神様は宗教嫌い!?
救われるには、信じるだけでよい? それとも行いも必要?
とてもシンプルなこの問い
キリスト教の根幹とも言える救済論の中心的な問題で
これが原因で宗教改革が起こり
このためにプロテスタントとカトリックが分裂しました。
要は殺し合いが起きているわけです。
黙示録を読むと、未来においてもこの殺し合いは継続します。
この問いこそが、カルトと正統なキリスト教を分けるカギになります。
救いは信仰のみによるものか?
それとも信仰と行いの両方を必要とするのか?
人は果たして、イエスを信じるだけで救われるのか?
それとも、信じるだけでは不十分で
善行を積むことで救いを達成できるのでしょうか?
「救われること」と「弟子になること」は別
福音を信じたばかり(=救われたばかり)の人は、いわば新しい命を得た赤子のような存在です。赤子は、周囲から愛を受け、大切にされ、食べて飲んで成長していきます。言葉を覚えて、周囲の人との交わりを通じて学び、精神的にも成長していきます。一人前の弟子になるには時間が必要なのです。
キリストの弟子となるには順序があります。1をすっ飛ばして2に行けません。先ず、福音を信じていない人がイエスの弟子になることはないということです。1と2を同時に始めることもできません。弟子になるには、神に愛されたという実体験、愛されている確信、弟子になりたいという意志、成長するための時間、(招き)、聖書知識の習得、修練・鍛練が必要となるからです。そのために時間が必要になります。
福音を信じた人たちは、聖書には"聖徒"とか"信者"として登場します。この中から、時間をかけて、聖書を学び、修練を積んだ人たちが"弟子"として神の働きを担うようになります。必ずしもすべての信者が"弟子"になる必要はありません。弟子でなくとも、福音を信じていれば、それ自体で救われているのですから。
著名な聖書教師、R・デハーン(1891-1965)は、救われることと弟子になることの違いをはっきりと区別していました。
一部の教会では、この救いと弟子になることを一括りにして、集まる人たちに強いている気がします。要するに、この区別を無視して、高い弟子の基準を信じたばかりの信者に強いている、という現実があります。信者になって以降の愛に基づいた行い、教会や隣人への奉仕、キリストの弟子として生きることは素晴らしいことです。ところが、こうした事柄について、ハードルが高いと感じる人も少なくないはず。そう感じるのは当然です。生まれたばかりの赤子(信じたばかりの人)に、大人の行い(弟子の行い)を強要するのは、幼児虐待です。
実際、信者たちのグループは、その背景、人格、民族性、年齢等によって、異なる層がグラデーションを形成しつつ幾層も連なっています。例えば、福音を信じて救われたばかりの人から挙げると … 救われたばかりの信徒のグループ ⇒ 神をより深く知りたいと願う信徒のグループ ⇒ 神に仕えたいと願うようになった信徒のグループ ⇒ 神に仕えるように、隣人に仕える実践を始めたグループ ⇒ イエスの弟子になりたい信徒のグループ…というように、救われてから弟子になりたいと願うまでには、幾つかの段階が存在しますし、この段階は在ってしかるべきです。
だから先ず皆にお勧めしたいのは、救い。神との和解。一般的な日本人のようにキリスト教の背景がない場合、神を知ることが第一歩となります。まったく知らない者を、人は愛することができません。その人の歴史や背景など知識を得ることで、情緒的な交わりが増え、そうして交流を重ねるうちに相手のことを信頼し、愛することができるようになります。貴方が友人を作る時と同じで、この過程には時間がかかるし、かけるべきです。
無論、神は貴方が弟子となることを望んでおられます。貴方が自ら望んで奉仕し、隣人を愛することも望んでおられます。しかし、その行為があなたを救うわけではありません。救いと弟子になる決心は別物です。人は信仰によって救われた後、本人の意思によって弟子になるのです。デハーンが言うように、弟子になるにはコストがかかりますが、救いは無償です。
「信仰による救い」こそ、神が神である証し
今でも「救われる」にはイエスの"弟子"でなければならない、あるいは、(善い)行いが必要であると考える信者が相当数いることは確かです。ただ、聖書はそのように教えていません。弟子であるためには、先ず救われることが条件です。救われるために弟子になければならないというのは、本末転倒です。
救いが、行いによるなら(=弟子になる)、イエス・キリストの弟子となるには、努力と犠牲と自己鍛錬が必要です。純粋な心、思い、さらにイエス御自身が生きたように、神への愛と隣人への奉仕のために無私の心で生きることが必要になります。弟子になることは”行い”抜きには考えられません。救いが行いによるものなら(=弟子になること)、救いはもはや神の贈り物ではなく、人間による努力の成果となり、聖書中、パウロがガラテアやエペソの人々に教えたことと正反対になってしまいます。
信仰によって救われたと書かれている通り、救いは神からの賜物と書かれています。賜物とは、プレゼントのこと。救いは神からの一方的なプレゼントという意味です。人間の側から、プレゼントに対する代金を支払ったり、労働で返したり、すべきことは一つもありません。
