[岩下壮一] 中世哲学思想史研究

歴史に意味があるのならば、過去の時代とその精華は、現代を特定の視座で照らすに違いない。

西洋中世もまた死せる暗黒時代ではなく、現代に独特の光彩を投げかけている、のではなかろうか。

岩下壮一神父の書を紐解いてみたい。

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中世思潮と現代の思想問題

泰西に於ける中世期の思潮が、ギリシヤ哲学とキリスト教との合流である事は、蝶々するを要せぬ所である。而して此の根本の事実が、中世思潮と現代思想とを離る可からざる関係に結び付ける。又この事実が、中世紀は、古代の後を承けて近世への過渡期を形成していると云う時間的関係、単なる歴史的連絡に基づく以上の意義を、中世思潮研究に見出さしてくれる。現代日本に活きる我々は、勿論ギリシヤ人やローマ人の子孫ではない。或意味からは、特別な東洋文明の潮流の中に育った我等ほど、西洋の古代文化と縁遠い者はないとも云える。現に我々の子供に、四書五経の講釈をきかせる事が、彼等の思想を最も健全ならしむる道であると考うる人すらある位である。又我々の多くは、キリスト教に関しては恐らく無関心であるかも知れぬ。それは、民衆を麻痺させる阿片にすぎないと確信している者すら見受ける。それにも関らず、苟も思想を取扱う以上には、其の人の東洋人たると西洋人たるとを問わず、其の信仰の如何に関せず、ギリシヤ哲学とキリスト教とを度外視することのできぬ理由がある。此の両者は、人類が考え始めて以来出来上がった、それ自身に充足せる他に比類のない世界観であって、その他にも深遠なる思想は之を随所に発見する事ができるにしても、何れも云わば断簡零墨であり、現代人の理性の要求する程度にまで統一せる体系をなしていない。のみならず此の二者とは系統を異にする思潮すら、此の二大世界観の内容を構成する何物かの形に於いて、或は其の内容と何等かの関係を有するの故を以て、現代思潮と交渉してくるのである。たとえば、日本の知識階級の間で、純粋な宗教的の信仰としては論外であるが、思想として、仏教的世界観と近世ドイツの唯心論哲学思想とを峻別するのは、かなり困難なことであろう。猶このほかに支那哲学もあり、回教的世界観もあろう。何れも過去人類の思索乃至は体験の貴重なる遺産として、研究に値するものたるは云うをまたぬが、現代思想界の戦いは、これらのものの周囲に戦われているのではない。煎じつめた所日本に於いてすら、戦いはギリシヤ哲学的考え方とキリスト教的傾向との間に、行われているのではあるまいか。かく云うのは、勿論現代日本人が、プラトニストたらんか、クリスチャンたらんかの岐路に立っているなぞの意味ではない。我々の大多数は、ソクラテスをもパウロをも超越した気でいるか、若しくは、超越せねばならぬと意気込んでいるに相違ない。既にすぎ去った彼等の立場を克服して、より高き所への飛躍を試みつつあるとの自覚を有するのであろう。それにしてもヘーゲル哲学の術語をかりて云えば、ギリシヤ哲学とキリスト教とは、少なくとも挙揚せられたる要素として、自分等の新しき世界観を構成するに違いないと云う事だけは、暗々裡に認めていることと思う。ギリシヤ哲学とキリスト教とは、現代に於いて思考する者を、必然的に条件付ける云わば二大範疇である。これを度外視しては、現代人の世界観は、如何様にもあれ、到底成立し得ないのである。今後とても、背教者ユリアノ皇帝の跡を追うて、死せるオリンポスの神々を蘇らしめんとする浪漫者(ロマンチーケル)は絶えぬことであろう。所謂「福音の世俗化」を慨嘆して、原始キリスト教へ帰れと疾呼する若き預言者達も、続出する事であろう。或は排他的に、古神道乃至は仏教主義に立籠って、奮戦する剛の者もない事はあるまい。乍併、思想の流れのつづく限り、ギリシヤ哲学とキリスト教との魅力圏は、歴史的にも論理的にも彼等を包囲して、遂に其の圏外に出づる能わざらしむるに至るや必定である。これギリシヤ哲学は、人間理智の必然の要求が最も組織的に作り上げた思想体系であり、キリスト教は、理智によって洗練せられたる宗教的要求に与えられた規範的世界観であるからである。彼も是も、人間本性の最も深き所に根拠を有するが故に、永久に人類の思想を支配すべしと云うのであって、必ずしもギリシヤ哲学以外の思想体系を貶し、キリスト教以外の信仰を排斥せんとする偏見に基づくのではない。我々が此の二つの思潮から将来も離れ得ないと云う事は、過去の歴史によって条件付けられている人類の理智的及び宗教的要素が、論理的にもこれに繋がれているからである。

(岩下壮一『中世哲学思想史研究』岩波書店 P.1-4 ※一部仮名遣いを改め)
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ギリシア哲学とキリスト教、現代自然科学・社会科学の時代から見れば、いかにも古い思想である。

しかし、もしそれを現代人が、特に日本人が、血肉にすることができたならば、現代のような閉塞的な状況においても、それを俯瞰する視座を持つ、肯定的な言葉を産み出していくことができるかも知れない。

ギリシア哲学とキリスト教は一つの世界観であるがゆえに、そこから生まれる言葉には、世界を創り上げていく、或いは世界像を書き換えていく可能性が秘められている、と思われる。

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