過去の自分が「今の私」を救ってくれる~「執筆記録」のススメ~
突然ですが、みなさまは「測量野帳」というKOKUYOが出しているノートのことをご存じでしょうか。
魅惑の「野帳」について
測量野帳。通称、野帳。
文房具店にいけば、だいたい一冊は置いてあるので、見たことのある方も多いかもしれない。
私が測量野帳に出会ったのは、発掘の仕事で「測量」に挑戦したときだ。
測量会社の方が、作業着の胸ポケットに入れて、つねに携帯していた。測量をするときには必ずそれを開き、なにかの数字を手早くメモしていく。それを見て、思った。
「なんか、かっこいい!(ざっくり)」
昔からなんでも形から入るタイプ。その日のうちに近所の本屋に駆けこみ、緑の表紙のオーソドックスな野帳を買った。
遺跡発掘人として、大きな一歩を踏みだしたような誇らしい気持ちになった。
「ヤチョラー」なるもの
野帳好きが案外多いと知ったのは、世のイラストレーターさまや博物館、企業などが、さまざまなオリジナル野帳を出していると知ってからだ。
すっかり野帳の魅力にとりつかれた私は、次第にそれらのオリジナル野帳にも手を伸ばすようになった。
それが8冊に達したころ、なんと野帳好きには「ヤチョラー」という名前がついていることを知る。
そうと知ったときには、ついつい笑ってしまった。
「そうか。私はヤチョラーってやつで、知らなかったけど、日本のあちこちに同志がいるのか」
調べてみると、ヤチョラーの方々はじつにさまざまな「野帳の使い方」をしていた。
薄くて、軽いので、持ち運びに便利な野帳は、たとえば「旅行記」を記すのにもちょうどいい。表紙が固いので、机がないような場面でも、立ったまま物を書ける利点もある。
そうと知ってから、それまで発掘の仕事のみに使っていた野帳を、生活のあちこちで活用するようになった。
「なんでも書いていい」野帳
重宝しているのは、「なんでも書いていい野帳」だ。
「今後やりたいことリスト」や「病歴」、「愛猫の可愛いと思った仕草日記」、「創作メモ」など、ともかく「なんでもかんでも」書きこんでいる。
そして、折に触れては眺める。
「へー、そういえばこんなことあったなあ」
「あ、これやりたいと思ってたけど、まだやってなかった」
「あー、このときの舞子(愛猫)、可愛かったなあああ」
古い記憶を、新鮮な気持ちで見つめるのは、けっこう楽しい。
「小説の執筆記録」としての野帳
そしてもうひとつ――とても大切にしている野帳。
それが、タイトルにもあるとおり、「小説の執筆記録」用の野帳だ。
小説を書く人間として、この野帳は本当に心の支えになっている。
執筆記録のおもな目的は、スケジュール管理。
商業出版に挑むにあたって、担当編集さんと、いつ、どんなやりとりをし、今後いつどんな〆切があるのかを記した。
最初こそ、ただのスケジュール帳として使っていたが、だんだん「ひとこと日記」の様相も呈するようになってきた。
……なんて創作にまつわる日々の出来事を、スケジュールの進捗状況を記すとともに、書きのこすようになったのだ。
創作活動をしていると、落ちこむことは無限にある。
筆を折りたくなる日も、心折れる日もある。傷つき、殻にこもって、心を閉ざしてしまうこともある。
そういうとき、私は「同じ苦しみを抱えているひとはいないか」とネットの海を泳ぎまわる。
けれど、創作活動においてネガティブ発言を控えるひとは多い。とくに商業出版について言えば、契約上、あるいは社会人としての常識上、書けないことのほうが多かったりする。(これは私自身もそう)
すると、「こんな苦しみを抱えているのは、自分だけなのかも」と逆に孤独になってしまう。
広大なネットの海で、ひとり溺れ、息ができなくなる……。
だれかに「わかるよ」って言ってほしい。苦しむ自分を否定しないでほしい。ただ、同じ苦しみを、同じ質量で分かちあいたい。
……なんて、そんな都合のいい人間いるわけない。過去の自分以外には。
野帳を読みかえして、気がついた。過去の私も苦しんでいたことを。
そして、もうひとつ気づかされた。立ちなおるまで何日もかかっていたりするけれど、過去の自分はちゃんと立ちなおっていることに。
それはそうだ。立ちなおったから、今の自分がいるんだ。
今の自分は、過去の自分のがんばりの上にある。
「そうか、過去の私もがんばってたね。だったら、今の私もがんばれるや」
「立ちなおれないかもって思うぐらいしんどいけど、前回も同じ気分を味わってたんだね。しかも、意外と三日で立ちなおってる! じゃあ、私も三日後には元気になってるかー」
過去にさまざまな経験を乗りこえてきた自分が、立派な背中を見せてくれている。
そう、意外なことに、過去、必死にあがいていた自分の背中は、今の私から見ればけっこう立派に見えたりするのだ。
受賞・出版が決まったとき、スケジュール管理のためにはじめた執筆記録だったけれど、二作目の刊行にあたっては過去の日記にはずいぶん心を助けられた。
とくに一冊目の出版前後で辛かったことの記録は、私の最大の味方になってくれた。何度も読みかえし、「うんうん、そうだったね」「わあ、そうだったっけね」と過去の自分と対話をした。
だから今回も、楽しかったことや、嬉しかったこと、苦しんだことは、前回以上にしっかりと書きこんでいる。
今後、商業出版にせよ、公募にせよ、趣味にせよ、あるいはまったく別の分野にチャレンジするにせよ、いずれまたなにかしらの壁にぶつかるだろう、いつかの自分のために。
きちんとした「日記」となると、大げさになりすぎて、「書くのが面倒」となったりする。
その点、野帳は小さくて、書くことへの抵抗感が少ない。
皆さんも一冊いかがですか?