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父の記録⑦|特養から老年専門の病院へ

父、特養から病院へ

2023年3月頃、父は発熱、尿路感染症から敗血症の疑いで、特養からあめ市民病院(仮名)に移った。
あめ市民病院に入院後、先生と母と私で面談した。父の様子について、「せん妄と思われる発言がある」こと、また「嚥下の力が弱く、誤嚥の危険がある」と言われた。
せん妄とはそのとき初めて聞いた言葉であった。先生によると「いま自分がどこにいるのかわからない」「時間がわからない」という症状が出たりするという。このほかに父は「病院スタッフに突然『パソコンが』…と言い出したりした」とのことだった。やっぱりパソコンが大好きなんだな、と妙なところで感心してしまった。
この時期はまだコロナの影響もあったが、短時間だけということで病室に入れてもらった。ベッドは窓から離れた場所でカーテンに仕切られていてやや薄暗かった。「これは健常者でも、うとうとしていたら今が何時かわからないかも」と思った。先生が「今何時かわかる?」「パソコンがって言ってたの覚えてる?」と話しかけたところ、父はある程度正常な受け答えをした。

中心静脈栄養

飲み込みむ力が弱まったことについて先生は「頚椎損傷の段階が一歩進んだ」というような表現をした。頚椎損傷のけがを負ってから年数が経ったことで、残っていた力も徐々に弱まってくる、ということだった。栄養を補うため、中心静脈栄養について説明された。鎖骨の辺りにカテーテルを入れ、そこから栄養を送る方法だそうだ。カテーテルを入れるにあたり、家族の同意を求められた。父本人の意思確認はなく、手続きは家族だけで進められた。

島津中央病院へ

1ヶ月後、容体は安定したが、中心静脈栄養は続ける必要があるということで特養に戻るのではなく、島津中央病院という高齢者専門の慢性期の病院に転院することとなった。実は島津中央病院のほかにもう一つ「こちらはいかがでしょう?」と紹介された病院があった。その病院は母にとって気の進まない病院であった。「入ったら生きて出て来られないんだって。そんな病院ではお父さんがかわいそう」と母は言う。高齢者の病院なのだから、ある程度当然なのでは?と思ったが、母の強い希望で、島津中央病院となった。
後に一時的に老健に移るが、この病院で最期を迎えることになる。

母の聴こえの問題

母は子どもの頃に中耳炎をこじらせたのが原因で、片方の耳があまり聞こえないと言っていた。ただ、若い頃は電話交換という、むしろ耳を使う仕事をしていた。私が子どもの頃も日常生活に何ら支障はなかった。しかし、老齢となって、もともと弱点であった耳から急速に衰え、聞き取りが難しくなったようだ。コロナ禍により、パーティションやビニールカーテンを隔てて話すことが日常となり、さらに聞こえにくい状況である。病院の先生との面談や転院にあたっての相談員さんとの打ち合わせでは、眉根を寄せて黙り込むことが多く、聞こえなくて困っているのか、判断がつかなくて困っているのかよくわからない様子であった。
かつては父のことは「自分の役割」と背負い込んでいた母だったが、一人ではその役割をこなせなくなってきたようだ。
それでも転院に向け、島津中央病院の相談員さんから渡された準備リストを一人で丁寧に読んで、パジャマ、マスク、コップなど指定されたものを用意し、すべてに指示通りマジックで名前を書いて、きちんと準備を整えていた。

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