しづ心なく花の散るらむ

とりわけ暴飲暴食や、気に病むことの心当たりがないのにもかかわらず、胃がしくしくと痛む日々が続いた。しくしくと、というほどのものでもない。どちらかというと、少し気怠いような、ずんとくるような、身体の中心が嫌な雰囲気。いつものドリップコーヒーも、普段通り淹れたものをお湯で割ってみるものの、何となく重たくて受け付けないので、どうにも気分もぼんやりしてしまう。かつては、お腹をくだすということはあれど、胃痛とはほぼ無縁な人生だったので、自分の母がしょっちゅう胃痛を訴えているのも、ただ気づかわしい気持ちで眺めるくらいのことしかできなかったのだけれど。

そうしているうちに、どんどんと世は春めいてきた。どこからともなく風とともに漂ってきた桜の花びらに誘われて、近所の児童公園の桜の下で缶ビールでも開けてみるけれど、胃の調子だけはどうにも無粋でいつものようにすいすいとはいかない。5時の夕焼け小焼けの放送もおわって、人の数もまばらな公園。いつまでたっても慣れない「お母さんづきあい」を避けるようにして、夜も近い時間に子どもの鉄棒の練習に付き合う。着実に進む季節とともに、わたしも年を重ねているはずなのに、今もってできないことの多いことに圧倒される。そつなく、とか、寛容に、とか。あとは、ほどほどに、も。

そんな寄る辺ない気持ちにさせられるのは、決まっていつもこの時期なのか。新たな場所へ旅立つ人を見送り(自分が見送られる年もある)、また新たにやってくる人をむかえて(自分がむかえられる年もある)、これから始まる生活への期待が、しゅわしゅわとしたサイダーのように空気に満ち満ちている季節。弾けるエネルギーに気圧されて、変われない自分と、一方で変わることを望まれている自分とがばらばらになって、はぐれてしまったような心持ちになる。夏も秋も冬も、自分のちっぽけさは同じなはずなのに、それが際立って身に染みるのは、いつだって春なのだ。

かくして今年は、愛してやまない珈琲も酒も取り上げられて、ひっそりと養生中。弱気な自分の心をほぐしてくれる、頼みの友の不在が身に染みる。そういえば、子どもが通う保育園で、先生からメッセージをいただいた。赤ちゃんの頃から足掛け5年近くうちの子どもをみてくれていたまさに「育ての親」のような方だったが、この度別の園に異動されることになったので。その中の「一人で頑張らず、ときには色んな人の手も借りてくださいね」という言葉に、ああ拠り所のない気持ちは見抜かれていたのか(或いはわかりやすいものだったのかもしれないが)と思う。でもそのことに、本当は寄る辺があったんだ、と、ちょっと、涙がにじんだ。

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