もしあなたが携挙に取り残されたら ....
考えたくもないですが、もし携挙に取り残されたら…
「大変です」の一言で済まされないほど大変です
が、いつの時代にも希望は残されています
「回帰不能点」を超えない限り
人類史上、最凶最悪の時代をどう生き延びるか
聖書に記された情報を元に考察してみました
はたして日本人は生き残れるのか?
回帰不能点とは?
I. 無宗教/多神教の未来
日本人のうち、50%以上が無宗教だといいます。はっきりとした数字はまちまちだそうですが、これはこのグループが一枚岩ではないことに起因すると思われます。個人的な肌感覚ではこの数値は近年特に増えてきている気がします。ここでは、キリストを信じるでもなく、神や仏を信じない、どの団体にも属さず、信じるのは自分だけという人から、「自分は面倒な話が苦手なだけ…」という刹那主義者、「今だけ金だけ自分だけ」の享楽主義者、「物事の意義や価値はない、自分自身の存在を含めてすべてが無価値」と言うニヒリストなど、総じて「無神論者」と定義して話を進めましょう。
神道は?と思った方もいらっしゃるでしょう。2020年の統計によると、確かに国民の48.5%が神道系の信者と公表されています。「八百万の神々」を奉る神道は、多神教に分類される宗教で、海外ではあまり信仰する者はいないため、日本固有の土着宗教といえます。また、仏教についても、同じ統計では信者数は国民全体の46.4%で、神道の信者数に迫る数字です。
日本の文化や伝統の中には、神道や仏教の要素が深く根付いており、多くの人々が年間を通じて祭りや年中行事に参加します。例えば、お正月に初詣で神社を訪れたり、お盆に先祖の霊を迎えるために仏壇に供え物をしたりするなど、宗教的な行事は日本人の生活に密接に結びついています。これらの行為は、儀礼的な宗教行為というよりは、文化的な慣習や家族の伝統として受け継がれています。また、日本では「神仏習合」という考え方があり、神道と仏教が融合しているため、一般の人々は自然と両方の宗教的要素を取り入れています。そのため、神道や仏教の信者と自認しながらも、宗教団体に属さず「無宗教」とされることがあります。日本における宗教観は、西洋とは異なる独自の文化的背景を持っており、宗教的な信仰と文化的な慣習が複雑に絡み合っているため、単純な信者数の統計だけでは日本人の宗教観を完全には表現できないのです。
無神論者は「自分たちの生き方を他人に押し付けない」という姿勢を美徳と考える人が多いようです。神(あるいは宗教)の話は彼らにとってプライベートかつセンシティブすぎるので、すぐに神様を持ち出したり、特定の宗教観を顕わす人に対して「他者に対する尊重に欠ける」と憤慨するわけです。彼らは「神の話をする人たちは押し付けがましい」と感じます。
ところが近年において、移民の問題も無視できなくなってきました。現政権(岸田政権)は、労働資源としての移民政策を進めてきており、今後も推し進められることは明らかです。が、現場では様々な文化的な衝突が起こり、SNSでもテレビでも移民問題を取り上げない日はないほどに問題が顕現化しています。このまま移民政策を推進すれば、遅かれ早かれ、欧州で起こっているような暴動が日常茶飯事となり、いつまでも「無宗教の単一民族」でいられるわけではなさそうです。
無神論者は今後、増える/減少する?
無宗教と一言でいっても、内容は様々で大きく分けると「不可知論者」と「無神論者」に分類できます。不可知論?って難しい言葉ですが、要は「神のように抽象的な存在は証明できないのだから分からない」という考えで、いささか消極的な無神論とも言えます。ですから、不可知論者に「神はいますか?」と聞くと「分かりません」と答えます。日本に多いのはこのタイプかと思われます。
西側諸国では宗教的信仰や価値観が多様化し、個人の自由や選択が尊重されるようになっています。科学や技術の発展によって、人々は自然現象や社会問題に対して合理的な説明や解決策を求めるようになりました。宗教国でさえ、そうであれば、日本のように、基本無宗教である人たちはこれからも増加傾向にあると考えるのが自然なのかもしれません。
一神教であるユダヤ教の現代イスラエルにおいても、無神論者の数は増加傾向にありました。2015年に行われた調査では、イスラエルの成人の約40%が自分を「非宗教的」または「完全に非宗教的」と回答しています。ただ、10月7日に起こった、あの事件以降、イスラエルでは、ユダヤ教への帰依が著しく増加しているようです。息子や娘を戦地に送り出す家族、戦地で戦う兵士たちの間では、イスラエルの神により頼む姿が現地映像として届いています。あの日以来、イスラエルはかつてのイスラエルではなくなりました。
上記の数字はあくまで「現状」を切り取ったものなので、イスラエルのように大事件が起こった時には、数字に変化が生じることは十分に考えられます。上記のように、移民政策が進み、移民の数が日本人の数を凌ぐようになった時、あるいは、携挙のように世界中で人が消えるような事件が起きた時など、この数字にどのような変化が現れてくるかは疑問です。事実聖書には、無神論者はいなくなると記されています。
聖書はこの時代、「無神論者」というカテゴリーに所属する者はいなくなると記しています。いのちの書に名前が書き記された者とは誰か? それはメシアを信じる者、つまり信者です。反対にいのちの書にその名が書き記されていない者はみな、この獣を拝むようになると記されているので、福音を受け入れない者はみな、この獣の刻印を受けてしまうということです。この時代に生き残った人は、獣の刻印を受けるか、メシアを信じる者になるか、どちらかだと聖書は明記しています。
あなたは獣の刻印を受けるか?
