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わたしが絵を描けない理由

 小説も書いて絵も描いてる。
 という人はたくさんいるし、マジでそういう人たちのことすごいと思う。

 わたしは、絵がまったく描けないに近い。
 人体を描けば骨折するし、描けてせいぜい生首。

 描けたらいいなとは思わない。わけはない。
 描けたら表現の幅は広がるし楽しいと思う。
 でもわたしは絵を練習しようという強い意志がない。
 これから話すことは、あくまでも一物書きの意見であり、わたしと意見の異なる人を攻撃する意図でないことは確実なんだけど、そう見えたらスマン。


 小説の登場人物はこんな顔でこんな服を着てこんな雰囲気で。
 それをイラストで、作者である自分自身が表現する。
 それ自体に抵抗はない。
 実際生首で自キャラ描いてるしな。

 でも、わたし自身が「Aくんはこれです!」って確固たるものを出したら、読んでくれていた人のAくんが死んでしまうのだ。
 それはたとえるなら、好きだった小説や漫画が実写化したときの配役に「違うおまえじゃない!!!!」と感じるあの気持ちに近いのではないだろうか。

 小説内でも描写はする。でも、字で表現されたそれをどう頭の中で具現化するかは人によってかなり違う。
 描写されていない部分は個々の補完だし、たとえば「短い髪の毛」もたぶん坊主から顎下までのブレはある。

 ウェブ連載とかで連載当初から「あて書き」の手法で登場人物のイラストがあれば、役を担う俳優に「違うおまえじゃない!!!」みたいな気持ちを抱くがごとくの悲劇はある程度避けられる。
 それでもわたしが「最初から絵を用意すればいいんだから絵を練習しよう!」とならない理由が、ある。

 みんなのAくんが好きだ。

 たまにいただくファンアート、同じキャラでもみんな雰囲気が違う。
 わたしが描写しなかった細部を「これがわたしのAくんです」として表現してくれている。
 たまに、想定外の服を着ていたり、わたしが思い描きながら書いていたAくんとは似ても似つかないAくんもいただく。

 もしかしたら…嫌な人はいるかもしれない。
 Aくんは長髪なのにどうして肩までしか髪の毛がないの?
 Aくんは背が低いのにヒロインとこんなに身長差があるの変だ!
 と、思う作者さんもいるのかもしれかない。

 気持ちは分かる。分かるけど、わたしにとっては、ファンの方が描いてくれたAくんはすでにわたしのAくんではない。
 物語は作者の手を離れ読者に渡った時点で作者のものではなくなっている、と思っている。
 そこで泣き笑い日々を過ごす登場人物はすでに読者のものなのだと。

 だから、読者の皆さんの数だけの「Aくん」に生きていてほしくて、わたしは答えを提示したくない。
 まあ、「絵の練習するのめんどい理由に読者使うな」みたいな気持ちを抱かれるかもしれませんが、これね、なまじ描けてしまうと絶対描きたくなるから、それならそもそも絵力53くらいのほうがいいんですよ。これはマジ。

 これはわたしの感覚なので、やっぱり解釈違いが無理な作者さん/読者さんはいるだろうし、一創作者の意見として、こんな気持ちもあるんだな〜と思ってもらえたら助かります。

 ていうか、そもそもわたしの書いてる作品、多くが現代日本が舞台で、日常の中の非日常を切り取っているがために…、

「キャラがイメチェンするのも全然不思議じゃない世界線」

 なんだよな…。髪切ったり伸ばしたり染めたり、ピアス開けたり、服のテイスト変えたり化粧変えたり…。
 だから解釈違いが起こりづらいてのもある…。

 ちなみに同人誌で表紙を依頼して描いていただくキャラクター絵は、「わたしの言葉を濾過して描いていただいた、イラストレーターさんの答え」であり、わたしの解釈にはかなり近づいてるが、あれもひとつの正答であり誤答だと思ってる。
 イラストレーターさんの「Aくん」を見ると、ファンアートをいただいたときと同じような「誰かのAくん」を見た気持ちになって、うれしくなる。

 正しい「Aくん」はどこにもいないし、どこにでもいるのである。

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宮崎笑子
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