タイピングと物語の二極分析(5):キーボードは媒介か夾雑物か
これで今までの色々がバチバチバチーンと繋がった感覚があるので取り急ぎ書いている。
ポイントは、アクチュエーションポイント(以下AP)に乗りたいか、打ち抜きたいか。
メカニカルキーボードはAPを通過する
まず、ざっくりとキーボードのスイッチの種類についておさらいする。
各種のキースイッチについては色々と解説記事があるが、今目に付いたのでとりあえずコレで。
ここでは、パンタグラフ式はメンブレン式の一種という扱いにする。キーキャップに対して追加の支持構造を設けたものということだ。
メンブレン式の特徴として、アクチュエーションと底打ちが同期するということが挙げられる。
そもそも接点の一方が底面にあるため、底打ちしなければアクチュエーションしない。
対して、メカニカル式(ここに磁気・光学等の無接点スイッチも含めてよかろう)と静電容量無接点式では、キーキャップに繋がる動作部が上下するエリアの中途に(実質的な)接点がある。
つまり、APを通過してから底打ちする。
僕はMacbookのキーボードやMagic Keyboardをかなり気に入っている。配列やバネのカスタムができないから使っていないが、それができればもうアレでいいと思っている。
理由は色々あるのだが、僕にとってはAPと底打ちの同期が重要だ。これはメンブレン式の特徴ではあるが、中でもMagic Keyboardは強くそれを感じる。(たぶん金属製のドームは要因の一つだろう)
これにより、「今アクチュエーションした」というフィードバックが非常に明確になる。そして、アクチュエーションしたらそれ以上行き過ぎることは決してない。これがイイのだ。
逆に言うと、構造的にAPを通過しないとアクチュエーションしないメカニカルでは、必ずオーバーランが発生する。
配列とかバネ調整とかの関係でメカニカルを使わないわけにもいかないので、だったら反動として利用しよう、というのが踏み打ちだともいえるだろう。
なんてことを考えながら上記記事を読んで、ここで「ああ!」となった。
大岡さんの伸展打法については以前から知ってはいて、合理的であるようにも思えた。しかし、なにかしっくりこない感じがあった。
それは恐らく、APを打ち抜くことが前提の打法だからだ。
あとで再度触れるが、この記事から引用する。
この表現には、アクチュエーションが含まれていないことに着目して欲しい。
身体動作的には語弊アリアリだが、力学的にものすごーーーく単純化すると、振り子でキーを打つようなイメージだろう。
スイング軌道の過程で押し出されたキーが「結果的に」アクチュエーションするのであって、アクチュエーションの瞬間の認識はこの表現からは見て取れない。
つまり、フィードバックの捉え方が違うのだ。
フィードバックの起点は何か
改めて、ビビリフクロウさんのケース実験に関する記事を深堀りしよう。
さんざん僕と大岡さんは対極だと言い続けておいてなんだが、この時僕たちは同じ2のケースを最良としている。
しかし、なぜ2が良いかという表現には微妙な違いがある。
「フィードバックがボヤける」
「リアクションが遅い」
ここでいうフィードバックもリアクションも、「打鍵」に対して「キーボードから返ってくるモノ」を指す点では同じだ。僕はフィードバックと呼ぶ方がよいと思うので以後統一する。
僕が言っているのは、アクチュエーションに対するフィードバックのことだ。
まあ、サンプルキーボードはパソコンに繋がっていなかったので厳密なものではないが、「ここでアクチュエーションするはず」という感覚は確かにある。
それは指が押し込んだ深さの固有感覚でもあるし、メカニカルスイッチでは接点の物理抵抗もある。
もちろん底打ちすれば「とっくに通過したよ」というフィードバックになるわけだが、接点の通過時についても、ガスケットマウントではボヤける感じがした。
つまり僕は、「アクチュエーションへの正確なフィードバック」を求めて2を選んだわけだ。
対する大岡さんは、「衝撃」の返りについて繰り返し言及しつつ、「振動(共振)」をいかに抑えるかということについても述べている。
これは、明らかにアクチュエーションを指していない。
「打つ」という日本語に相当する英語の動詞にはhitもpunchも該当するが、どうもpunch寄りに感じる。拳を「当てる」のではなく「突く」だ。
もちろん空振りでは困るわけだが、「当たった」感覚を強く求めるなら、共振の音楽性を求めてもいいような気がする。
それこそ「発勁」という言葉は「勁(力)」を「発する」ことを指している。勁を伝えることまでは含めてもいいだろうが、喰らった相手がイイ声で鳴くことは発勁に含まれない。
底打ちはいわばサンドバッグで、発した勁を自分で感じるためのものだろう。
つまり大岡さんは、「自らの動作への素早いフィードバック」を求めて2を選んだのではないだろうか。
「踏む」と「抜ける」
僕がキースイッチを「踏む」と表現する一方、大岡さんは「抜ける」的な表現を多用する。
ここで、踏み打ちに関する誤解を解いておきたい。
まず、基本底打ちしてないんですよ。んでもって、上げるんじゃなく、勝手に上がる。
このツリーにウダウダ書いたが、トランポリンに乗った状態を想像してもらうと一番わかりやすいだろうか。
グッと自重をかけて沈み込むと、反動で体が持ち上げられる。片足を踏み込んだら、そっちの足が勝手に上がるだろう。
さらに、同じ手の指同士がつるべの動き(片方を下げたらもう片方が上がる)になるので、別のキーに荷重移動するために手を変形させると、やっぱり勝手に上がる。単純な伸展運動をしていないだけだ。
自力で戻しているわけではないので、深く打ち込むほど次の打鍵が遅くなる。浅さは速さであり軽さ。
この打ち方だと、浅く「踏み込む」ほど軽く戻れる。そもそも深く打ち込むこと自体、力学的にはムダだ。(身体動作的には別の見解もある。後述)
