見出し画像

短編|銀河バス停留所

 夕暮れどきだった。
 私はその日の仕事を終え、家の近くまで直通でいけるバスの停留所に立っていた。
 片手には、リサイクルショップで買った仕事用のバッグ。もう片手には、職場近くのスーパーで買った夕飯入りのビニール袋。
 ちなみに夕飯は、半額シールの貼られた「辛味噌モツ」。焼けばすぐに食べられる、下味のついたモツだ。
(臭い、もれてるかなあ)
 最近、やっかいな案件を任されたせいで、どうにも体がだるい。やたらと味の濃いものが食べたくて、つい辛味噌モツを手にとってしまった。
 買ったときはよかった。「今日はモツだ、ふっふぅ!」だ。だが、バス待ちの列に並ぶと、急にその臭いが気になった。
 私の前には二十人ほどが並んでいる。後ろにもどんどん人がやってくる。臭っていたら申しわけない。それになんとなく恥ずかしい。

 バス停は狭い歩道にある。みんな、隣家の壁に背を預け、車道を眺めるようにして立っている。
 落ちつかない気持ちでバスが来るのを待っていた私は、ふと私の前、つまり左隣が、小学生ぐらいの男の子であることに気がついた。
 少し長めの前髪が、今の子っぽくてかっこいい。なかなかのイケメン君で、きっとクラスではモテるだろう。
 ……なんて想像をするあたり、おばさんになったもんだ、としみじみする。
 と、男の子が私を見あげてきた。
 思考を読まれた!
 一瞬ぎくりとしてから、「いや、モツが臭うのかも!」とさらに動揺する。左手で持ったモツ入りビニール袋は、ちょうど男の子の顔の高さにあったのだ。
 さりげなく袋を右手に持ちかえ、なるたけ皆さんから遠ざけると、男の子は今度はバス停の看板に目をやった。二十人向こうに立つ、時刻表の書かれた看板だ。
 男の子がポケットから取りだした子供用の携帯電話に目をやる。そして、またバス停の看板を見る……。

「あ、場所、とっておくよ。見てきたら?」

 私はなぜか自然と、そんなことを言っていた。
 男の子はびっくりした顔で振りかえってきた。私もびっくりした。声をかけるつもりなんてなかったのだ。
 男の子はとまどいながら、列を離れて小走りにバス停の看板に向かう。右隣の男性が不思議そうな顔をしていたが、私は男の子が空けたスペースをしっかり守る。
 やがて男の子が走って戻ってきた。空いた場所にすぽんとおさまり、こちらをにこっと笑って見上げた。

「ありがとう」
「いえいえ。……時刻わかった?」
「わかった。二十九分発。このバス停が始発だから、そろそろ来る」

 二十九分発。私の乗るバスは三十四分発だから、どうやら行き先がちがうようだ。
 それにしても、ずいぶんしっかりした言葉遣いでしゃべる子だ。感心していると、男の子はふたたび携帯電話を開いた。ディスプレイには、秒針つきのアナログ時計が表示されていた。
 男の子はちらりと私を見上げ、ディスプレイをわずかに私に見えるようにかたむけている。
 私はおかしくなって、笑った。

「かっこいいね、その時計」
「でしょう!」

 欲しかった反応を得られたからか、小さなイケメン君は満面に笑った。

「秒針が表示されるように設定したんだ。ぼくにとって、『秒』はとても大切なものだからね」

 なんだかかっこいいことを言うなあ。
 私は「秒かー」とつぶやいた。
 一秒が大切という感覚はとてもわかる。わかるけれど、男の子が言う「大切」という言葉には、どこか宝物をいとしむような輝きが感じられた。
 私が大切に思う「秒」はどうだろう。一秒でも長く寝ていたい。一秒でも早く仕事を終えて、家に帰りたい。あと一秒あれば、この仕事を完ぺきに終わらせられる。
 私の「秒」は、どこかくたびれている。
「あ、そろそろ二十九分だ。あと三十秒。見ていて。そこの角からバスが来るから」
 私が感心したことに気をよくしてか、時計を掲げ、得意げに右向こうの角に顔を向ける男の子。
「十、九、八、七、六……」
 まさか。いくら始発でも、そんな秒通りに来るはずない。
 けれど、男の子の目は自信に満ちて輝いていた。
 まさか、まさか。けれど私は不思議と、男の子が奇跡を起こすのではないかと、そんな予感を覚えていた。
「三、二、一……」
 気づけば、男の子と一緒に声をあげていた。

