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#ネタバレ #名探偵ピカチュウ 「ピカチュウを返して、返してよーッ!」

※この記事はネタバレ満載ですので、映画をご覧になるか又は覚悟を決めてからお読みください。
※それと、呪詛成分も多量に含まれています。

私がこの映画に対して言いたいことは、突き詰めればたったひとつ。

「なんでピカチュウの中にパパ入れたの?」

これに尽きる。

親子の和解の物語であるというのは、まあいい。まあわかる。

しかし、

僕とピカチュウだけが(人間とポケモンの間で)会話できるという特別感も、
共にハリー(パパ)を救おうという誓いも、
「パートナー」という大切な呼び名も、

全て、すべて、最後に奪われた。

パパは大切な人だ。だけどパパはピカチュウじゃない。
(この「ピカチュウ」は種族名じゃなく個体名で、つまり「ハリーまたはティムのピカチュウ」のことだ)
パパとの冒険は、パパのパートナーとの冒険じゃない。
この映画は、ピカチュウと絆を結ぶ物語じゃあ、ない。

この映画のポケモン描写は素晴らしい。
私は赤緑金銀と『ミュウツーの逆襲』と『電撃!ピカチュウ』しか知らないし、さほどポケモンに対する思い入れが強いわけではない。
しかし、「カビゴンが寝ている隣で交通整理してるカイリキー」には噴いたし、冒頭の映像で示された「野生動物としてのポケモン」に続く、「社会に溶け込んだポケモン」の表現には唸らされた。

AV(アニマルビデオ)ならぬ、PV(ポケモンビデオ)としての本作は、大いに満足すべき出来であったというべきだろう。
純粋な映像表現としては。

しかし、「トレーナー」という存在を否定し、「パートナー」という関係性すら必要としない、舞台となる都市ライムシティが、結局のところ人間のためにポケモンを利用せんとする野心の産物でしかなかった件については、どう落とし前を付けるのだろうか?
本作は、人間とポケモンのあるべき関係を提示することに失敗している。というより、その意思すらないように思える。

ミュウツーは、人間は基本的に悪だが例外もあると言った。
その数少ない例外がハリーとティムであったことは疑いない。だがそれは、いかなる基準によるものだったのか?
人間の都合、身勝手によって生み出されたミュウツーが人間を憎むのは当然かもしれない。だが「ポケット」モンスターとは、そもそもモンスターボールという人間の都合で括られた存在に過ぎないではないか。

ヒロインであるルーシー(クッッッソ可愛い!)は、報道機関の記者であり、その目的は特ダネ、つまりは出世だ。
社会正義を追求する責任感は一応あるようにも見えるが、ポケモンはブログは勿論、新聞もテレビも見ない。
ルーシーの正義は人間の正義であり、コダックの存在感は完全にペットだ。
ポケモンの映画において、こんなヒロインがかつて存在しただろうか。
巫女にしろとは言わないが、ポケモンとの真の共存を理想とするくらいあってもいいんじゃないのか。

本作における渡辺謙の役所は、ティムに父の事故死を告げる警察署の副署長だ。
ゴジモス最大手と比べて言うわけではないが、キングオブジャパニーズコンテンツたるポケモンの映画において、唯一の日本人役者が演じる役として、「オーキド博士」以外の選択があるとは思わなかった。オドロキだ。
非テクスチュアルメッセージとして、ケンワタナベの語りに伴う「圧」が上乗せされていることを否定する人は少ないだろう。
そしてここキャラクターの持つ意味はほぼひとつだけ――父と和解せよ、だ。
(事件を闇に葬ろうとする者たちの一味に見えなくもなかったがこれはミスリードだった)
いいか、よーく、よーーく考えてみろ。ケンワタナベがロクにポケモンの話をしないポケモン映画って、ありえないでしょ。

本作には、人間とポケモンとのポジティブな関係性を「提唱」するような人物(ポケ物)は、全く登場しないのだ。

いや、ひとりだけ可能性のある人物はいた。ティムだ。
本作の最高のシークェンスは、バリヤードに対する尋問に他ならないだろう。
なぜならあれこそが、主人公ティムが、「言葉が通じない」ポケモンを理解し、コミュニケーションを取ろうとした、その最たる姿だからだ。
言葉が通じないのはもちろんのこと、バリヤードは鳴き声さえ発しない。
(ちなみに、パパチュウが明確に他のポケモンと「鳴き声で」会話しているシーンはない。種族が違うからか記憶がないからか、色々考えたが結論は「人間だから」とせざるを得ないな)
そんなバリヤードに対し、ティムはパントマイム、つまり「バリヤード語」で尋問を試みる。
その内容そのものは、バリヤードが閉じこもる部屋に(ドアを作って)押し入り、彼にガソリンを浴びせた上、部屋の外までガソリンの道を作って遠距離からの起爆で脅しをかけるという、とんでもないポケモン虐待なのだが。
だがこれは、間違いなくバリヤードと共に築き上げたシットコムだ。
そもそも、バリヤードは逃げるよりムーンウォークを披露することを優先したし、パントマイムを具象化するのはバリヤードの能力であって、ティムがバリヤードを爆破するなど不可能なのだ。
(だからティムがうっかり「ライター」を落としても爆発音はしなかった。バリヤードはスローモーションで吹き飛んでくれたかもしれないが)
つまりバリヤードは、脅しに屈したという体で、ティムの「バリヤード語による聴き込み」に応えてくれたにすぎない。

この時のティムは、「相手のことを理解しようと歩み寄れば、自分と異なる存在とだって分かり合える」というテーマを体現していたと言っていい。
だが、このテーマはふたつの問題によって破綻する。

