あの頃,僕らは「どこにもない方言」を話していた
関西弁をやめたヤーレンズ楢原
普段、あまりテレビは見ないのだが、昨年久しぶりにみたM-1グランプリでヤーレンズの漫才に心をつかまれて以来、ヤーレンズが出る番組だけはよく見るようになった。
テレビだけでなく、ツッコミの出井さんのエッセイも読んだし、ラジオは地上波もポッドキャストも全部聞いている。
ハイスピードなのに暴力的でない独特の雰囲気で進行する漫才と同じく、彼らのトークも、ずっとふざけつづけるんだけど意地悪な感じが全くなくて、最高に面白い。
妻と一緒に、今年のM-1では絶対ヤーレンズに優勝してほしいと願いながら彼らのことを追いかけている。
そんな折、妻から、ヤーレンズのボケ、楢原さんが他の芸人のラジオにゲスト出演した際に披露したというエピソードを聞いて、なるほどと思った。
楢原さんはもともと関西の生まれで、漫才もずっと関西弁でやっていたのだが、ヤーレンズを結成したころから関西弁を封印し、標準語での漫才を練り上げてきたらしい。
そのことについて、楢原は「実家に帰ってお母さんの前で標準語で話したら、お母さん何て思うだろうね」と話していたらしい。
確かにそれは、親としては子どもが急にグレたりおしゃれに目覚めたりするのと同じくらいのショックを感じることなのかもしれないと思った。
「寮弁」の思い出
この話を聞いて、僕の中学・高校のころの思い出がふとよみがえってきた。
僕は大阪出身なのだが、中学受験をして、愛媛県松山市にある中高一貫校に進学した。引っ越しをしたわけではなく、この学校は全体の半分以上の生徒が寮で生活をしていて、僕もこの寮に入ることにしたのだ。
小学生のころに、父親が見ていた映画(たしか「青春の輝き」だったと思う)を隣で見ていて、ぼんやりと寮生活に憧れていたことがきっかけだったように記憶している。
今だったら、ハリーポッターを見て寮生活に憧れるような感じだろうか(ハリーポッターの第1作の出版が中1のころだったから、それはそれでタイムリーだった)。
その寮には、西日本を中心に全国から同い年の中高生が集まっていた。
割合としては、僕の感覚でいうと、広島を中心とする中国地方出身が全体の4割、九州と四国が2割ずつ、関西・中部が1割、残りの1割が関東以北という感じだった。
こうした状況で過ごしていると、徐々にお互いの出身地域の方言が混然一体となっていき、やがて寮生しか話さない独特の言語が生まれ、上級生から下級生へと伝承されていくことになる。
こうして生まれる寮特有の現象が、「寮弁」だった。
寮弁は、簡単に言ってしまうと広島弁・九州弁・伊予弁・関西弁のハイブリッドのようなものなのだが、やはりそれぞれ出身地域の方言が最も強く残るので、それによってイントネーションにも個人差があったように覚えている。
しかし皆の寮弁には共通点もあって、それが伊予弁の影響だった。
伊予弁、つまり夏目漱石の「坊ちゃん」の「~~ぞなもし」というあれだ。もちろん2000年代当時でもそんなコテコテの伊予弁を話す中学生はおらず、あくまでもそういう伊予弁は関西でいうところの「もうかりまっか」「ぼちぼちでんな」のような絶滅危惧種だった。
しかし坊ちゃんの世界で描かれる伊予弁の、どこか人懐っこくて柔らかい印象は当時でも健在で、そのニュアンスがどこかに入ってくるのが寮弁の最大の特徴だった。
それを顕著にあらわすのが「なんぞオマエ」というボキャブラリーだ。
寮生は皆、どこの出身のやつでもほぼ例外なくこのボキャブラリーを会得し、日常会話で多用していた。
他の方言で言い換えれば「なんだテメー」「オマエなんやねん」「なんじゃコラ」のような位置づけの、割と荒っぽい場面でも使われる言葉なのだが、他の方言にはない人懐っこい印象を感じていただけるだろうか。
「なんぞオマエ」。うーん、かわいい。
「寮弁」に憧れる関東人
面白いのが、この寮弁の影響を受けるのは西日本の人間だけではなかったということだ。
当時、僕らの同級生には割合としては少なかったものの、関東から来た標準語を話すやつらもいた。
しかし彼らも、寮での生活が長くなるにしたがって、次第に寮弁に染まっていくのだ。
「寮での生活が長くなる」といってもそれは当時中1だった僕らの感覚で、実際には寮に入って半年やそこらで、標準語だった彼らも「なんぞオマエ」を使いこなしていたように思う。
冒頭の楢原の話(方言→標準語)のちょうど逆(標準語→方言)の話だが、今思えば彼らのご家族はさぞ驚いたことだろう。
ほんの数か月前までは自分と一緒に標準語で話し、「ぼくこれから塾があってさー、ホントつかれるよねー」などと言っていた12歳の息子が、夏休みに帰省してきたら急に「なんぞオマエ」「どこいくんぞオマエ」「なにしとんぞオマエ」である。
関東人に突如訪れる「坊ちゃん」の世界観。想像するだけで面白すぎる。
とは言っても、実際には彼らも親に対して寮弁で話すことはあまりなかっただろう。
おそらく親とはそれまでどおり標準語で話し、寮の友人と話すときは寮弁というような使い分けがあったのだと思う。
しかし、子どもが友人と話すのを傍から見ているだけでも、関東人にとって身内の話す寮弁は印象的なものだったらしい。
僕が直接聞いたのか、それとも親伝いに聞いたのかは忘れてしまったが、こんな話があった。
寮では最初の1年間は12人1部屋の大部屋で生活するのだが、このとき同じ部屋になった同級生に陽太君というのがいた。陽太君は確か千葉の生まれで、ご両親も、当時の僕からみると、東京の(千葉だけど)洗練された空気をまとった都会的な人だった。
当の陽太君も、入寮当初はまさに「いいとこのお坊ちゃん」といった雰囲気で、当然話す言葉も標準語だったのだが、寮で長年生活していくうちに、彼も当然、「なんぞオマエ」「どこいくんぞオマエ」の使い手となっていった。
しかし面白かったのは、これを見た彼のお父さんが、息子の話す寮弁に単に驚くのではなく、それをうらやましいと思ったと話していたことだ。
どうやら生まれた時から標準語で話し、方言や「訛り」から無縁の人生を送ってきた人にとっては、方言というのはどこかカッコよく映るらしいのだ。
12歳で実家を出て生活する息子が、帰ってきたら憧れの「方言」を話している。
それが陽太君のお父さんには、息子の成長をあらわすとともに、憧れの対象のように映ったのだろう。
今でも、あの寮では、僕らが話していた寮弁が脈々と受け継がれているのかもしれない。いつか現役の流行最先端の寮弁を目の当たりにしてみたい気もする。