生きてゆくということ
人の死を悼む、ということについて。
多くの日本人の宗教スタイルについて造詣は明るくない。
日本には八百万の神様が、とかいう話をする気は毛頭ない。
火葬の是非だの土葬の是非だのその他もろもろの葬への是非も話す気はない。
人はいつか死ぬ。おしなべて、みな一様に、いつか死ぬ。
財があるから、美があるから、力があるから、徳があるから、永遠に生きながらえるわけはない。いつか死ぬ。
人の死を悼む、とかく日本におけるその様式について。
黒装束に身を包み、導師を呼びお経を唱えさせ、最後には燃す。
これが、一般的な日本での別れの作法だ。
幾度か導師の説法を聞いてきたから分かるが、仏教の教えとして、死者は解放されたのだというものがあるようだ。
現世から解放され御仏のもとへ。これからは煩悩から解き放たれて自由になる。
わたしは仏教徒ではない。と言うか、多くの日本人が仏教徒ではないと思う。
詳しくは知らないし、正直日本での「常識」や「倫理」は仏教的教えに基づいているような気がする、とは思うけど。
それでもわたしは、仏教徒ではない。
黒い服を着て、気の遠くなるようなお経を聞き、火葬場のだだっ広い待合を空虚な気持ちで眺めていたとき。
わたしは、自分が自分でないような、ここにいるのにいないような、言うなれば現世と切り離されたような感覚に陥った。
葬式の一連の時間のすべてを、そう感じた。
故人との別れで涙を流している自分ですら、どこか遠いところから眺めているような。
祖父母のときはそんなことはなかったような気がするが。
悲しいし、さびしいし、もう会うことができないと実感すればするほどそれらは涙となって噴き出す。
それでも、切り離されたようなそんな非現実的な感覚ではなかった。
どれだけ「生からの解放」なのだと説かれても納得ができない。
いなくなるということは、その人の「これまでの話」しかできなくなることだ。その人と「これからの話」ができなくなることだ。
あのときあんなことがあってあのこがさ。という話しかできない。
そのことに気づいたとき、わたしはいまだに自分が死を悼めていなかったことに、気づかされた。
黒い服を着て、お経を聞き、燃されたからだの残骸を壺に詰めたにもかかわらず。
わたしは、死を受け入れていなかった。いや、いつかひょっこり「ただいま」と、何事もなかったかのように帰ってくるのではないか、実はいまだに、そう思っている。
形式ばって見送ることに抵抗があった。そんなことをしたらほんとうにいなくなってしまう、そう言って抗った。
ほんとうに、ってなんだろう。もういないのに。
人の死を悼む、ということについて。
人の死を人が受け入れるのはいつだろう。
その瞬間? 葬式? 四十九日? 一周忌?
きっと、そのどこでもない。
わたしたちは受け入れられないまま残される。
日常生活はつつがなく送っている。
それでもふとした瞬間に考える。ああ、いないんだ、ということを。
有名な少年漫画の登場人物が死に際に遺した言葉を考えている。
人が死ぬのは死んだそのときではなく、人に忘れられたときだ。という言葉。
わたしはきっと忘れることができないのだろう。
だから悼めない。死んでいないものを悼むことはできない。
いつか。
いつかひょっこり「ただいま」と帰ってくることを、たぶん、今度わたしが死ぬまで待っているんだろうな。
生者にはそれくらいしかできないね。