桜色
〈東京では桜が満開となり、終日桜の名所は花見客で賑わっていました〉
ニュースの映像は、去年の映像の使い回しであっても、誰にも分かりやしないのではないかと思えてしまうような、桜と人波のお決まりの構図。わたしも、数年前くらいまでは会社の部署の花見など張り切って、朝っぱらから3合分のおむすびをきゅっきゅと拵えて、場所とりにも精を出していたし、そこで延々と夜桜の時間までくだをまいて、ということをたのしんでいた平均的な日本人のひとりであった。
にもかかわらず、この頃は桜を見にきているのだか、花見客を見にきているのだかというような人混みに耐えかねるようになり、あまりそういった余暇にも参加をしなくなってしまった。公園までのみちみちからはじまる人の山。宴のあとの集積所に寄せられた屑の山。そういうもの込みで花を愛でる、ということにいささか疲れてしまった節がある。これは花見のみならず、わたしの都会生活全般において最近、とみに感じるようになった気持ちとも似ているかもしれない。
昨夜、コンビニ帰りの児童公園の前で、街灯に照らされた桜がはらはら、と舞っているのを眺めていた。「どうしてピンクのさくらはどこにもないの?」手を繋いでいた娘の言葉がよく理解できないでいると、「いつも探しているんだけどね、白いさくらしかないみたい。」
そういえば、彼女のもっている「はなさかじいさん」の絵本も、桜色という名前のついたわたしのエナメルも、この時期よく見かける桜餅も、なべてはっきりとしたピンク色をしていることに気づいた。でも目の前で咲き誇る桜——巷でよく見かけるソメイヨシノ——は、もっと淡くて、たくさんの花が重なりあってはじめてちょっぴり薄桃色に見えるような色である。白いさくらかあ。世に多く憚る、「桜色」もどきは、いつのまにか桜よりも桜らしさを獲得して、5歳の感性にしっかりと刷り込まれているみたいだ。
〈東京では桜が満開となりましたが、平凡な一日を過ごしました〉
1年に一度の喧騒が過ぎれば、また元のように静かに暮らせるさ。そっと励ましてから、家路についた。
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