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「生きづらさ」に「鈍感」であれ?

「この作品のこのキャラの行動が私の感じていた生きづらさを救ってくれた」

「こういう行動をとることで生きづらさとの調和をはかろうとしている」

「社会のこういう仕組み(周囲のこうした対応)が私の生きづらさを生んでいる気がする」

 というような言葉を、タイムラインで見かけることがわりとある。
 生きづらさという言葉について、ずっと鈍感だった。


 特別、現代日本がわたしにとって「生きやすい」のだとは思ってない。
 ジェンダーのこと、自己が抱える病のこと、今の立場から求められるロールと自己との乖離…などなど、考えれば考えるほど生きやすくはないなと思う。

 だけどわたしは自分で「この社会、生きづらいな」と思ったことはない。
 抑圧されていると思ったことも、押しつけられていると強く感じたことも、ほとんどない。

 ある意味で鈍感だったのだと思う。
 小さな違和感が仕事をする前に「なるほど、こういうことなのか、そういうシステムだからわたしの道理は通らないわけか」と納得できる体質だったんだと思う。
 自分と他人の内情など比べられるはずもないので、「みんなこんな感じの気持ちで生きてるんだもんな〜」と無意識に感じて納得していたんだと思う。

 取り急ぎ今その感性の是非は置いておく。

 生きづらさとは何なのだろう、という問いに答えが出ていない。
 だってわたしは未だに生きづらさに対して鈍感で、小さな憤りや困ったこと、自分だけが煩雑な処理などをさせられていることに関して、面倒だなあ、以上の感情を抱けないのだ。
 それこそ、わたしは左利きなわけだが、左利きであるために日常でふとしたときに感じる煩わしさ、程度にしか自己の生きづらさを認識していない。

 もしかしたらわたしは実際、生きづらさを感じる立場にすらないのかもしれない。

 生きづらさを感じている人たちのことはよく分からない。わたしはその人たちではないから。
 昔、ほんとうに昔のことになるけど、匿名の誰かに「悩みとかなさそうな話書きますね」みたいなこと言われたことがある。
 辛辣にわたしを傷つける意図で放たれた言葉であることは当時から明白だったけど、それを置いても解せない点がある。

 悩みがなさそうな話だからなんだろう?

当時、生きづらさという言葉すら知らなかったけど、折に触れて思い出すようになった最近、ああこれは生きづらさを感じていないお気楽な人生ですね、という指摘だったのかも? と思うようになった。
 発言者にその意図があったかどうかは置いといて。
 わたしの創作では登場人物が理不尽に社会(そのものの構造や多数の人の意見)から苦しめられることは少ない。
 迫害されたり、差別されたり、いじめられていたり。
 登場人物はいつも自分の感情を持て余し報連相を忘れて意中の相手と空回りを演じている。

 たぶん作者自身が社会の理不尽に鈍感だから、登場人物を敏感にできるわけもないのだろう。


 理不尽に鈍感なことは、善だろうか、悪だろうか。
 社会からすれば、歯車として優秀だとは思う。
 思考停止のバカほど扱いやすいものはない。

 ただ、それが個として悪だとはどうしても思えない。
 思考停止のバカ、という強めの言葉を使った時点で、わたしは自分自身を貶している。
 でも決して思考停止しているわけでもない。バカはそうかもしらんが。

 たとえば今わたしは情報をなるべくシャットダウンしている。
 ショッキングな出来事に自分の精神が簡単に引きずり下ろされるタイプだと分かっているが故の自己防衛だ。
 悪いけど、頻繁に話題に出す人を今Twitterでミュートしている。

 情報という武器が鋭さを増す今、何が真実で嘘かも分からない。
 大手のメディアが報道しているからほんとうだとも確信できない。
 そんなセンシティブなものを真偽もさだかでないままリツイートしたりすることは、争いへの加担だと思ってる。

 話が逸れた。

 話題に出さない、情報を取得しないからそれに対して無関心なわけではない。
 なるべくいつも通りのSNSを心がけているだけだ。
 それは考えた結果の行動なのに、話題に出さないで気楽なことを言っているのは思考停止なんだろうか。と疑問視している。


 さて、生きづらさという感情について。
 思考停止しているから生きづらさを感じていない、というわけではなく、考えるからこそ生きづらさを覚えないんじゃないかと思っている。
 他人もわたしと同じくらい大変で、その大変のカテゴリが違うだけで、みんなこれくらいの煩雑さ、孤独感、抑圧、などなどは感じている。
 だからわたしが特別生きづらいわけではないのだろう、と考えた結果だ。

 おまえのチンケな大変さと一緒にすんじゃねーよ。
 と思う方は思ってくれてかまわない。
 あなたがそう思うのならそうなのだろう。
 あなたは特大の生きづらさを感じて、それをもって他人を蔑ろにすればいい。

 まあ実際、わたしはある程度現代社会で生きやすい環境・感性の持ち主なのかもしれないし。

 あなたが感じる生きづらさ、息苦しさは、あなただけのものだ。
 ほかの誰かのものにはできないし、一生解放されることはないかもしれない。


 だから、生きづらさを振りかざして襲いかかってくることはできればご遠慮願いたい。
 あなたの痛みはあなたのものであるのだが、他者に理解してもらおうと強要した瞬間それは醜悪な武器となるから。


 多様性だのなんだの叫ばれて久しいけど、わたし個人の感想としては「自分と違う思想の人がいるという理解はできるけど、その思想を理解することはできない」なので、わたしにはあなたの生きづらさを理解できない。
 逆も然りでわたし自身のことはほかの誰にも分かってもらえないのだから、わたし個人としては「生きづらさ」とはなんぞ? に結局行き着いてしまう。

 生きづらさを生きづらさと感じない鈍感さが、わたしの処世術であるのかもしれない。

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宮崎笑子
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