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『とても素敵な七月でした』為替と金利と日本銀行のすれ違い

前項で、日本銀行が実施した2024年7月31日の政策変更について記した。
https://note.com/catapassed/n/n59fdb8322b8f

この政策変更についてはその後も様々な論説が見られており、引き続き筆者の考えを述べてみたい。

①円安軽視と第一の力、第二の力

これまで、植田総裁は為替レートについて驚くほど無頓着だった。このスタンスは、「第一の力、第二の力」というロジックにも現れていた。4月の記者会見では為替と物価の関係についてかなりの時間をかけて説明している。以下はその一例だ。
https://www.boj.or.jp/about/press/kaiken_2024/kk240430a.pdf

出所:日本銀行 2024年4月26日植田総裁記者会見

物価の基調が重要であり、第一の力は物価の基調に直接は影響しない。円安は第一の力であり、考慮すべき事項としては間接的だとしている。分かりにくい説明だが、円安は物価の基調とは区別して考えるということだ。

そして、7月の利上げの際には、円安について植田総裁以下のように述べた。
https://www.boj.or.jp/about/press/kaiken_2024/kk240801a.pdf

出所:日本銀行 2024年7月31日植田総裁記者会見

第一、第二という説明は用いず、ここでは「円安はリスク要因」と整理した。実は、4月の時点でもこれとよく似た説明をしている。

出所:日本銀行 2024年4月26日植田総裁記者会見

すなわち、第一の力が基調的なインフレ率に影響する可能性があれば、政策運営上考慮が必要になる。こう見てみると、基本的なロジックは4月も7月も変わっていない。その上で、7月には「円安は物価の上振れ要因として注視する必要がある事項」に格上げされたということだ。

原則論としては、為替レートの安定は財務省の所管事項だ。日銀が円安に表立って配慮しないのは形式上は正しく、「円安が主な理由で利上げしました」とするのはむしろ難しい。そうした中でも、過度にハト寄りな情報発信が為替市場に影響する懸念、またそれを懸念する外圧から、表現の変更に至ったのではないか。

②利上げサイクル入りはいつだったのか?

7月会合で日銀はタカ派に転換し、金融政策の方針がこれまでと大きく変わったという批評が少なくない。実際はどうだろうか。

日銀の情報発信を見ていくと、3月から既に緩やかな利上げサイクルに入っていたことが分かる。
https://www.boj.or.jp/about/press/kaiken_2024/kk240321a.pdf

出所:日本銀行 2024年3月19日植田総裁記者会見

3月時点では特にハト派な発言が多いために目立たないが、植田総裁は、物価目標の達成が見通せるようになっていること、基調的物価上昇率が上がっていけば利上げにつながることを指摘している。

4月の展望レポートは更に明確である。
https://www.boj.or.jp/mopo/outlook/gor2404a.pdf

出所:日本銀行 2024年4月展望レポート 基本的見解

加えて、植田総裁は記者会見で以下のように説明した。

出所:日本銀行 2024年4月26日植田総裁記者会見

中立金利の水準が論点としては残るものの、このやり取りからは、2026年3月までに相応の利上げが進んでいる姿が想定される。ペースやゴールがどうなるのかはともかく、既に緩やかな利上げサイクルに入っていたと解釈すべきだ。

であれば、7月の追加利上げはそれほど大きなサプライズではなかったはずだ。このコミュニケーションが円滑にいかなかった一因は、日銀の過度にハト寄りな情報発信だ。

③日銀は正直だったか?

もとより、円安を背景に、このところの日銀に対する市場の期待はタカ派に寄る傾向があった。しかし日銀は、子細に見れば利上げサイクル入りが読み取れるものの、一見すると非常にハト派寄りなスタンスを強調している。マイナス金利を解除した3月会合の声明文には以下の記述がある。
https://www.boj.or.jp/mopo/mpmdeci/mpr_2024/k240319a.pdf

出所:日本銀行 2024年3月19日金融政策決定会合声明文

推測だが、日銀を慎重にしたのは、長期金利が急上昇することへの恐怖ではなかったか。

そもそも、日銀が黒田前総裁の指揮下で実施してきた大規模な国債買入は、財務省の債務管理政策に横槍を入れる越権行為である。日銀にとっては、既に実施してしまった債券市場への破壊的な介入をどう処理するかという点が非常に重要だった。金融政策スタンスがタカ派と解釈され、債券市場が混乱すれば、これは異次元緩和の出口の失敗に他ならない。組織の体面、政治的な立場から考えても、許容しがたい。従って、日銀は過度にハト派寄りの姿勢を示すこととなった。それが円安を招いたとしても、少なくとも形式上、為替レートは日銀の問題ではないのだ。

結果として、市場と日銀の対話は噛み合わなかった。今次局面の円安は金利差が主因という解釈はほぼ常識と扱われており、「為替レートは日銀の所管ではない」だけでは通らない。そして、長期金利や国債買入れの問題に関心を持つ人はきわめて少数だ。

7月に利上げを実施するにあたり、声明文は比較的分かりやすいものになった。
https://www.boj.or.jp/mopo/mpmdeci/mpr_2024/k240731a.pdf

出所:日本銀行 2024年7月31日金融政策決定会合声明文

4月の記述と比較すると、「不確実性は引き続き高い」が削除され、「引き続き政策金利を引き上げ」が加わっている。こうした分かりやすさの背景となったのは、国債買入れ減額の方針決定が長期金利にほとんど影響せず、減額計画の織り込みがスムーズに進んだことではないだろうか。長期金利の急上昇懸念が弱まれば、出口失敗のリスクは低くなる。日銀がハト寄りの情報発信に傾く必要性は乏しくなり、記述はより正直なものに修正された。そして、この修正がサプライズとみなされたことは、市場との意思疎通が噛み合っていなかったことの証左でもある。

④自分の尾を追う犬?

8月以降の金融、資本市場の変動を受けて、日銀は再びハト寄りに逆回転したという受け止め方もある。実際、2024年8月15日時点のOISのプライスを見ると、1年先までに1回利上げがある確率が7割〜8割といった計算だ。果たしてこの認識は正しいのだろうか。

植田総裁は、2024年3月のマイナス金利の解除、その後の国債買入れ減額決定、利上げと、慎重ながらも着実に金融政策の正常化を進めてきた。異次元の金融緩和によって調節スキームは複雑化し、植田総裁就任時の政策ロジックは破綻していたと言っていい。こうした負の遺産を整理、改廃し、技術的な課題を修正してきた実績をフラットに見れば、植田総裁の政策判断は相応に果断と評価して差し支えないように思われる。今後の経済、市場動向次第ではあるものの、少なくとも現時点では、緩やかな利上げサイクルという基本線は変わっていないとみるべきだろう。

⑤余談

金融政策の変更時には、決定より先にメディアからの報道、いわゆるリークがあるのが通例だった。しかし、7月会合では確定的な事前報道が無かった。

以下は、筆者の推測である。まず、政策決定は常にライブだ。金融政策決定会合は9名の委員による多数決であり、投票まで最終決定しない。

ただし、事前の根回しは存在する。従って、内部者、当事者であれば、会合が近づけば議案と票読みはかなりの精度で可能だ。そして、根回しの過程で、情報管理意識の甘い関係ルートから報道機関に漏れる。7月の会合については、根回しの過程で、事前に断定的な報道が出ないよう、日銀サイドからかなり厳重な注意があったのではないか。そうでなければ7月31日午前2時の時点の報道は「利上げを検討」ではなく「利上げを決定へ」になっていただろう。

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