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『そんなわけねーじゃん』中の人の本音と建前と日銀のカルチャー
辞める日銀職員
日銀の若手中堅職員が辞めていくケースが増えているようだけれども、というお話ですけれども、それは当然私どもも認識していまして
2024年9月の日本銀行植田総裁の発言だ。
https://www.boj.or.jp/about/press/kaiken_2024/kk240924a.pdf
ライブ配信を見ていた筆者は非常に驚いた(?)のをよく覚えている。話には聞いたことがあったが、まさか総裁が公式の場で「当然認識している」と述べるとは。
それから間もなくと言っていい10月5日、まさに辞めていった日銀の若手中堅職員の一人である河田皓史氏がYouTubeの動画に出演した。
https://youtu.be/8997EQ70dv4
論点は多岐にわたっており、どれも非常に考えさせられるものだ。以下、筆者なりの感想を記したい。因みに、前後編の二つが公開されているが、本稿は前編のみの感想である。
日銀の元エース
動画内で河田氏は「元エース」と紹介されている。日銀内での評価は相当高かったと思われる。大過なく職務にあたれば支店長、あるいは局長、場合によっては更に、というレールが見え、「椅子が用意されていた」と言ってもいいかもしれない。その人物が椅子を蹴とばして辞めてしまったのである。動画内では「河田ショック」とも表現されていた。
言いたいことが言えない立場
人が仕事を辞める理由は大抵一つではなく、それぞれに、様々な状況、背景がある。河田氏の場合、一つの要因は、自分の考えを自由に発信できないストレスだったと述べている。
日銀は、経済、物価見通しや政策の考え方について、政策委員会の合意を公表する。日銀職員、事務方の立場では、そこから外れた意見を好き勝手に放言することは難しい。自由に自分の意見を公表できるのは政策委員クラスに限られ、職員は裏方である。動画では「黒子」と表現していた。オフレコでのメディアとのやり取りや、居酒屋での世間話レベルであれば、情報管理にさえ注意すれば、日銀職員が個人の意見を正直に語ることもおそらくある。そうした形ではなく、自分の名前で自分の考えをパブリックに表現したかったということだろう。
これはあくまで河田氏のケースであり、必ずしも他の日銀退職者に一般化できるものではない。給与面を含めた待遇、働き方なども論点だ。ただ、個人的な印象だが、組織全体として、若手や中堅の権限が限られている面が日銀にはあるかもしれない。
展望レポートはヤラセ?
もう一つ、河田氏は退職理由について、日銀の政策決定に関係する構造的な問題も指摘した。
河田氏によれば、過去の日銀の政策決定では、経済、物価動向等の様々なリサーチをベースに、然るべき政策手段を議論するスタイルが主流だった。しかし、2013年に黒田前総裁が就任して以降はそうした積み上げ型の政策決定が行われない傾向が強まった。
日銀の目標は2%のインフレ率を持続的安定的に達成することであり、黒田氏の下では全ての政策決定が目標ありき、達成ありきになってしまった。その結果、いかなる状況でも2%の物価目標が達成できるという見通しを作成せざるを得なくなり、次第にリサーチの意義が歪んでいったということだ。リサーチ担当者の分析結果が政策に活かされることが無くなり、「大本営」の決定したシナリオに沿った恣意的な分析結果を出すことが求められ、これが大きなストレスだったという。
実のところ、日銀が作成する展望レポートの見通しが当たらないことは黒田氏の就任前から比較的広く認識されており、「願望レポート」と揶揄されるのも特に最近のことではない。
とはいえ、黒田氏の個人的な政策思想がこうした傾向を強めた可能性は多分にあったと思われる。黒田氏は2%の物価目標必達を期して総裁に就任した。異次元の金融緩和を実施し、「出来ることは何でもやる」と豪語した。しかし実際には10年間の任期中に目標は達成できず、異次元緩和は比較的早い段階で手詰まりになっていたと言っていい。そうした中、「そんなわけねーじゃん」と現場のリサーチ担当者自身が思ってしまうような見通しが、日銀の公式見解として公表され続けた。日銀は手詰まりにあることを認められなかったのである。
「無理なことは無理と言うべき」?