むしろ何も加えてはいけないのです。「行いを加えるということは、そのまま、イエスの十字架上の働きが十分でなかった」と主張しているのと同じです。どんなに口でイエスを賛美し、愛していると叫んでも、貴方の行いそのものがイエスの業を否定していることになります。あたかもイエスの業は不十分だったか、とでも言うように。「イエス様、私が行いを加えれば、なおさら、救いは確実になるでしょう?」とでも言うのでしょうか。
英語の表現では、福音を信じることを"Believe in the finished work of Jesus Christ(or, finished work on the cross)"と言われます。イエスが旧約時代からずっと預言されてきたメシアであることを、イエスは明らかにされ、十字架上で完成されました。それがこの完成者であるイエスを信じるという意味合いで使われます。
それでは、イエスが信仰の創始者とはどういう意味でしょう? イエスがメシアである事実を受け入れるだけで義と認められることを"信仰義認"といいますが、この「信仰による救い」という方法を創った方がイエスであるという意味です。これはイエスが神であることの証明にほかなりません。イエスは「人の心が見える」と言っているのだから。被造物である人間にはできません。下記の通り、人はうわべ(見た目や行い)を見るが、主は心を見ると書いてあるとおりです。
救いに関する限り、行いが必要ないという格好の例があります。イエスが十字架上で苦しんでおられた時、彼と共に十字架刑を受けていた犯罪人のひとりがそれです。
この犯罪人は、すでに十字架上にあったため、信じた後、改心し、善い行いをしてイエスに証明することすら叶いませんでした。当然洗礼すら受けられません。実際この人は、数時間後には足の骨を折られて息絶えます。しかし彼は救われ、今もイエスと共にパラダイスにいることが分かります。イエス御自身が、そう宣言されたのだから、これほど力強い宣言はないでしょう。この犯罪人は安心して、死を迎え入れることができたはず。
どんなに訓練を受けた人でも、素晴らしい人格の持ち主であったとしても、さらに、信者でさえ、人間は簡単に他者を見下します。ちょっと煽られただけで、すぐにプライドが顔を出します。人間には皆、原罪(罪の性質)があって、これを抑え込むことはできません。罪の性質は、人が考えるよりもずっとしつこく強靭に、人間の本質に根を張っています。克服出来た!と思った瞬間から、新たな罪が顔を出すことに人は気づきます。
人は「行い」によって"善人"を装います。信仰があるように見せることが可能です。その人に信仰があるかどうか、人は「行い」によってしか見極める術(すべ)がありません。人は、他者の心の中まで見ることができないからです。人は「行い」によって誇るのです。上に登場するエペソ2:8-10の箇所にも、こうあります。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
「信仰の有無によって、救いを決める」なんてまさに神にしかできない芸当です。人は見かけでは判断できないのですから。人の心を見て、信仰の有無を判断できるのは、神のみです。人間にはできません。だれも誇ることのないため選ばれた、信仰による救い …… 本当に驚くべき手法です。人は自らの「行い」によって誇り、周囲を欺きますが、神はそうした人間の企みもすべてをご存じ、ということなのでしょう。
救いは「信仰+行い」によるという主張
今度は、上記とは違って、福音を信じる信仰と行いによるという主張の内容を見てみましょう。救いは「福音を信じる信仰のみ」という立場と正反対の立場です。
聖書(例えばガラテア書など)では、この問題については行いの代わりに、律法という言葉を用いて論じています。特にこの救いと、信仰、律法の関係性について、パウロがページ数を割いて説明しているのは「ガラテアの信徒への手紙」です。律法は「ポジティブな命令=○○しなさい」というものと「ネガティブな命令=○○してはいけない」で成り立っています。律法を守るとは、ポジティブな命令もネガティブな命令も守ることを含んでおり、これを総じて、律法と呼んでいます。(ここでは初めての人も理解しやすいよう、行いで統一します。)
さて上記のように、救いは信仰+行いによる(例えば「弟子になること」により得られる)という教えは、救いを限りなく不確かなものに変えてしまいます。人生の終わりに、信仰と善い行いを忍耐強く続けられるか否か、本人を含め、誰が知ることができるでしょう? 不確定要素が多すぎます。始終、自分の行いは正しいか否か、自分は救われているか否かに集中するため、安心して生きられなくなるだけでなく、極めて自分中心かつ自己満足の生活を送る羽目に陥ります。
貴方は将来、歳を経て、認知機能が衰え、自分の子供や配偶者の顔さえ覚えられなくなるかもしれない。子供のことを覚えてないのに、イエス・キリストについて、覚えていられるのでしょうか? 人は認知機能が衰えると誰しも自己中心的になります。隣人を愛するどころか、家族にさえ辛く当たり、クリスチャンとは思えない言動で周囲を困らせる、なんてこともあり得ます。貴方はそれでも救われている(=弟子である)と言えるのでしょうか?
