"私自身"の認識について。私と他者と本当の私について。
この記事は私の思考の途中段階のアウトプットであって、完結した内容ではありません。
また、表現が相応しくない場合や、そもそもの認識違い等あるかもしれませんが、今後その都度修正しながら更新していく予定です。
今後、自分が今考えていることを忘れないように、図式化したメモなんかもいれてみようかなとか。
私が、LGBTの人が言う"自分という存在はココにあるのに、それでは十分でなくて、存在に対して説明が必要ということが歯痒い"という主張に共感できるのは、私がセクシャルマイノリティだからとかではなく、自分自身について、他者によって作られた人格や、自ら押し殺した人格によって、自分という存在が誤解を受けるということが、頻繁に起こるからだと思う。
"自分自身を他者に決めつけられる"ことは日常であり、何かしらのマイノリティに属していなくとも起こってしまうことで、私個人としては何よりも辛いことなのだ。
そもそも本来の人格"である私"(私①)と、他者が認識する"私"(私②)には食い違いがある。そして他者と関わり続ける以上、私①と私②は自分と他者の間で共存してしまう。
問題は、他者の求める私②の方がわかりやすい場合が多いこと、そして他者との衝突を避けるため、自ら私②を演じることで、本来の人格である私①を自ら否定してしまうことである。
私②は他者が作り上げた人格なので、他者によって共有される限り、それなりの地位を持った人格になり得るが、私①は自分自身の内側にのみ存在する、非常に脆く儚い人格なのだ。
では誰が私①を守ることができるのか。
私①を守ることができるのは、勿論"私自身"だ。簡単に言えば、自己啓発本で頻繁に言われる"自分を愛しなさい"だ。
では私②が私①にとって代わられた場合、私①はどこへ消えてしまうのか。そもそも私①は本来の人格なので、消えてしまうことはないとすると、私①はどこへ行ってしまうのか。
それはきっと、本当はどこへも行っておらず、ただ自分の中、奥深くに隠れてしまうだけなのだと思う。
演じることによって、自分自身が作り出した"他者の求める私"、すなわち私②が、まるで脂肪のように私①にまとわりつき、見えなくなってしまうだけなのだろう。
串揚げという料理が、何を揚げても総称して"串揚げ"と呼ばれるものの、衣の内側にはそれぞれのもつ素材の味が隠されているように。
とはいえ、「本当の私は私②ではなくて私①なので、皆間違えないように」と言うわけにもいかないし、他者が私①を正しく認識してくれるはずがない。
(後で述べるが、そもそも自分自身が正しく私①を認識できているとも限らない。)
冒頭に挙げたLGBT(仮に同性愛者)を、今の話に置き換えてみる。
本来の人格はあくまで"自分"(私①)であり、他者によって作られる人格は"同性が好きな子"(私②)となる。
私②について、実際に他者の認識は直訳的には間違えてはいない。
ただその説明に含まれる客観的なニュアンスが、どうも私①とは異なってしまう。
私①は、それが疑いようのない自分自身のこと=主体であるとして、
私②は、「あの子の特徴と云えば、周りとは違うセクシャリティを持っている子」というように、他者同士で共有している常識をもとに、自分達と比較するように、客観的に認識された私=客体なのだ。
そもそも他者の言う"常識"とは何か。
なぜそれが"常識"となるのか。
それは他者たちの属性が"たまたま"マジョリティ側だっただけではないのか。
LGBTという"呼称"は、マジョリティでない証であり、そうでなければ、なぜヘテロ的セクシャリティを持つ、このメモを書いている私への呼称が存在しないのか。
人間は"自分たちとは異なる"と感じるものに対して、マジョリティと差別化するために呼称をつける。
それはまさに呼称と称した"レッテル"であり、それを彼らの言うところの"マイノリティの人たち"に突き付けることで、突きつけられた側の人間に"自分は他者とは異なっており、普通ではない"という認識を植え付けてしまう可能性がある。
レッテル効果なんて言葉があるように、人に対してレッテルを貼ることで、その人をその気にさせ、ある種洗脳することすら可能かもしれない。
