思い込みでできている

ここ2ヶ月ほど、お酒を一滴もたしなんでいない。お酒については、個々の体質や個人の嗜好によりけりというところが大きいけれど、少なくとも20歳以降(としておく)のわたしの人生は、ほぼお酒ならびにお酒のお供となる肴とともにあったと言っても過言ではない。2ヶ月前までの自分にとって、飲酒は歯みがきやラジオ体操のように染みついた習慣のひとつであり、健康診断前夜とわかっていながらも、手が勝手に冷蔵庫を開け、指が勝手にビールのプルタブをぷしゅっと捻る。そんな塩梅であった。

いろいろな事情があって、そんな人生の友としばし距離を置いている。今の生活は、寂しいといえば寂しいけれど、案外こんなもんだろうなというあっさりとした気持ちでもある。常々、お酒というリフレッシュメントなしには生きて行かれないとまで公言していたにもかかわらず、今ではさっくりと食事を済ませ、本を読んだり、たまには湯を張って長風呂したり、取り立てて時間も心も持て余すことなく過ごしている。

お酒に限らず、趣味嗜好のようなこだわり一般について、「これなくして人生なんて考えられない」「これあってこその自分」という思い入れの大半は単なる思い込みなのかもしれない、ということをひとつの哲学として感じる。人間なんて、そんな固執だけで構成されるような単純なものではないみたい。当たり前といえば当たり前。でも、いつからか自分で線引きをしたそのこだわりの域を思い切ってはみだしてみれば、新しいお気に入りが見つかることもあるのだろうな。

また1年後には「これこれ」と言って、ビールのプルタブをひねる時間を恋しく思いながら仕事を片付ける日々に舞い戻っているかもしれない。先のことは誰にもわからない。そんなことをしたためている一方で、未だどうしても「これなくしては」というものもある。うどんの美味しい県で長く育ったものだから、年に数度はぴちぴちとした活きのいいうどんが無性に啜りたくてたまらなくなる。小麦粉と塩と水で練られたものごときに、わざわざ海まで渡ってしまうほど。そういう折には、わたしの身体にはうどんでしか構成できない器官が潜んでいるのかもしれない、と人体の不思議に思いを馳せてみる。


#エッセイ #似非エッセイ

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