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『分かりませんでしたという論文』景気循環と経済成長の二分法

金融政策の目的

金融政策が物価の安定を1つの目的としていることは日銀法に規定されている通りである。より厳密には、

  • 日本銀行は、通貨及び金融の調節を行うに当たっては、物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資することをもって、その理念とする(日本銀行法第二条)

だ。一般に、不況時には失業率が上昇し、インフレ率が下がるため、金融緩和を行う。投資や消費を拡大させ、需要を喚起してインフレ率を押し上げ、失業率を改善させる。また、好況時には失業率が低下し、インフレ率が上がるため、金融引き締めを行う。投資や消費を抑制してインフレ率を押し下げる。

このような金融政策の役割は、基本的には循環的な景気変動の平準化である。そうであるならば、金融政策は長期的な経済トレンドには影響しないと考えらえれる。即ち、長期的な経済トレンドは技術進歩、労働や資本の成長の速度といった、所謂サプライサイドによって決まる。

一方、必ずしもそうではないという見方もある。経済の需要面と供給面は密接に関連しており、短期の経済ショックが、長期的な経済トレンドに影響しうるという主張だ。この場合の影響は正、負、両方が考えられる。

例えば、金融緩和が研究開発投資を増加させたり、資本蓄積を促進したりすれば、長期的な経済成長率が押し上げられるかもしれない。これは正の効果だ。一方、金融緩和によって資産価格が変動し、資源配分の歪みにつながる場合や、低生産性企業の存続によって経済全体の生産性が低下する場合などは、負の効果が生じ得る。

金融政策の中長期的な影響

こうした「金融政策の中長期的な影響」について、実証的に検証したレポートが2024年11月に日銀から公表された。

詳細は省くが、マクロデータ、ミクロデータの両面から日本の金融政策が潜在成長率等に及ぼした影響を推計したものだ。雑に要約することをお許しいただければ、分析結果は以下のようになる。

マクロデータ(実質GDP、消費者物価指数、日経平均株価、等)を用いた、金融緩和の効果分析。

  • 潜在GDPを押し上げる方向に作用するものの、長期的に有意な関係は確認できない。

  • 潜在資本投入量を増加させる傾向が確認され、これは、設備投資の促進が長期的にも影響することを示唆している。

  • 潜在労働投入を増加させる可能性があるものの、押し上げ効果は一時的であり、長期的には元の水準に戻ってしまう。

  • 潜在生産性を短期的に低下させる傾向があるものの、長期的に有意な関係は確認できない。

ミクロデータ(個別企業の財務データベース)を用いた金融緩和の効果分析。

  • 個別企業の潜在生産性は短期的に上昇する傾向が見られたが、長期的に有意な関係は確認できない。

  • 潜在的な労働、資本の投入量は、低生産性企業ほどシェアを高める傾向があるが、いずれも長期的に有意な関係は確認できない。

分析結果については、モデルリスクやデータ制約などを考慮すべきであり、幅を持って解釈する必要がある。ただ、結論の大筋としてはこのレポートは非常に分かりやすく、要するに「金融政策が長期的な経済トレンドに影響するかどうかは分からない」ということになる。

「分かりませんでした」という論文

個人的な印象だが、こうした結論のレポートが公表されるのは珍しい。いい加減なデータをいい加減なモデルに当てはめれば大体の実証分析は「有意な結論は確認できない」となるものであり、極論すれば「分析したけど分かりませんでした」という論文は無限に書ける。有意性が確認できないという結論では、研究成果としての貢献が認めにくいのである。どちらかと言えば、無理やりにでもデータやモデルの設定を調整し「非常に怪しいけれども統計的には一応有意性が確認できました」という結論にしなければ、アクセプトされにくいように思われる。しかし今回は敢えて、「かなり色々やってみましたが有意な結果は出ませんでした」というレポートを公表している。

分からないことは分からない。これはこれで非常に誠実な態度だと個人的には考えている。特に、日本銀行は本来研究機関ではない。政策をやる以上、リサーチ力は必要であり、研究成果の学術的な貢献が高ければ非常に望ましい。そして同時に、政策運営、判断や実務、更には国民的な議論に資するものであることが重要である。

「多角的レビュー」の落としどころ

このレポートは2023年4月から日本銀行が実施している「金融政策の多角的レビュー」の一環として公開されている。これまでのレポートでは、金融緩和が物価を押し上げ、経済を改善させた、金融政策には有意な効果があったという内容が目立った。そうした中、「長期的な成長率への影響という観点では金融緩和の効果は不明」という分析が今回提示された。

多角的レビューの議論やレポート全体を改めて眺めた上で、結論(があるのかどうかは不明だが)がどのような方向なのか、今回のレポートにも何らかの示唆があるのかもしれない。

余談

深読みが過ぎるようにも思われるが、経済成長とインフレ目標の関係という観点ではどうだろうか。

日銀の2%というインフレ目標は、2013年、政府と日銀の共同声明の中で明記されたものだ。日銀の役割については以下のように記述されている。

  • 日本銀行は、今後、日本経済の競争力と成長力の強化に向けた幅広い主体の取組の進展に伴い持続可能な物価の安定と整合的な物価上昇率が高まっていくと認識している。

  • この認識に立って、日本銀行は、物価安定の目標を消費者物価の前年比上昇率で2%とする。

2%のインフレ目標は、無条件ではない。「認識に立って」という微妙な表現になっている点は興味深いが、いずれにしろこの含意は「前提」であろう。そして、物価目標達成の前提である「日本経済の競争力と成長力の強化」に対し、日銀の金融緩和そのものがポジティブな効果を持つ訳ではない。今回のレポートはこの点を確認している。

果たして、では日銀は2%というインフレ目標とどのように向き合うべきか。「持続可能な物価の安定と整合的な物価上昇率」とは何か。日銀は一定の裁量を(どう行使するかはともかく)既に持っている。

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