「ゼロ!」




 
 隣の男の人が、笑いをこらえるように咳払いをする。
 私は頬が熱くなるのを感じながら、車一台やってこない角から視線をそらした。そーっと男の子に目をやると、彼は唇をぎゅっと引き結び、やっぱり赤くなってぷるぷると震えていた。
「……遅れてるんだよ」
「そ、そうだね」
「始発だけど、そういうこともあるよ」
「うん。あるある」
 男の子は気まずそうに携帯をいじって、突然、怒ったように私の顔を見上げてきた。
「お姉さん」
「は、はい」
「バスが来るまで、いっしょにゲームする?」
「ゲーム?」
「うん。宇宙を旅しよう」
 照れかくしの手段を得た男の子は、にやっと笑うと、携帯電話を操作し、ディスプレイを私の顔の前につきだしてきた。
 宇宙だ。そこに表示されていたのは、地球や火星、木星、土星、星雲や銀河といった美しく壮大な宇宙の映像。
「これ、学校ではやってるゲーム。宇宙を探検できるんだ。ほら!」
 男の子がなにか操作をすると、画面が惑星のあいだをすりぬけ、宇宙を泳ぎはじめる。私はぽかんとした。
  ああ、なんてことだろう。この子は、私が「寝ていたい」としか思わない「秒」を使って、宇宙を旅しようというのか!
 男の子の輝く瞳のなかに、壮大な宇宙を見る。まばゆく輝く銀河。土星や水星、紅色の薔薇星雲、星座もわからないほどまたたく星々、流れていく帚星……。
「あれは水星、これはアンドロメダ星雲! 見て、オリオン座のベルトだよ」
 男の子は宇宙遊泳をするディスプレイの映像を見ながら、自信満々に教えてくれる。
「そろそろ地球が見えてくる。今度こそ本当だよ。三、二、一……」
 ゼロ!
 男の子が叫んだ瞬間、暗黒の宇宙に、真っ青に輝く地球が現れた。
 私は「わあ」と歓声をあげた。まるで眼前に、広大な宇宙と、そして巨大な、あまりにも巨大な青い星が現れた気がした。
 そりゃあ、「秒」が大事なわけだ。
 だって宇宙はかぎりなく広い。
 何億光年あったって、旅しきれないほどに果てしないのだから――。
 ファンッ、とバスの警笛が聞こえた。
 はっと顔を向けると、まばゆいヘッドライトが夕暮れの薄闇を切り裂き、こちらへと向かってくるところだった。
「あ、バスが来た。もう。始発だっていうのに、五分三十秒も遅れたー」
 男の子はぶつくさと言って、私を見上げる。
「お姉さんは、あのバス、乗る?」
 乗ったら、あのバスは銀河鉄道ならぬ銀河バスになって、宇宙への旅に連れていってくれるだろうか。
「私、三十四分発のに乗るんだ」
「そっか」
 男の子は笑って、手を左右を振った。
「場所、空けておいてくれて、ありがとう」
 男の子を礼儀正しく言って、バスに乗りこむ。扉がしゅんっと音を立てて閉じ、明かりのともったバスの中で、男の子は一番前の高い席に乗った。タイヤの上にあって、少し高くなった席は子供に人気だ。
 男の子はもう振りかえらなかった。熱心に携帯電話を見ている。きっと宇宙の旅をつづけるのだろう。
 銀河バスが去ったあとのバス停、すこし短くなった列に並び、私は次のバスを待つ。
 道の向こうに並ぶ餃子屋と、クリーニング屋の白壁が、茜色に染まっている。夕刻の優しい空気のなかを、ふたたびライトをつけたバスがやってきた。
 私は半額シールの貼られたモツ入りのビニール袋を掴みなおし、バスに吸いこまれていく人の群れに続く。
 今日は一秒だけ遅く寝よう。そんな決意をする。その一秒で、夜のベランダに立つんだ。星空を見上げたら、その一秒はきっと宝物となる。


(おわり)



お読みいただき、ありがとうございました!
東京都世田谷区に住んでいた頃、等々力のバス停で出会った少年と交わした会話を短編小説に仕立てたものです。

いいなと思ったら応援しよう!