をどかせて手綱を取りました。注目すべきはガラティ士爵で、作りものの立派な口髭をつけ、搭乗者たちの馬車を運転しました。歓喜、感激、よく分からないけれども心地よい熱狂がありました。幸せな一行は、リボンや葉飾り模様に彩られ、太鼓や楽器の鳴り響く街に入りました。口々に「栄誉」が語られましたが、搭乗者たちはそれを嫌ったようでした(他のところで見つけるのでしょう)。寄付者も含めてあらゆる身分の人々が大勢で馬車に駆け寄りました。まずは並んでメーストル士爵を見送りました、25歳の老人ふたり〔原文ママ。弱冠20歳のメーストルよりも年上だと言いたいのか〕が彼を馬車から引きずり出し、彼の父である元老院議長のもとへ連れて行きました。言うまでもないでしょうが、この優しい父親は既に気球の離陸や安着を伝えられていたのです。それから皆でブラン君の家へ行きました。残念ながらお父さんは留守でしたが、母がいれば愛情に欠けることはないでしょう?ブラン君のお母さんは、息子にも勝るものを得ました。皆に称えられ、抱擁され、とりわけ母の喜びを考えずにはおれないご夫人がたに祝福されました。

ああ、偉大なる神よ!母の心とは
あなたの素晴らしき御業だ。
〔アルノー・ベルカン『認められた潔白』Arnaud Berquin, L'Innocence reconnue〕

ブラン君の家のつぎは知事閣下の家へ行きました。ご夫人がたが知事に搭乗者たちを引き合わせました。知事は快く迎え、とくにメーストル士爵には休息を取って気兼ねなく連隊に合流できるよう2日間の猶予をくださりました。

こうした紹介に続いて90人の食事会が開かれました。「宴」の一体感、楽しくも騒がしい兄弟のような陽気さは、とてもお伝えできません。イギリスふうの活気が溢れていました。思い出せる限りでは、これが「乾杯」の次第です。

この完璧な祝宴に唯一欠けているシュヴリュー士爵に、
ふたりの搭乗者に、
このお祭りに間違いなく最も重要な「素材」を与えてくれた元老院議長メーストル伯爵およびブラン夫妻に、
寄付者に名を連ね、搭乗者のひとりには2日間の休みまでくれた知事閣下に、
今朝の素晴らしい光景を、それに続く楽しみを可能にしてくれた、天才モンゴルフィエ兄弟に、
おそらく善意で「案内」を書いてくれた作者に、
搭乗者たちを助けようと最初に駆け寄り、最初の「騎士叙任式」を与えてくれたご夫人がたに、
シャンベリの気球に真の愛国心から興味を寄せてくれ、この席にも喜んでお迎えすることとなった、ピエモンテ竜騎兵連隊の少佐サン=ジル伯爵に、彼とその隊の士官たちに、
良家の馭者であり祝宴の主催者である、お祭り気質のガラティ士爵に、

するとサン=ジル伯爵が静かにするよう言って、「ニヴォレトの隠遁修士」に新鮮な水で献杯しようと提案し、一座は大いに沸いて受け入れました。

食事が済むと、一行は整列してモンメリアンの下町の入口へ向かいました、そこでも会食する予定だったのです。出発のときのように仰々しく2台の荷車に気球を載せ、鳴り物入りでイエンヌの庭園に降ろしました。再度シュヴリュー士爵に敬意を表しました、ひとときも彼のことを忘れはしなかったのです。

楽しい一日は盛大な舞踏会で気持ちよく締めくくられました、親しいひとたち皆が集まっていました。たびたび狼藉に水を差されつつも、素敵な集まりは朝6時まで続きました。オーケストラの上には、やはりシュヴリュー士爵の文字がありました。搭乗者たちは最初の対面舞踏のあと踊りに加わり、スヴァン夫人とモンタイユール夫人によって紹介されました、午前中ふたりを迎えに来てくれた夫人がたです。何度も「騎士叙任式」が行なわれ、ふたりは空から降りてきても地上でまた楽しめるのだと知りました。どの口にも笑みが浮かび、皆の心に喜びがありました。めいめい物理学と狂乱への敬意を胸にして別れました。

わたしたちの宴会に満ちていた一体感や喜びや節度の大部分は、あちこちに顔を覗かせて注意深く巧みな気づかいを見せるラ・ペルーズ伯爵とラ・セラ男爵のおかげであることを、貴方にお伝えする喜びを欠かしては終われません。

まだ筆の赴くままに書き進み、皆の名前を挙げたいところですが、総括として搭乗者たちが皆に大きな借りを作ったということだけ述べるに留めねばなりません。ふたりの受けた優しい心づかいは、この上ない深い感謝の念を起こさせたことでしょう。才能を引提げて異国へ行くブラン君は、たびたび「気球の日」を思い出すでしょう。搭乗者のひとりは一家にふたつの祖国があるけれども、たくさんの親切の証とともに一家を称えようとしてくれた国のほうに急いで忠誠を誓うことでしょう。

さようなら、親愛なる伯爵さま、この愛国的「無駄話」をお許しください、どうか変わらぬ信頼と優しさでわたしを信じてください。

いつでも貴方のために
於シャンベリ、1784年5月8日

(訳:加藤一輝)

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