実際、LGBTの人たちが自ら「LGBTに認知を」と言うのは、ある種の自虐のようなものになっていることに気付いている人がどれだけいようか。
本来、自分たちを他者同等と考えるならば、あえて自分たちに貼られた呼称を自ら名乗る必要などないはずであるが、他者の"常識"から生まれた呼称を名乗ることで、その"常識"すらも植え付けられ、与えられた呼称でしか自分たちを形容できないという負の連鎖に陥っているように思えてならない。
私は私だ、皆と同等だと唱えるなら、呼称を使用する必要はない。
なぜそれができないかというと、前述の通り、私の主体である私①は、他者の認識の介入しない純粋な人格であると同時に、自らの内側にある私①を自分で認識すること自体非常に困難であるからではないか。
私たちは"私は私"と言う割に、その"私"のカタチを他者を通して見ることでしか確認する術がないのかもしれない。
"他人は自分の鏡"とはまさに言い得て妙である。
(断っておくが、私はLGBTと呼ばれる人たちに対して否定的な立場ではないし、正直LGBTという呼称にも抵抗があるが、そう称さなければ彼らにフォーカスを当てられないという現状があることも理解している。)
ここでさらに、自らによって説明される私の人格を、仮に私③としよう。
他者によって説明される私②も、自分自身で説明しようとする私③も、他者の認識に基づくものであるとすると、私①は誰が認識してくれるのか。
私②同様、私③も自ら認識しようとする、説明しようとするという意味では客体的人格なのだろう。
たしかによくよく考えてみればわかることである。
自分で私はお人好し、私は頑固もの、私は臆病者と思っているその評価軸も、他者から言われた認識であったり、他者と自分を比較して「あの人より私は、」と感じているだけにすぎない。
私は自分のことを、正しく主観的に認識することはできないのではないか。
そもそも"説明"や"認識"というものは、物事の側面を捉えることであり、全貌を理解することとは異なると思う。
言葉で理解をしようとすると、どうしても本来の意味の全てを表現できないのだ。
言葉は便利だが万能ではないということかしら。
これまでの見解から、私が考える自分と他者との関係はこうだ。
本当の私である私①というのは、実体を持たず、形容のしようがないフワフワとした存在であり、自分自身で私①を説明した私③が外殻のように働き、形のない私①にわかりやすい形を与える。
私③は私①の器であるとも考えられる。
それと同時に他者が私③を部分的に認識することで私②という人格が発生する。
私②と私③の間には前後関係はなく、相互関係にあるということだろうか。
端的に言うと、私①に形を与えてくれるのは私③であり、私③を知覚するためには他者の中に映る自分を認識する。そして他者の中に映る自分である私②は私③を断片的に知覚した姿であるということである。
すなわち私①に形を与えるためには、他者の存在が非常に重要であるということではないか。
他者と関わることは、自分を誤認識されるし傷つくことも多い。
ただ、他者との触れ合いを拒めば、自分を知覚する術も失ってしまう。
確かに自分に対する誤認識もなければ、自ら演じる必要もないが、自分自身が分からなくもなる。
勿論自分自身、本来の自分の人格である私①を知覚することも出来ず、魂だけがそこにあるような、フワフワとした精神の塊になってしまうのではないか。
初めの話に戻ると、では一般的にLGBTやマイノリティの立場とされる人達が、偏見や差別なく生きるためにはどうしたら良いのか。
勿論そんな問いに私が正解を出せるわけないのだけれど、真実はいつだって分からないもので、
いくらマジョリティ、マイノリティとレッテルを貼ろうとも、その認識が正しいものではなく、自分が都合の良いように導き出した一つの回答であるということ。
そして全ての認識は自分勝手に世の中を見ているだけの偽りなのだと思うと、少し腑に落ちやすくなるかもしれない、と。
そしてこれはあり得ない理想論だけれど、"みんな違ってみんないい"的な、普通という概念がなくなることで、初めて全ての偏見がなくなるのではないか、と。
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