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『植田は信じた道をいく』日本銀行の利上げサイクルは?
2024年8月23日、日本銀行の植田総裁は国会の閉会中審査で金融政策運営について説明した。
https://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php?ex=VL&media_type=&deli_id=55335&time=1062.7
https://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/detail.php?sid=8108#1175.3
何が問われたのか?
日本経済新聞によれば、招致が決定したのは8月6日であり、株価や為替レートが大きく変動した直後だ。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB234J40T20C24A8000000/
タイミングを鑑みて、7月31日の利上げが市場を不安定化させたと糾弾されるのではないかというのが筆者の事前のイメージだったが、実際は大きく違った。
質問にあたる委員からの追及はむしろ「利上げが遅すぎたのではないか」、「円安と物価高を放置するのは国民生活の軽視ではないか」といった内容が多く、特に野党議員からは「アベノミクスは失敗だったのだから異次元緩和からの早期脱却を」という趣旨の発言が目立った。政局をにらみ、委員の多くは政治的なアピールを強く意識していたように見受けられた。彼らの選挙区の有権者、支持者の多くが、株安よりも物価高に強い関心を持っているという現実感覚があったと推察される。
こうなってくると、政府、日銀が長年掲げてきた「デフレ脱却」という大目標はいったい何だったのか、改めて不可解に思えてならない。いずれにしろ、日銀の金融政策正常化路線はとりあえずの民意に逆らったものではなさそうだ。そうした中で、今後の金融政策運営はどうなるのか、植田総裁の発言をいくつか確認したい。
内田副総裁発言との整合性
過去記事でも触れたが、8月7日に内田副総裁の金懇が開催されている。https://note.com/catapassed/n/n59fdb8322b8f
講演は、当時の相場の混乱に対する火消しの意図が強いものだった。
https://www.boj.or.jp/about/press/koen_2024/ko240807a.htm
端的に表現されたのはこの二つだ。
当面、現在の水準で金融緩和をしっかりと続けていく必要があると考えています
金融資本市場が不安定な状況で、利上げをすることはありません
植田総裁は、内田副総裁のこれらの発言について認識を問われたが、同じ表現を繰り返すことを頑なに避けた。「発言は適切だった」、「金融政策運営の考え方について私と違いはない」と、認識の齟齬がないことは強調したものの、自身が改めて同じ言葉を使うことで今後の政策運営が縛られるリスクを嫌ったように思われる。
もとより、内田副総裁も、講演直後の記者会見ではこう述べている。
https://www.boj.or.jp/about/press/kaiken_2024/kk240808a.pdf
当面とはいつまでかというのはですね、書いた以上当然聞かれると思って書いているわけではありますが、これはですね、例えば今の市場というのが、どういうふうに落ち着いていくのかっていうのはまだはっきり分からないわけです。
「当面、現在の水準で金融緩和をしっかりと続けていく必要がある」と言いながら、「当面がいつまでかは分からない」と付言されてしまうと、結局いつまで「現在の水準で金融緩和をしっかりと続けていく必要がある」のかが決まらない。極端なこと言えば、既にこの「当面」が終わってしまっている可能性さえある。
「書いた以上当然聞かれると思って書いているわけではありますが」は本音が垣間見える言葉だ。講演ではハト寄りのニュアンスを強調したが、記者会見では必ずこの「当面」について質問されると予想し、そこで「分からない」と回答することで、「当面、現在の水準で金融緩和をしっかりと続けていく必要があると考えています」を全く無意味な発言にしてしまった。最初からそういう展開を想定していたということだろう。
「金融資本市場が不安定な状況で、利上げをすることはありません」についても、内田副総裁は記者会見でかなりの留保を付けている。
当然その不安定な状況がいつ解消するか分かりませんし、不安定な状況がもう解消しましたっていうふうに 100%晴れるということもない
大丈夫だろうと思っても、100%ということはない
金融政策、あらゆる政策そうですけれども、完全に分かるということはどっちにしてもない