このように救いが人間の側の行いによるものならば、人は救いを失うこともあり得るわけです。宗教やカルトは決まって、"人は救いを失うことがある"と教えます。だから、善行を為すことに必死です。自分の救いがかかっているのですから。この点が偽信者と正統な信仰者を分けるカギという理由もうなずけるでしょう?
この箇所の直前、イエスは「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではない」と言います。この人たちはイエスのことを「主よ」と呼んでいるので、自分のことを信者だと思い込んでいる人たち、ということになります。彼らの言い分を聞いてみましょう。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行った … 等々、気づかれたでしょうか? 彼らの主張すべてが「行い」です。人は行いによって誇ります。さらに残念なことに、イエスは彼らのことを全く知らないと言います。本人は自分はクリスチャンだと思っていても、そもそも、最初から救われていなかったということです。人は行い(律法を守ること)によって、救われることはありません。
人は律法を行うことによってではなくというフレーズは、この短い文節で二度も使われています。ヘブル語は繰り返すことで「強調」を表します。ユダヤ人であるパウロは、この点に関しては、口を酸っぱくしてでも伝えたかったのでしょう。肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。肉なる者とは死んだら土に還る肉体を持つ者、つまり今の私たち、生きている人間全般を指します。どんなに善行を積もうが、いわゆる"いい人"になろうが、社会貢献しようが、何度洗礼を受けようが、それが人を救うわけではありません。
この「信仰+行い」のことを人は「宗教」と呼ぶのでしょう。牧師のアミール・ツァルファティは言います。「神はそもそも、宗教を作ろうとしたわけではない。ユダヤ教はおろか、キリスト教さえも作ろうと意図されてはいなかった」と。これは、どういう意味でしょうか?「福音を信じる信仰による救い(へブ12:2a)」こそ、神が創られたものだといえます。事実、イザヤ書には、神はこれ(宗教)を憎むと記されています。
律法と信仰の関係性について
旧約時代、イスラエルが神から授けられた律法を「モーセの律法」と呼ばれています。十戒については映画などでご存じの方も多いでしょうが、実際イスラエルが神から授与された律法は全部で613あると言われています。(このうち、248は「○○しなさい」など積極的な律法、365は「○○してはいけない」など消極的な律法)イザヤの時代、表向きにはモーセの律法を厳格に守ろうと努力していた、ということです。上の聖書箇所からも分かる通り、実際のところ、民の心は神から遠く離れていたのですが…。
律法と信仰の関係には、とても興味深いものがあります。人は律法によって(律法を守ることによって)救われることはありません。むしろ、律法によってより罪深いことを自覚し、絶望します。人は自らの力では律法を守ることができないことを悟り、天を見上げます。そして心から「神よ、助けてください」と、神に願うようになるのです。
神は最初から、人が律法を守れないことをご存じでした。つまりご存じのうえで律法を与えたということになります。どうしてでしょう? 神は人が律法を守れないことで自らに絶望し、最終的に神を見上げるようになることをご存じだったからです。現にそういう人たちが現れました。イエスの時代、それは遊女や病人、取税人など社会から見放された人々でした。彼らはヒエラルキーの最下層にいて、人生に絶望するのに最も近い位置にいたから。反対に最も遠い位置にいたのは、サドカイ派やパリサイ派など、当時のヒエラルキーのトップに君臨した人たちでした。
そして現代、新約の時代には「キリストの律法」なるものが存在します。こちらの方は実際に数えた人がいない?ので、キリストの律法が幾つあるか、知っている人は少ないと思います。複数あることは確かです。が、このキリストの律法でさえ神は、信徒たちが守れるとは期待しておられません。私たちは必ず失敗します。何故分かるのか? その証拠にこんな言葉が記されています。
新約の時代に入ったからといって、人間の罪の性質は変わりません。イエスを信じることで、律法が守れるようになるなら、このようなことを書く必要はないからです。そもそも特定の木の実を食べてはならないという、たった一つの律法でさえ、守ることができなかった人間が、複数の律法を守ることができるのでしょうか?
信仰だけでは不十分、愛の実践、つまり行いが必要!と主張する皆さんは、気づいているのでしょうか? 十字架に架かられた方に対して「あなたの働きは不十分でした」とクレームを入れているのと同じ行為を行っていることに。「救いを失うことがある」というなら、永遠のいのちを約束された神の言葉(へブ5:9, ヨハ10:28等)は偽り!と公言しているようなものです。
絶望して天を見上げる者たちに対して神は、手を差し伸ばされます。そして「福音を信じる信仰」という手段を提示されました。これは律法とは全く違う方法です。誰がその手段を受け入れたかは、本人と神のみが知ることを許された、まさに究極の個人情報です。
※ 続編のお知らせ
神が作られた、”福音を信じる信仰のみによる救い”の方法に、人間側で勝手に付け足す行為が、どれほど愚かで怖ろしいことか書いてみようと思います。お楽しみに!
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