動画内で河田氏は「無理なことは無理と言うべき」だったのではないかと述べている。筆者には、この発言の趣旨が正確に読み取れないが、一つの解釈として「物価目標は達成できない」という事実を、日銀事務方が黒田氏に率直に報告するべきだったという意味ではないかと感じた。逆に言えば、事務方は政策委員会に対して、正直に報告しなかった、出来なかったということになる。
黒田氏は、少なくとも総裁就任当初、物価目標の達成は日銀の使命であり、実現不可能という意見を受け入れるのは責任の放棄と考えていた筈だ。この考えに固執する限り、「このままでは達成できない」との報告に対しては、追加の政策対応案が必然的に求められる。
とはいえ、現実的な打開策は存在せず、効果のない無理筋な政策手段を提案する訳にもいかない。事務方が提案すれば、どんな無理筋でも採用される可能性がある。「出来ることは何でもやる」のである。事務方としては、物価目標は達成できる、追加の政策対応は必要ないと報告し続ける以外になくなってしまう。
黒田氏は2015年の講演で、ピーターパンの物語から引用し、以下のように述べた。
https://www.boj.or.jp/about/press/koen_2015/ko150604a.htm
飛べるかどうかを疑った瞬間に永遠に飛べなくなってしまう。
追加の政策対応を考えろというのは、空を飛べと命令されることに近い。不可能なことは命令されても実行できないのだ。
軽々に比較するのは憚れるが、ある意味では1944年台湾沖航空戦の戦果報告に似ている。
実際に日銀の内部でどのようなやり取り、駆け引きがあったのか、筆者は知らない。あくまで一つの想像である。
出来上がったカルチャー
河田氏は、日銀の「10年かけて出来上がったカルチャーはそう簡単に変わらないのではないか」と述べている。
先述のピーターパンからの引用について、黒田氏は退任が迫った2023年3月の記者会見で以下のように語っている。
https://www.boj.or.jp/about/press/kaiken_2023/kk230313a.htm
ピーターパンの話は私が思いついたのではなくて、スタッフの方が思いついて入れて頂いたことで、私あまりそういうことに詳しいわけではないんです。
成功を疑わない姿勢を強調する発言は、事務方の発案だという。
日銀職員はどうあるべきかという観点から言えば、国会の承認を受けて就任する総裁を積極的にサポートするのが当然の職務だ。職務に忠実であればこそ組織内で高い評価が得られ、そして階段を上っていくというのは社会の常識である。
河田氏の言い方からは、総裁の交代によってカルチャーが変わることを期待していたように伺える。期待通りではなかったとすれば、果たして今はどうなのだろうか。
現在日本銀行は「多角的レビュー」と称して過去25年間の金融政策について幅広く分析し、取りまとめようとしている。途中経過として様々なレポートやワークショップ報告が公表されているが、首をかしげざるを得ないものが少なくない。
何故客観的なレビューが出来ないのか、一つの示唆があるような気がした。
補足
河田氏が語った「無理なことは無理と言うべき」という言葉には、別の解釈もあると筆者は考えており、むしろこちらのほうが正確かもしれない。「事務方がボードに対して」ではなく「日銀が公式に国民に対して」という意味だ。
黒田体制下の日銀は常に「2%の物価目標は達成できる」という見通しを出し続けており、現場のリサーチ担当者自身でさえ信じていない見通しを公式見解としていた。国民に対して無理だと正直に言わなかった、ある意味嘘をついていたことになる。
とはいえ、日銀が正直に言えるか、言うべきかはかなり微妙な問題だ。動画内でも、中央銀行の独立性の論点に触れ、目標を達成できない事実を認めてしまえば組織としての存在意義を失ってしまう、そうしたリスクを恐れたのではないかとの指摘がある。
これは黒田氏の総裁就任前、白川元総裁時代に実際に起きたことだ。黒田氏の前任者だった白川氏は、真面目で正直だった。日銀総裁として、当時の環境下では、金融緩和だけでインフレ率を押し上げることは難しいという事実を比較的率直に語っていた。しかし一部の人々はその主張を批判し、日銀はやるべきことをやっていない、日本経済の低迷は日銀の責任であるという論を展開した。筆者としては非常に残念だったが、結果的に日銀を信用しない人がかえって増えてしまった事も否定はできない。
白川氏の後任人事については、様々な偶然が重なった上で、「出来ることは何でもやる」の黒田氏が任命された。日銀法には金融政策の自主性が明記されているが、現実には政策委員人事を通じた強力な政府の関与が10年間続いた。日銀の「無理なことは無理」という正直な説明は15年前の世の中には通じなかったのである。
おそらくこのトラウマは現在も生きている。日銀は、政府の介入を避け、独立性を守るために、時には虚勢を張る必要があるのかもしれない。それでも、出鱈目なレポートを出すことで日銀の存在意義をアピールするという姿勢には、筆者は賛同できない。