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宗教との距離感③~さよなら教会編~
皆さんお元気ですか😊
私は毎回休みとなると予定を詰め込み過ぎるのでゆったり過ごそうかと思います。
さて前回の続きとなります。
教会を離れる決定打となった金銭トラブル。
大きな金額では無いにせよ、金の切れ目が縁の切れ目とはこれだなあ…ということです。しかしながら、離れよう、離れたい、だけど良い友人になった人もいるのに…。決断できずに揺らいでいました。
人間関係を断ち切る事がこんなに優柔不断にさせるのかと本当に病みました。そんな中で一本の道筋を示してくれた人がいました。
それは実家に来てくれているお坊さんです。
仏教から見たキリスト教を聞いてみた
実家の父方は真言宗、母方は曹洞宗とバリバリの仏教徒です。家には父方の祖父母の仏壇があり定期的にお坊さんが月参りに来てくださっています。
本格的に教会の礼拝やイベントは理由をつけて離れ、離れると追われ、追われると逃げたくなる。本格的に悩みきっていました。
所用で帰省した時にお坊さんと久々に再会。副住職なので若さんと呼んでいます。物腰の柔らかい、博識で、ユーモアもあって、高野山で修行した夢を見て飛び起きる。(寝坊した!!!と焦るそうです笑)
※それだけ厳しかったとのこと😂本当に素敵な方です。
思いきって実は……。と話し始めて最後までじっくり傾聴して下さりました。若さんは一言『宗教と関わる事は簡単な様で難しいね。
【そこに居て幸せ?】と自分に聞いてごらん。もしかしたら何か道が見えるかもよ』と。
『教会に行きたくない。という事は”あの場所”にいても私は幸せじゃない』
こんなに単純なのに気付けませんでした。
お坊さんに『答えが出そうです』と伝えると
【立つ鳥跡を濁さず】と【感謝】を忘れずにとお言葉を頂きました。
そこに身をおいて幸せを感じていた時も事実。迎え入れてくれたことに感謝を。と…。これを言われなければきっと相手を罵倒して終わっていたと思います。
教会から離れる宣言
そんなこんなで数ヶ月。つい先日に牧師やリーダー陣に今後は一切の活動には参加しないこと、教会そのものから離れると事を伝えました。
牧師、リーダー陣への連絡はLINEで、でもしっかりと何故離れるのか、クリスチャンというものを自分から切り離すのか理由も伝えようと手紙も書きました。※相手にとっては不必要だったかもしれませんが…^^;
気を抜くと愚痴や文句が羅列してしまい何度も書き直しました。
私が感じていた疑問、その他諸々の気持ちに加えて迎え入れてくれたこと、出会えた事の感謝を添えました。
手紙は教会で出会った中で信頼のおける友人に託しました。彼女は泣きながら「気づいていたのに目を背けていた自分が許せない。」申し訳ないと何度も何度も繰り返していました。
離れると決めたのは私自身であること。あなたがと友達になれたのは教会があったからだと伝えました。
二人揃ってマックで大泣き😂
もしかすると彼女と同じく綻びに気づいている、でも声に出せない。そんな人がいたかもしれません。私が通っている5年の間に何人もの人が去っていきました。そして去った理由は暗黙ルールで誰も聞かず、話さず。
宗教との距離感を考えてみて
このようにして私はキリスト教という一つの宗教、そして一つの教会から離れる決断をしました。
振り返ってみると何故ここまで悩んだのか要因はいくつか挙げられますが、最もな要因は【私自身の性格】がミスマッチを生んだ事です。
自分自身では大雑把と思い込みたいところですが案外過敏です。
ぼっち体質なので1人の時には気にしない事も多いのです。
なぜなら迷惑を被るのは自分だけだから。
但し組織となると途端に短所の【厳しさ】が出てきます。←自分では軍曹気質と呼んでいます…。
時間管理がずさん、ランチを予定していても行き先を決めていないかつどこに行くのかずーっとうだうだ話込む。乱雑に物を扱う、ドアの開け閉めが乱暴、散らかっている、そして金銭管理。
教会という組織の中では私は合わないパズルのピースになってしまうのです。
そして何よりも【集団で、仲間で】という点が狭い部屋に閉じ込められる感覚でした。距離が近すぎる事、これが知らずにストレスとなっていました。
キリスト教の事を仏教に相談するという禁じ手?の様な状態になりましたが、お陰様で道が開ける結果となりました。
落ち着いてから考えると、歴史が好きで旅先で御朱印を集めるほど私にとって身近な宗教は仏教でした。※御朱印集めは現在進行形です。
仕事柄、論理や事実が重要視される現場で私は働いています。目に見えない空想や妄想は不要です。
その点でお寺や神社には重要文化財、国宝とされている仏像や建造物があります。現実主義の私にはそっちが合っていたという結論です。
仏教も宗教ではありますが、単純に優しさ、甘さ【あなたは許されている】等はなくて、優しさと厳しさを併せ持っていると個人的には感じました。
今回お坊さんに言われた【立つ鳥後を濁さず】と【感謝】を忘れずにと付け加えられた助言にも分かるように、相手を非難するだけでは解決しないことを学ばせて頂きました。罵倒して非難すれば一時はスッキリ爽快!となるかもしれません。でもきっと後悔するだろうな、そう思います。
言葉は一度発してしまえば取り消しは出来ません。だからこそ貴重であり慎重であるものだと感じています。
おわりに
ここまで読んでくださったか方、ありがとうございます。
新興宗教もそうですが、宗教との距離感というのは難しいと個人的には感じております。
生活の一部に宗教を取り入れている人もきっと多くいると思います。それによって救われたという人、自分自身が良い意味で変われたという人も。
私は宗教に近づきすぎて自分で自分を苦しめました。無駄な数年間を過ごしたと一時は腹も立ちましたが今では一つの経験として捉える事が出来ています。経験を無駄にするかどうかは自分自身の考え方一つです。
マイナスも合わさればプラスに変わります。