エッセイ|一瞬スーパーマンになった
昔、中国に留学をしていた。
留学先は、中国の南部「雲南省」と呼ばれる、少数民族自治区。
平均海抜2000メートルで、慣れないと階段をのぼるだけでも「ぜぇはぁ」と息があがる高地だった。
私が暮らしていたのは、留学先の雲南師範大学の教員宿舎だ。
外に引っ越した教員が、大学からあてがわれた部屋を、安価で生徒に貸しだしてくれていた。
いっしょに暮していた「同屋(トンウー/同居人)」は日本人女性。
学校で、同級生が「借りてる教員宿舎から引っ越すことになったんだけど、だれか借りたいひといる?」と声かけをしていたところ、たまたま「はい!」と手を挙げたのが、私とその同屋だった。
お互いにマイペースな性格で、まったり自炊生活。
人生ではじめての赤の他人との共同生活だったが、楽しかった。
だが――。
事件は起きてしまったのだ。リビングで。
ある夜のこと。
リビングで、同屋とおしゃべりを楽しんでいた。
ローテーブルを挟んで、向かいあう形でソファに座っていた。話題は、なんてことのない日常の話。雲南省はコーヒー豆の名産地として知られており、手元のマグカップにはコーヒーが入っている。
このとき、私はちょっとコーヒーをなみなみと注ぎすぎてしまった。
カップのふちギリギリまで、コーヒーを入れてしまったのだ。
(持ちあげたら、こぼれるなあ)
そう思い、マグカップを持ちあげることをあきらめ、自分の顔をマグカップに近づけた。お行儀は悪いけど、「ずずず」と上澄みをすすって、カップを持ちあげやすくしようと思ったのだ。
その直後だった。
バチッ、と音がした。
一瞬で、部屋がまっくらになった。
「え?」
声をあげたのは、私だったか、同屋だったか。
……しばらくして、ふたたび電気がついた。
私は呆然としながら室内を見渡して、妙なことに気がついた。
電気が消える前と、部屋の状況がどこかしら変わっていた。
なにが変わったのか……そう、たとえば、私のいる位置が変わっていた。
同屋の対面のソファに腰かけていたはずなのに、気づいたら、同屋の斜め横にあるソファで、うつぶせに寝転がっていた。スーパーマンが空を飛んでいるときのような体勢だ。
同屋を見ると、半分笑ったような顔のまま、凍りついていた。
その顔を見た瞬間、私の脳裏に、電気が消える直前の出来事が、すさまじい勢いでよみがえった。
バチッ、と音がしたのだ。
マグカップのふちに口を近づいていた私は、え、と視線だけを上にあげた。
天井から、なにかがこちら目がけて急接近してくる!
その正体は、天井に設置されていたガラス製の電灯だった。
それが、いきなり外れて、落下してきたのだ。
それも真下に落下したのではない。電灯から伸び、天井を這っていたコードが支点となり、振り子のように、あるいはターザンのように、斜めの角度で落下してきたのである。
そして、その軌道の先にあったのは、コーヒーをすするために身をかがめる前、私の頭があったところ――。
飛んでくる物体を目にした瞬間、おそらくほぼ獣の本能で、右横にあったソファへと飛びこんだ。まったく記憶には残っていないが、そういうことなのだろう。スーパーマンよろしく斜めに飛んだのだ。
直後、部屋が真っ暗になり、そしてまた電気がついた……。
「すごくない? コーヒー、一滴もこぼれてない」
状況を把握した私は、おもわず同屋にうったえる。
直前まで口をつけていたはずのマグカップからは、一滴たりとコーヒーが零れていなかった。
じつはあの一瞬のさなか、「あ、コーヒー零さないようにしなきゃ」と思った記憶が、ちょびっとだけ残っている。なんだろう、この無駄な気づかい。
あとで確認したら、電灯はレンガの天井に釘で打ちつけてあるだけだった。釘が電灯の重さに耐えきれず、ついに落下したわけだ。
それを知らなかったらしい家主である大学の先生は「これは施工業者が悪い。こんなの、いつか落ちるに決まってる!」と怒っていた。
写真ではわかりにくいが、電灯はかなりの重量級で、衝突された壁にはヒビが入っていた。
あのとき、もしも、コーヒーをなみなみに注いでいなかったら。
お行儀悪くも、マグカップへと顔を近づけようとしていなかったら。
私の額には、ヒビが入っていたかもしれない。
それを思うと、よくよけたものだと思う。
あの瞬間だけ、私はスーパーマンだった。
ただし、守ったのは、市民の安全じゃなくて、自分のでこだけど。