ひとつは、前述の如く、ピカチュウがピカチュウでないこと。
もうひとつは、ティムのかつてのアイデンティティである、「ポケモントレーナー」に関する解釈の放擲だ。

ティムはかつてトレーナーを目指していた。大会にも出ていたようなので、当時のパートナーはいたはずだ。
だが、母の死、仕事に逃げ込んだ父との確執があり、いつしかティムはトレーナーへの道を諦めた。
なんか不分明な書き方だが、実際こうなのだから仕方ない。「親に褒められたくてやっていた」とか説明が付けられなくもないが、推測の域は出ない。
(最初私は、探偵というやくざな仕事に没頭する父への反発から硬い仕事に就いたのだと思っていたが、これは読み違えだった。だったんだよ)
ハリーが用意していたティムの部屋にはトレーナー関係のポスターがあるが、これはかつての子供部屋を再現しただけで、改めてトレーナーを目指して欲しいというつもりはないはずだ。
(でなければ、探偵でもやろうかと言われて喜ぶはずもない)

つまり、ティムはポケモンに関わる「生き方」を、取り戻しも手に入れも、整理すらしていない。
本作で描かれた「歩み寄り」はハリーからティムへのそれであり、そしてティムは「異なる者」どころか、自ずから想い出と目的を共有しうる、血を分けた息子だ。
(だからこそミュウツーはティムを、「ハリーの息子」を呼んだのだ。「ハリーと同じく」善なる者として)

ティムのトレーナーという生き方へのスタンスが昇華されないことは、ライムシティという舞台が昇華されないことと表裏一体の問題だ。
なんとなれば、ライムシティの、ひいてはこの世界・この時代の特異性とは、トレーナー否定だからだ。
「これ、誰のベロリンガですか?」という問いに、ポケモンは「誰の」でもないという答えを突き付けたライムシティ。
アニポケにおける、「モンスターボールに入らないピカチュウ」という長年のテーマに正面切って挑戦状を叩きつけておきながら、そのオチは何事もなく続いていくソドムシティだ。
そもそも、ゲームに登場した「トレーナー」の中にも、例えばシロナのような、強さではなくポケモンと寄り添う生き方を求めている「大人」はいるではないか。
何をどう考えたって、この筋立てでティムがパートナーポケモンを得ない意味がわからない。

極め付けに、ティムはパパチュウとすら、コンビらしいコンビを披露していない。
パパチュウがパパチュウゆえに技を出せなかったスタジアムはともかく、研究所潜入からラストバトルは、あからさまにナード系のティムが逞しすぎて、ほとんどスパイアクションめいていた。
(なぜか急に電気袋が目覚めたパパチュウのアクション自体は素晴らしかったが、劇場版ゲストポケモンめいた単騎足止めムーヴなのだ)
一応、ティムにボルテッカーが最強と言われたのが後で効きはするのだが、どの技が強いかも知らないのにアレ反動が痛いとか言ったりして、会話そのものがしっくり来ない。
(子供にゲーム教えてもらうパパしぐさをやりたいように見えるが、そもそもハリーはピカチュウのパートナーだろう)

どっちかといえば、ルーシーとのバディ映画という印象の方が強いのだ。
だが、ティムとルーシーは、目的を共有しているようでしていない。
まあそれ自体は利用し合う系バディとして解釈もできるが、明確に「手を結ぶ」シーンすらないのはどうか。
ティムはたまたま知り合ったカワイコちゃんのケツを追っかけてるだけだとわかるのだが、ルーシー側の感情は「特ダネ」以外伝わってこないので、急に誘えよ感を出されても困惑してしまう。
もうティムガールと吊り橋効果するライトスパイ映画と割り切ろうにも、ルーシーと共に解決すべき「事件」の提示が雑すぎるのだ。
ここでも、「ポケモン」がテーマとして機能していない。

ていうかさあミュウツーさあ、君がハワードにやられたことを、君自身がハリーのピカチュウにやらかしたってことわかってる?
ハリー贔屓が過ぎない? なぜ当然のように人間のためにポケモンを犠牲にするの?
ハリーのピカチュウ自身がどう思ってんのか知らないけどさあ。
(だって描写されてないんだもん)
パパチュウに、ハリーのピカチュウ要素が肉体しかないことは明らかだろう。声優も違う。
ハリーのピカチュウは、ラストシーン以外ハリーに押し込められたまま。
おっさんピカチュウなどというポケ物は、そもそも存在すらしなかった。

本作は、ポケモンの映画でありながら、あまりにも人間ファーストが過ぎる。
その最たる表れが、パパチュウだ。
こういうのはヒトラー呼ばわりめいて良くないとわかっているのだが、私は『けものフレンズ2』(を巡る騒動と言論)を思い返さずにはいられなかった。
もっとも、本作はPV性能だけは抜群に高いので、アレと同列に並べるつもりはないのだが。
だからこそ、これほどの素晴らしいPVを作り上げた者と、このシナリオをやらかした者が同一だとは到底信じ難い。監督と別にポケモン・クリエイティブ・ディレクターがいるんじゃないのか。
これはティム(子供)の物語ですらない。
ハリー(父親)の物語だ。
私が見たかったのは、子供の心を残したままのオッサンであって、子供に擦り寄るオヤジではない。

いったい、ぜんたい、おまえたちは、ポケモンをなんだと思っているのだ。

ピカチュウとの冒険を返せ。
ピカチュウとの想い出を返せ。

ピカチュウを返して、返してよーッ!

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