「性格の不一致」の尊さ
似た者同士がうまくいくとか、性格の不一致で離婚する夫婦とか。
わたしに言わせれば「ンナロー勝手に言ってろボケェ」案件である。
こんな小説を書いた。
人の逆鱗に触れないように気をつけながら生きている女の子と、人の逆鱗に触れようがなんだろうが自分のしたいように生きる男の子の恋愛小説である。
と言えば聞こえはいいけど、結局内容としてはルッキズムに真正面から挑んでどちゃくそに敗北する話なので、悪しからず。
たくさん恋愛小説を書いてきたけど、このふたりほど意見が違って衝突しているカップルは、いない。
そしてこの作品は、わたしの個人的な観測では、当社比でかなり多くの人に読まれ、愛されている。
とてもありがたいことだ。
性格の不一致ってなんだろう。って時々考える。
わたしは、現実社会(主に学校)にあまり適合できず、そこで出会った数少ない友人たちとも、今はあまり連絡を取っていない。
わたしが遊ぶ友達は、もっぱらインターネットを介して知り合った人たちだ。
本名も知ってるし何なら住んでる家に行ったことがあったりもするので、ネットの友達、と言うより、ネットでも喋る友達、に近い人もいるけど。
で、この、友達。
たぶん、みんな性格が不一致だし、なんなら価値観もバラバラである。
創作つながりでみんなと出会っているから、その性格や価値観を「作風」に紐づけると分かりやすいんだけど。
たとえば、お互いの作品を好んで読み合わない、みたいな相手も少なくはない。
でも、わたしたちは会えば喋って楽しく遊んでいる。
もちろん、恋人や伴侶として長い間一緒にいて、生活や財布をともにするという面で言えば、ある程度の一致が必要なのかなとは思う。
ときどき会ってパーッと飲んで遊ぶのと一緒にされるのはたまったもんじゃないかもしれない。
でもわたしは、思う。
似た者同士だろうと性格が不一致だろうと、結局うまくいくかどうかって、本人たちのそれぞれ違うかたちをジグソーパズルのようにはめたとき、うまく噛み合うかどうかだろう、と。
むしろ、まったく同じかたちをしているピースたちは、噛み合わない。
かたちが違うからこそ噛み合う。
ここで言う噛み合うは、お互いのその自分と違う価値観や考え方を尊重できるかどうかだ、と思っている。
たしかにこのことについてわたしたちはまったく異なる考え方を持っている。それを認めることはできないが、否定はしないでおきたい。
そういう気持ちになれるかどうかだ。
前述した作品で、最初、主人公たちはさまざまなことで衝突する。
ありえない、どうして、信じられない、そんな気持ちを、相手の価値観にお互い抱いては喧嘩をする。
けれど、いつしかお互いその価値観に至る思考などに触れ、分かりたいと思えるようになっていく。
もちろん、お互いの考え方を迎合しているわけではない。嫌なことには声を上げるし、どうして、と疑問をぶつけることもやめない。
でも、ふたりは最終的に、誰よりも強い力で惹き合うようになる。
それはたぶん、相手が自分にないものを持っていて、それを尊重しようと努力していけるからだ。
それほどに、相手を強く想えるからだ。
このふたりが現実世界にいたら「性格の不一致」で別離を選ぶだろうか。
わたしは、あまりそう思わないでいる。
そもそも性格が一致している人なんてほぼいない。
同じような環境で育った家族だって、同じ性格の人はいない。
だから、みんな性格は不一致だ。
そこで離れてしまうのと、離れてしまわないのの二通りあるのはなんなのか。
そこが結局は、お互いのかたちを尊重できるかどうかの違いだと思う。
たとえばわたしの両親の話をする。
驚くほどにまったく違う性格をしている。
自己主張が強くプライドが高く、自分が絶対に正しいと信じ、勉強熱心な父。
のんびりとしていてだいたいのことを軽く受け流し、大らかな愛情を持つ母。
わたしは父がずっと苦手だった。
どうして母は父のあんな無茶で理不尽な要求にへらへらと応えているのだろうと疑問だった。
結局、両親の関係は、母の我慢によって成り立っていたところが大きかった。
数年前、とうとう母の忍耐が決壊し、離婚寸前まで追い込まれたことがある。
あのときの家の空気はまるでお通夜のようで、暗かった。
それ以来、母は、父が何か理不尽なことを起こすと反抗するようになった。
ふたりの衝突は目に見えて増えた。しかし、それがおそらく父に気づかせた。「母にもきちんと嫌なことや自我がある」ということを。
あの、離婚寸前になったときのまま、母が我慢をしていたら今頃どうなっていただろう。
今でもときどき想像する。
でもきっと母は、父と向き合いたくて、それで自分のことを、自分がするように尊重してほしくて、それで牙を剥いたのだと思っている。
父が母のことをどう思っているかは知らない。こどもが生まれたら夫婦は男女じゃなくなる、なんていうのも聞く。
でも、たとえそうなっても、親たちは性別を無くして父母になっても、人間であることには変わりがないのだ。
もし、誰かとずっと一緒にいたいなら、その誰かの気持ちを尊重しないといけない。
理解して納得しなくていい。そういう考え方を、きみはするんだな、でいい。
そして、それについてわたしはこういうふうに思っている、と伝えればいい。
お互いがお互いの気持ちや考え方を理解できなくても、たとえば何かでぶつかったとき、あの人はこう考えるからこうしてぶつかってしまったんだ、と分かることができる。
前に、話の通じない価値観が全然違う弟のことをnoteに書いた。
ここでも、自分の価値観を相手に押しつけることの怖さを書いた。
自分の価値観を押しつける行為は、相手の自我を潰す行為だ。
それをしてしまうと、相手は自分に対してある種の諦めを抱く、と私は思っている。
この人には何を言っても無駄だな。分かってもらえないんだな。
そうして、ゆっくりとフェイドアウトされていく。
だからわたしは、この人と仲良くしたいと思ったら、価値観が違うことにおびえないでいたいと思う。
違って当たり前なんだ。
でも、だからなんだ。
自分と重ね合わせて折り合いの悪かった場所を、責めるのではなくそうなんだと思ってあげたい。
それは、かなり難しいことであるんだけど、諦めないでいたい。
というのが、信条でもあるけど。
まあ、仲良くしたいわけじゃないなら、合わない、って思った瞬間ブロックしたりミュートしたりなんだかんだすればいいと思う。
わたしは、万人を受け入れるクソデカ器になりたいわけではないので。
大事な人を、大事にしたい。
これも一種のわたしの独自の価値観なので、そう思わない人もいるんだろうな、と思うだけである。
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