後出しじゃんけん
公園を思いっきり駆け回った娘が、上気した頬を思いっきり押し付けて抱きついてくる。頭のてっぺんのお日様のにおいや、笑い声に混じるはあはあという息継ぎや、肉の重みごと体当たりするその力。生きている時間、つまりはいのちを掛け値なしにすべてを誰かに委ねられる清らかさと無防備さとに思わずさみしくなって、抱きとめる腕の力を強めてみる。まるごとの自分をぶつけるただそれだけのことが、大人になりゆく過程では思いのままにならなくなってゆくことを知っているから、か。
10歳近く年の離れた配偶者とする他愛のない会話——互いの仕事のことや、子どもの進級のことや、将来の蓄えのことなど——の中の、些末なことが煩わしく、疎ましく感じるときがある。「もう若くないから、このくらいの保険は掛けないと」とか、「そのくらいの歳の頃、俺もそういう悩みはあったからさ」とか。話の内容自体は至極まっとうなのに、どうにもちくちくと肌にさわるセーターのように素直に受け入れられない。「あなたはそうでも、わたしはまだそんな歳じゃないよ」とか、「そんなのは後出しじゃんけんのようなものでしょう」とか。
それでどうでもいい喧嘩をして、そしてまた忘れたころに同じようなことで揉める繰り返しの中で、ようやく自分の感じている気持ちの正体に気付いた。「あなたの生きてきた時間の長さを都合よく押し付けないで」。そういう言葉が相応しいだろうか。「俺もそうだったから大丈夫」というときの「あなた」は、「わたし」も同じように乗り越えられるということが前提だし、「そろそろ保険」というときの「あなた」は、「わたし」と同じ歳の頃は、キリギリスのように暮らしていたにもかかわらず、「わたし」にはアリになることを求めるのね、と。時間の長さの差を都合よく、そのまま当てはめたり、ちょっと補正して差し出したり。
一緒に暮らしていくということは多分、相手に自分の生きている時間の長さを委ねて、また逆に相手の生きている時間の長さを受け入れるということ。その他、数多くある人付き合いであれば、そのような重さを伴わず、刹那的なたのしさだけで済んでしまう。けれど、相手に自らの重さを背負わせるだけの身勝手なこころでは、成り立たないだろうと思う。でも、唯一の例外があって、自分のすべてを余すことなく人にあずけてしまってもいい存在。それが子どもという生き物なのだろうと思う。代わりに何かを持つ必要などないし、不思議なことにその重ささえも、支える側に幸せをもたらすもの。
シンクの中、コーヒーの跡が残るマグカップを眺めながら、ため息を一つ。