[岩下壮一] カトリック神学の精華

一般のクリスチャンにとって、「神学」と聞くと、何やら難しそうな、聖職者や学者といった一部の専門家だけが扱う、縁遠いものという印象があります。

またクリスチャン以外にとっては、神学とは、実生活には何の役にも立たない机上の空論、あるいは、その存在意義すら不明なものかもしれません。
専門家ではないクリスチャンが、神学、特にカトリック神学というものを、その本質(エッセンス)だけでも、簡単に把握することは可能でしょうか。
近代日本を代表するカトリック思想家、哲学者であった岩下壮一神父の見解を探ってみたいと思います。

「キリスト者の魂の義とせらるるは、聖とせられんが為である。成義は成聖の前提であって、成聖は成義の結果である。・・・成聖の状態は、円満無欠且(か)つ無限なる神の内在的生命への参与であるから、その程度は無限にありうる。人は聖より聖へと進んで窮(きわま)る処を知らない。神の絶対聖へいかに近づいても、遂にこれを尽くすことはできない。・・・信者の面々が益〻(ますます)聖に成ると同時に、各自はそれぞれの特殊の賜物を得て、恰(あたか)も自然界の美が紅白紫黄百花絢爛の調和によって発揮さるるが如く、神の完徳も亦(また)、各自の魂にあり余る聖寵をとりどりに分与し給うことにより、その光栄を髣髴(ほうふつ)させ給うのである。成義は肝要であるが、成聖は更に偉大である。成聖の神学こそはキリスト教的生活の神学であり、カトリック神学の精華である。」(岩下壮一『信仰の遺産』(岩波文庫 P.299-300))

人が洗礼によって義とされ(成義)、その後に聖から聖へと限りなく進んでいく生活(成聖)というと、まるで厳格な修道院の生活のように難しく聞こえるかもしれません。
しかし、それは特別なことではなく、私たち一人一人の受洗後の、日々の暮らし、毎日の生活に他なりません。
教会だけではなく、家庭や学校や職場、さらにキリスト教とは全く関係のない個々の趣味の活動までも含めた、生活のすべてです。
この日常生活のただ中で、信者はイエス・キリストに手を取って導かれ、父なる神の下に還っていきます。
それは、信者が自らの自由意志で信仰告白している限り、電車に乗って目的地に着くような、ほとんど強制的な帰還の旅路です。
電車に乗って、駅から駅へと通過していく、そのイメージが、聖から聖へと進んでいく生活と重なります。
その線路には多様な分岐があり、見える景色も多彩の限りを尽くし、人の数だけ、その旅路もユニーク(個性的)です。
旅路には波瀾万丈あるかもしれませんが、結果は約束されているために、根底には安心して、その電車に身を委ねることができます。それゆえ、人は旅を、そして人生を、楽しむことができます。
「成聖」とは、そのような志向性のある日常生活の在り方なのではないかと思います。
そして、この日常の生活空間全体を、イエス・キリストに関連付けて、あるいは教会に関連付けて、改めて考えること、問いなおすことが、神学という営みの本質なのではないかと、私には思われました。
あるいは逆に(世界中あらゆる境遇にある)信者がその日常生活で日々直面する様々な悩みや問題から、イエス・キリストや教会について問いなおすこと、考えることもまた神学であろうと思われます。
その意味では、時代の進展と共に、世界あるいは人間の生活が複雑化すればするほど、客観的な学問体系としての神学もまた、それに応えるために複雑化せざるを得ない、つまりはその道の専門家が必要とされることも、十分了解できることです。
しかし同時に、個々のクリスチャンの日々の生活は、精緻で複雑な体系としてではなく、あくまで、ただ単純に目の前にあるものとして存在しています。
それゆえ、神学の複雑さというのも、普通の信者が直面する単純な現実あるいは生活実感に、ピンポイントで分かりやすく応えることが出来るための複雑さであるべきだと思います。
あたかも名医が、人体の複雑さを知り尽くしているがゆえに、最も単純な方法で患者を治療することができるように、カトリック神学もそのようなものであって欲しいと思います。
 

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