全天候型の人
心の中で、こっそりそう呼びならわしている。
いつ顔を合わせても、変わらぬ調子の人のこと。晴れの日も雨の日も、病めるときも健やかなるときも、前日ずいぶん遅くまで仕事をしていた気配があっても、失恋しちゃったよ、と自らの心の痛みを打ち明けるときでさえも、その人の穏やかな物腰は崩れることがない。そういう人のことを秘かに、水はけのよいグラウンドにたとえて、そう名付けてしまうのだ。「あ、この人は、全天候型の人だ」と。
わたし自身などは、実にその真逆をいっている。嬉しいとき、楽しいときは問題にならないにせよ、悲しいことがあると途端に力なくふさぎ込んでしまうし、不愉快なことがあるとつい、怒りで口をとがらせてしまう。それを自分の心の中だけでおさめるのが立派な大人なのだろうと思うが、未熟なわたしはこれから先も感情をコントロールが出来る気がしない。嬉しい心持ちのときに会った人からはよい印象を持たれる(かもしれない)が、そうでないときに会った人には、「おや、この人は大丈夫なのか」と思われても仕方がない。全く半人前の人間である。
心の中では常々、「全天候型の人」にあこがれている。いつも人当たりがよく、自らの悩み(大きなニキビができてしまったことや、気に入りの服にソースの染みを作ってしまったこと)にも惑わされず、公正に振る舞える人。その人の生まれ持った気風もあるだろうけれど、多くはその本人の殊勝な「心がけ」による産物なのに違いない。にもかかわらず、特に自分が落ち込んでいるときなど、そういう人たちに対してつい「ふん、全く平板で、能天気なやつ」と、みにくい気持ちを抱いてしまう。そうして、子どもっぽい人当たりしかできない自分をさらに憎む悪循環である。
たとえば、駅前のパン屋のおかみさん(を想像してみる)。雨続きで店の売り上げが思わしくないときもあれば、奥でパンを焼くご主人と目下喧嘩中で、虫の居所が悪いときもあるかもしれない。或いはその日が寝不足であったとしても、毎朝にこにことお客さんを送り出すその姿は、それがたとえ「笑顔も仕事」という理由であったとしても、素晴らしいという一言に尽きる。「全天候型」になれないわたしは常々、こういう仕事にはつけないな、と舌を巻いてしまう。
わたしの気持ちもその持ちよう次第では、いつまでも水を含んで離さないスポンジ様のものから、いかなる些事もさっとかわしてしまえる「全天候型」の素材へ変化を遂げられるものなのか。時折考えてみるけれど、そういうことでうじうじ悩んで、他人と比べてしまう水はけの悪さがもう「雨天順延」状態なのである。酸いも甘いも、もう少したくさん嚙み分けてみれば鍛えられるかな。一縷の望みを抱きつつ、夕餉時なのに遊び止めない子どもにぷりぷりするわたしである。空腹時の不機嫌は、多めに見てほしいものだよ。