[岩下壮一] 律法の完成者イエス・キリスト

聖書では、イエスとファリサイ派の討論が様々な形で繰り返されています。

ファリサイ派の人々とは、どんな人々だったのでしょうか。

また彼らに対して、イエスは何を説いていたのでしょうか。

岩下壮一神父の文章を読んでみます。

「イエズスは律法の廃棄者ではなくて完成者である。彼の反対するのは律法その物ではなくて、律法の勝手な解釈が産み出した弊害である。・・・イエズスを難詰した律法家等は民衆の上に多大の勢力を振い、宗教的指導者の地位にあった。おそらく彼等は既に当時に於て、現代の法曹団や医師会等に近き一種の団体を組織していたのであろう。少なくもかかる団体意識は確に存在したのである。だから彼等の団体に於ける正則の課程を踏まずに人民教化にたずさわれるイエズスは道場破りをした訳である。彼の生い立ちを知っていた故郷の人達は彼の智慧と奇蹟とを感嘆し乍(なが)ら、「彼は職人の子に非ずや」(マテオ一三ノ五五、マルコ六ノ三)と云って彼に躓(つまず)いていた。実際律法学士の職能は特殊の教養を必要としたのである。唯(ただ)徒(いたず)らに聖書を誦したのでは勿論(もちろん)足りない。パウロにとってすらイエルザレムで育ち、「先祖の律法の真理に従いガマリエルの足下に教えられ、律法の為に奮励した」(使徒行録二二ノ三)のは誇りであった。・・・パウロはイエズスと違って律法学士としての正則の教育を受けたのである。それは旧約聖書に録されたモイゼの律法のみならず、ファリザイ人の伝統が之に附加した繁雑な歴史的注解(Haggada)や、儀式及び決疑論的解釈(Halacha)を包括した。・・・それとても主は人の伝(つたえ)なるが故に守るのが悪いとは申されなかった。かかる第二義的な形式や外観に拘泥して、「己が伝」を守る為に神の掟を廃する価値顛倒と偽善とを攻撃し給うたのである。神の掟たる律法に至っては一点一画も廃(すた)らず、反って完成さるべきものであった。」(岩下壮一『信仰の遺産』(岩波文庫
P.370-372))

ファリサイ派の律法家は、当時の社会において、現代の弁護士や医師のような立場にあったようです。

弁護士や医師が、何年もの学業訓練と、難関の国家試験を突破して得られる高度な資格であり、それゆえ社会的ステータスの高さとそれに伴う特権が一般に承認されているように、ファリサイ派にも社会的特権が一般に認められていたことと思われます。

そして律法家側でも、律法の専門家というその職務の尊さゆえに、自分たちの社会的特権あるいは既得権益を、当然の報酬だと考えていたかもしれません。

イエスも、律法自体の価値を十分認めており、当然、律法専門職の存在自体も非難はしていなかったように見受けられます。

イエスの目には何が問題だったのでしょうか。

ファイサイ派には、こと律法に関しては、自分たちは何もかも「知っている」という自負がありました。そして自分たちのように律法を「知らない」民衆を蔑んでおりました。

自分たちの律法解釈こそが、唯一無二の、あるいは、最上の真理であるという思いすら持っていたかもしれません。

ファリサイ派は、その最上の真理のために、人々を分離・分割しました。

「知っている者」と「知らない者」との分離です。

それは単に知識における区別だけに留まらず、人間の尊厳、社会的生存条件までも差別するにいたる根深いものでした。

そこにイエスがやって来て、ファイサイ派を問いつめます。

「あなた方は何も知らない」「こんなことも分からないのか」等など。

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イエスは律法の廃棄者ではなくて完成者である、と云われます。

どのような意味でそうなのでしょうか。

律法の真理とは、それによって人々を救われる者(知る者)と亡びる者(知らない者)に分割することに最重心点があるのではなく、万人の間に平和と一致をもたらす力(ちから)にこそあるのではないでしょうか。

モーセの律法は、613個の戒律からなると云われています。

ユダヤ教には、それらの戒律全体が、一つの人体を構成するという神秘主義的な見方があります。

キリスト教でも、教会全体を、キリストを頭として信者を肢体とする一つの「神秘体」と見る見方があります。

結局、バラバラになった人々を統合させる力、和合させる力こそが、律法の最重心点なのではないでしょうか。

社会に連帯を取り戻す力を与えることは、律法に限らず、宗教の本質的な機能であることは、社会学的見地からも指摘されていることです。

それゆえ、ここでイエスの云われる律法の完成とは、究極的には「一つの人類」を形づくることに他ならないのではないかと、私には思われました。 


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