金融資本市場が100%安定している状況は存在しないと繰り返している。「金融資本市場が不安定な状況」とはどういう状況なのか、内田副総裁の回答は結局「定義できない」というものだ。「金融資本市場が不安定な状況」が定義されない以上、「その状況では利上げをしない」と言われても、やはり全く意味がない。
植田総裁が「発言は適切だった」、「金融政策運営の考え方について私と違いはない」と回答することができたのは、内田副総裁の発言が全体としては何の言質も与えない構造になっているからだ。
植田総裁の仕切り直し
内田副総裁が、ある意味で狡猾なレトリックを用いて市場の変動を収拾したことを踏まえ、植田総裁は改めて今後の政策運営の考え方を整理した。
8月23日の国会答弁では、
金融資本市場の動向について、極めて高い緊張感を持って注視していく
基調的な物価動向やリスク要因にどのような影響があるか慎重に見極めていく
といった説明が多く、相場の変動自体が金融政策判断に及ぼす影響を暗に否定している。その上で、
経済・物価の見通しが実現していくとすれば、金融緩和の度合いを調整していくという基本方針に変わりはない
概ね見通し通りに行けば(展望レポートの)見通し期間中に金融政策は中立的な水準になっていく
といった発言があり、さしあたり、政策運営の基本的な方針が7月会合時点と変わっていないことを示唆した。
やや意見が錯綜していた今後の金融政策運営についての議論は再整理され、外部要因次第ではあるものの、緩やかな利上げサイクルの継続が明示されたと言っていいだろう。
市場の反応
こうした発言に対する市場の反応は限定的だった。8月23日の円相場は対ドルで前日比2円近く円高に振れたが、このところの変動率から見れば大きな動きとは言えない。日経平均株価は前日比値上がりして引けた。
何より興味深いのは金利の動きだ。8月28日時点で、2年物JGBの利回りは0.40%に届かず、単純計算すると向こう1年間利上げはないという予想になる。OISで計算しても、2024年中に利上げが実施される確率は3割程度しか織り込まれていない。おそらく、米国の利下げが織り込まれる中で海外金利が低下し、日本の金利も上がりにくいという外部要因の方が強く影響している。
根本的な問題として、日銀の金融政策動向に強い関心を持つ人は多くない。日銀がきっかけの一つとなって相場が荒れれば、その時だけは情報発信が注目され、従って内田副総裁の火消し発言は大きな効果を持った。しかし、一旦相場が落ち着けば関心は薄れてしまう。
こうした傾向は日銀と市場とのコミュニケーションの難しさを示している。しかし、一方、金融政策動向が強く注目される状況こそがむしろ不健全とも言える。プロサッカーの試合で例えれば、主審の判定の良し悪しばかりが気になるような試合は白熱した好試合にはならない。試合を適切にコントロールする審判はむしろ目立たないものだ。主役は選手であり、プレーであって、審判ではない。観客は主審の美しい判定を見に来ている訳ではないのだ。経済についても、主役は実体経済であり、金融政策はそのサポート役でしかない。本来、日銀は目立たないことこそが望ましい。
氷見野副総裁による再確認
そして、8月28日、日銀のもう一人の副総裁である氷見野副総裁の金懇挨拶で、植田総裁の仕切り直しが非常に分かりやすく整理された。
https://www.boj.or.jp/about/press/koen_2024/ko240828a.htm
今後についても、見通しに沿った展開となることがメインシナリオだと考えていますが、さまざまなリスクシナリオも考えられるところです。以下ではその中から、「インフレ率は本当に下がっていくのか」と「下がりすぎて戻らなくなることはないか」の2点について考えてみたいと思います。
当面カギとなる点としては、海外経済の動向のほか、国内については、①賃上げが続くのか、②消費が腰折れせず、賃金上昇を価格に転嫁できる環境が続くのか、そして③最近の円高・株安といった金融資本市場の変動の影響はどうか、の3点が考えられます。
相場の目先の動きに見方を左右されすぎないことが大切だろうと思います。
わたしどもがいま進めているのは、長年続けてきた非伝統的な政策の手じまいと、伝統的な手段である短期の政策金利の調整の2つです。
現状、金融資本市場は引き続き不安定な状況にあり、当面はその動向を極めて高い緊張感をもって注視していく必要があります。また、内外の金融資本市場の動向が、経済・物価の見通しやリスク、見通しが実現する確度に及ぼす影響をしっかり見極めてまいりたいと考えております。そのうえで、今後の金融政策運営については、そうした影響や、7月に決定した利上げの影響を見極めつつ、わたしどもの経済・物価の見通しが実現する確度が高まっていく、ということであれば、金融緩和の度合いを調整していく、というのが基本的な姿勢です。
この講演は、現時点の日銀の考え方をきわめてクリアに説明している。非常に優れた講演であり、是非一読をお勧めしたい。