逆に言えば、アクチュエーションの正確なフィードバックが必要なわけだ。
もともとギリギリで沈まずに乗ってられるようなバネに調整してあれば、ごく軽く踏み込むだけでアクチュエーションし、その反動を利用して次の打鍵に移ることができる。
ある意味では、キーキャップというより、APを踏んでいるともいえる。
対する大岡さんは、APを「通過点」的に捉えているように思う。そもそも、スイッチの上下運動に付き合うこと自体ムダというか、不自然と考えているフシがある。
手指の曲線的・立体的な動きの中でキーを捉え、結果的にアクチュエーションさせる。大岡さんの言う「撫で打ち」というのは、キー単位というより、一連の打鍵全体の動きのことだろう。
これなら確かに、スピードスイッチにこだわり続ける必要はない(こだわっていた時期はある)。バネが充分に軽ければ、「0.何mm押し下げるか」ということで、運動そのものは変わらないのだから。
この表現を見ると、アクチュエーション2mmから底打ち4mmまでのストロークをバッファと捉え、その範囲内でスイングするような感覚なのではないか。
さらに、この記事を見ると僕との違いがわかりやすい。
僕もメカニカルのタクタイルスイッチは嫌いなのだが、それはタクタイルポイントとアクチュエーションポイントが構造的に一致しないからだ。
静電容量無接点キーボードは今手元にないのだが、タクタイルのピークが長すぎて、やはり一致しない感じがするんじゃないだろうか。
Magic Keyboardはなんか「粒」感があるんだよね。「点」ではないけど、タクタイルとアクチュエーションが一致している感じがする。
僕たちが揃ってMagic Keyboardを気に入っている理由の一端はそこだと思うが、僕が「一体化していると捉えられればいい」のに対し、大岡さんは「0に近いほどいい」という感じ。
Magic Keyboardをの打鍵感を、大岡さんは「撫で打ち」と捉え、僕は「底打ち」と捉えた。
(僕も突き刺し打ちをしているわけではない。撫で打ちでも必ず底打ちするのがメンブレンだ)
ここに、APで正確に踏みとどまりたいか、自由に抜けたいか、という感覚、思想の違いがある。
文章は前か後か/反応と応答
ここだけ独立した記事にしようかとも思ったのだが。
数日前にバズって、異論反論含めて興味深いことになっていたポストがある。
執筆にも似たような感覚の違いがあると思う。文章が「前」にあるか、「後」にあるか。
ここで述べたリアクションライティングとアクションライティングの違いについて、大岡さんがよい記事を書いてくれていた。
「頭に手が追い付かない」的なことは、書くことをそこそこ真剣にやっていれば大抵経験があると思うのだが、大岡さんの場合はこうなる。
この、「今書きたいものが蒸発する」という感覚、僕には無い。
というと、たぶん、驚く人もいれば、「まあそれはそう」と思う人もいるのではないか。
タイピングの前に書くことが決まっているリアクションライティングでは、蒸発は滅多に起こらない。
蒸発するのがアクションライティング、しないのがリアクションライティング、と表現するとかなりわかりやすいのではないだろうか。
これを踏まえると、先程のフィードバックの捉え方の違いが鮮明になると思う。
眼の「前」の文章を捕まえようとするアクションライティング。
「後ろ」の文章に追い立てられるリアクションライティング。
どちらも向いてる方向は前なのだが、『モデル』はおのれの精神の背後だあ────ッという感覚が僕にはある。
僕の肉体は文章さんの言われるがままに入力するマシーンに過ぎないので、「正確に伝達できている」という応答性が欲しい。
大岡さんの肉体は文章さんを捕まえるために出力(発勁)しているのだろうから、「ちゃんと力が出せている」という反応性が欲しいだろう。
そう考えると、フィードバックの起点に「キーのアクチュエーション」と「肉体の動作」という違いがあることにも納得がいく。
この違いが、キーボードそのものの捉え方にも影響しているはずだ。
キーボードは媒介か夾雑物か
大岡さんはしつこいくらい「字と直結したい」ということを書いている。このへんの記事がわかりやすいだろうか。
手書きが基準になっているので、キーボードはコンドームのようなもんとか言っているのだが、たぶんペンですらサガミオリジナルなのだろう。
ライティングの向こう側にモデルがあるからだ。
対して、僕にはコンドーム的な感覚はない。ただただまだるっこしくてかったるいと思うだけで、それがiPhoneでも手書きでも同じだ。
おのれの精神の背後にモデルがあるからだろう。
そういう意味では、僕は最初からモデルに直結している。
しているのだが、それが優位性かというと違う気がする。
反対側の感覚がわからないので推測になるが、たぶん、モデリングの過程を全部脳内で行わないといけないので、手がかりを掴みづらいとかそういうことではないだろうか。
だからまさりおとりはないと思うが、キーボードに対して求めるものには明確な違いがある。
大岡さんにとってのキーボードはどこまでも夾雑物で、なくて済むならそのほうがいいものだ。
でもそういうわけにもいかないし、どこまでいっても0にはならないので、「抜ける」感覚を求めているのではないだろうか。
コンドームがあるなら、穴を開けてしまえばいい。
僕にとってのキーボードは媒介だ。口述筆記の筆記官みたいなものだ。
素晴らしい! 胸を打つ! ユリウスカエサル! とか合いの手打って欲しいわけではないが、伝わっていることは示して欲しい。ペンの音が聞こえないのは不安だ。
「応答性」と「アクチュエーション感」。このあたりをキーワードに、タイピングを考えてみようと思う。
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