時を止めて

新しい部屋は川のそばで、夜が明ければ、やわらかい光がベッドルームに惜しみなく流れ込んでくる。以前住んでいた、コンクリート・ジャングルのまちでは考えられなかったことだ。わたしはそっとベッドをすりぬけて、寝ぼけ眼でケトルをコンロにかけ、コーヒーミルでがりがりと豆を挽く。とろとろとまあるくお湯を注ぎ、芳しい香りを思いっきり吸い込む。一日の中で唯一与えられた、自分のためだけに使えるひとときを、ゆっくりとコーヒーを淹れることに費やす。全粒粉の食パンにたっぷりバターを塗ったトーストも焼く。

真っ白な食パンを食べなくなったのは、糖質制限をしていた名残。もうタイトな血糖値管理は必要なくなったけれど、いつのまにか立派な日常の一部と化してしまった。起き抜けの血糖値は上がりやすい、とか、ギリシャヨーグルトとトースト1枚で糖質は30gちょっと、とか。毎食後、チクチクと指先を穿刺して上がり下がりする数字に一喜一憂するとか。自分のためだけにそんなストイックな日々が続けられたかどうかと言えば、自信が持てない。けれど、自分を大事にすることで、愛する人を大事にすることもできる、ということを身をもって知った出来事でもある。

つい3ヶ月ちょっと前まで、わたしには妊娠糖尿病という診断名がついていた。これまでの人生では、BMIや空腹時血糖値など健診の結果の中でも特段気にすることもなかった項目だったのに、転院した病院の医師の表情は険しく、このままだと入院することになりますよ、と、ことの重大さを説いた。赤ちゃんの産後低血糖の可能性の心配をしなさい。あなたは並外れた不摂生ではなさそうだし、だとすれば遺伝的な体質によるものかもしれない。産後も気をつけていないと、いわゆる2型糖尿病に移行することだってあるのですよ。

コーヒーを半分残したところで、泣き声に回想を遮られる。甘やかな匂いのする肌と、柔らかくも耳をつく泣き声。抱っこして再びその子の瞼が閉じるまで、部屋の中をゆっくりあるく。額の生え際の湿疹をみつけて、軟膏を塗る。口を小さく動かしていたら、乳を含む。おしめのもったり具合をたしかめる。そうしているうちに、残りのコーヒーはすっかり冷めて白くなる。出産時には臍の上まで切開をする可能性がある、と言われ続けた産前は、この子に対面する日のことばかり考えていた。透明の保育器越しにしか触れられなかった頃は、存分に抱っこでこの子を慈しむ日を励みにしていた。今はというと、この子が抱っこなしに自力で眠りにつけるようになる日のことを考えている。

いつもそうして、つい先のことにとらわれがちなわたしは、目下のことをきちんと見届けぬまま、その儚さに気づかぬまま今をやり過ごし続けてきてしまっている。足元のぬかるみの感触を嫌い、どうすれば早く走れるかばかり考えて。どこまで突き進んでも、未来を今にかえてゆく繰り返しでしかないのに、未来には泥くささも足枷もない、万能で安らかな時間が待ち受けているような気がしてしまうのだ。もう会えない3ヶ月前のこの子と天秤にかけた未来ーーすでに「今」となってしまったーーが、目を凝らす必要のあったものかどうか。ぼんやり待っていたって、やがて遠景は近景となり、容易に触れられるようになるにもかかわらず。


乳児の昼寝に身体をかしてやりながら、そんなことを書き連ねているわりに、頭の中では今日の昼ごはんは何にしよう、と考えてしまう悲しい性である。カレンダーを破り捨てて、腕時計を外して、眼鏡を捨てて、今このひとときをしゃぶり尽くして、思い返す必要もないくらいに味わってしまえればいいのにね、と思うけれど。

#エッセイ #似非エッセイ

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