[井筒俊彦] コスモスとアンチコスモス

井筒俊彦(1914-1993)はイスラーム学者、東洋思想学者として著名であり、また語学の天才としても話題に上ることの多い存在である。

その井筒俊彦が書いた文章の中に「コスモスとアンチコスモス」という講演録(講演原稿)がある。それは「井筒俊彦全集第九巻」に収められているが、特筆すべきは本全集には、この講演音声のCD(約1時間)が付属していることである。

文章としては以前読んだことがあったが、井筒の肉声を聴くのはこれが初めてである。そしてやはりというべきか、著者本人自らの語りには、意味の広がり、深みが、いわば立体的に再現されるかのような印象があった。 巻末の月報によれば、井筒は、ほぼ一年の歳月をかけてこの公開講演の準備をしていたという。

 井筒は言う。(以下、全集第九巻 P294 梗概より抜粋)

・・現代はカオスの時代である、と言われている。カオスの時代ということは、存在秩序構造としてのコスモスが深刻な危機に直面していることを示唆する。そしてそれがまた、現代文明そのものの危機の真相でもあるのだ。

・・西洋思想史的には、「カオス」は、その概念発展過程の最初期においてはコスモス成立に先立つ空虚な「場所」(アリストテレス『自然学』の解釈によるヘーシオドスの天地生成の叙述)、あるいは無定形で浮動的な存在の原初的あり方(「創世記」の、神のよる天地創造譚)、を意味していた。まだ秩序づけされていない、そのような原初の空間の只中に、美しいーギリシャ語の「コスモス」には「美」「美化」の含意があるー調和にみちた有意味性の空間が、コスモスとして現出する、と考えるのである。

・・だが時の経過とともに、カオスは、コスモスを外側から取り巻き、すきあらば侵入してこれを破壊しようとする敵意にみちた力としての性格を帯び始める。このような否定的・破壊的エネルギーに変貌したカオスを、私は特に「アンチコスモス」と呼ぶ。

・・ここまで発展したコスモス・カオスの対立関係は、その後、長く西洋思想の史的展開を支配して今日に至る。わけても、ギリシャ悲劇の神、ディオニュソスの精神を体現するニーチェ以来、西洋思想のアンチコスモス的傾向は急速に勢力を増し、実存主義を経て、現在のポスト・モダン哲学に達する。ジャック・デリダの「解体」哲学、ドゥルーズ=ガタリの「リゾーム」理論に代表される現代ヨーロッパの前衛的思想フロントは、明らかにアンチコスモス的である。

・・コスモスへの反逆、「ロゴス中心主義」的存在秩序の解体、西洋思想のこのアンチコスモス的動向が提起する存在論的、意識論的問題群にたいして、東洋哲学はどのような対応を示すであろうか。

と、井筒はこのような問題提起を行った上で、東洋哲学によるアプローチを試みるのであるが、その内容は長くなるので、ここでは語らない。

ただ、井筒俊彦晩年の仕事、その情熱の向う先を的確に表現していると思われる文があるので、それをここに紹介しておきたいと思う。(以下、全集第九巻 P299-300より抜粋)

・・問題提起を西洋哲学の側にしてもらった上で、それにたいして東洋哲学がどういうふうに対応してきたか、また可能的にどう対応できるだろうか、という形で考えを展開してみたい。

・・東洋哲学に自分の学問的関心の中心を置いてまいりました私の立場から申しますと、このような知的操作を加えることによって、はじめて東洋哲学に新しい活力、新しい生命を吹き込むことができるのではないか、と

・・東洋哲学の諸伝統を過去の貴重な文化遺産としてまつり上げておかないで、未来に向かってその新しい発展の可能性を探り、長く重い伝統の圧力の下に、いささか硬化しかけているかに思われなくもない東洋思想を、世界思想の現場に曳き出して活性化し、国際化に向う現在の世界文化の状況の中で、東洋哲学のための新しい進展の道をきり拓くための一助としたいと考えてのことであります。そして、それによって、古い東洋の哲学的叡智を、現代的に構造化しなおすことが、もしできたなら・・・

このような井筒俊彦の問題意識は、広い意味で東洋哲学的伝統の内部で生まれ育ち、西洋哲学的伝統を持つキリスト教を実存的に引き受けた、日本のキリスト者にとっても十分当事者性のあるものと思われる。









 

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