携挙後の世界において、日本のように多神教 / 無神論者が多数を占める国はどうなるのでしょう? 読者の皆さんは、獣の刻印を受けるでしょうか? 受けた人はもれなく、反キリストの信奉者/礼拝者となります(次項目参照)。ここでは、刻印を受けなかった場合を想定して、話を進めましょう。
結論から言うと、彼らの行く先は苦難続き、雲行きは芳しくないです。聖書預言の通り、時が経過していく前提で話すと、ずっと無神論者でいることにより、いのちを存続できる可能性は低くなります。たとえば、携挙後の日本が今のまま(2024年3月)でいられるとは思えません。世界は今年中(2024年)にも監視社会の扉を開きそうな勢いです。反キリストは、遅かれ早かれ全体主義世界のトップに君臨します。日本で多数を占める多神教 / 無神論者は、キリストの信者たちが迫害され殺されるのと同様の運命をたどることは容易に推察できます(※下記「福音を信じる」参照)。
大患難時代前半においても、その立場はかなり怪しくなります。これは無神論者は「偶像礼拝者」とみなされるためです。「いや、待て。私は神や仏の類は信じないと言っている」と言われるかもしれませんが、こういう人は「神を優先しないということは、自分という被造物(偶像)を崇拝している」とみなされるためです。アニメやアイドルを追いかける個人の嗜好も「偶像礼拝」とみなされます。アイドル ”Idol” とは文字通り「偶像」ですから。今でもイスラム諸国やイスラエルでは、異邦人の無神論者は「神よりも被造物である自分を優先している」ということから偶像礼拝者とみなされるケースが多いのです。
統一宗教 ”One World Religion” が実質的に機能し始めた場合、前半の3年半は、多神教 / 無神論者に対する罰則や規制は比較的緩いかもしれません。「善行をすれば人は救われる」とか「神を信じていなくても人は救われる」という具合に。一方では、福音を信じる者たちを迫害し、殺し始めることは明記されているので「一抹の不安」は感じることでしょう。
無神論者たちはいなくなる?
大患難時代も三年半が経過して以降、あなたが「不信者」という枠組みの中に組み込まれた場合、その行き着く先は極めて厳しいものになります。獣の刻印を受けない、世界のリーダーである反キリストに従わない … これが、現実的な選択といえるでしょうか? 迫りくる支配から隠れたり逃げたりすることは可能でしょう。しかし、この選択には危険と苦難が伴います。
以上のことから、患難時代に無神論者が生きていけるかどうかは、一概に言えませんが、この選択肢には合理性がないうえ、苦難とリスクが計り知れないということは分かるでしょう。患難期に神もなく、信仰もない状態で、無神論者たちはどうして生きる希望を見い出すのでしょう。
福音を受け入れた者以外、みな、この獣を拝むようになるのは一体、いつのことでしょう? これがすべての人に強要されるのは、大患難時代も三年半を経過した頃と考えられます。
II. 反キリスト信奉者の未来
二番目のカテゴリーは、携挙後、大患難時代の主人公であり、偉大なリーダー、力ある指導者、あるいは「平和と安全」を唱える一方、破壊や争い、混乱と欺瞞をもたらす人物である反キリストを神として崇拝、あるいは礼拝する人たちです。同時に彼らは、聖書に記された善い知らせ(福音)を受け入れない人たちです。福音とは①イエスがわたしたちの罪のために死んだこと、②墓に葬られたこと、③三日目に復活したこと。
読者の皆さんで、今上記の内容を受け入れられない、信じられないという方は、遅かれ早かれ、このカテゴリーに含まれます。このカテゴリーに属する人は、この文章の執筆時点ではゼロ。一人もいません。携挙の後、ほとんどの人がこの偉大なリーダー、反キリストを礼拝するようになり、大半の人が、このカテゴリーに組み込まれます。
この記述は、裁きの中でも特に厳しい、最初のわざわい、第五のラッパの裁きの後の出来事です。ここに記された残りの者たちはイスラム教徒ではありません。イスラム教徒は、そもそも偶像(人間)を拝まないからです。日本人の中にはこの範疇に入る人たちがいるかもしれません。
この時点ではまだ、福音を受け入れられない人たちは、様々な偶像を拝んでいることが分かります。前述のとおり、大患難時代の中間期(三年半を経た頃)、反キリストがエルサレムの神殿の至聖所に入り、自らが神であることを宣言します。その際、すべての人間に獣の刻印(※下記参照)を受けるよう強要します。
反キリストとは誰?
聖書では「反キリスト」という悪魔的、かつ禍々しい呼び名で呼ばれる人物ですが、登場する際には、平和の使者として現れます。これにより、多くの者が騙されます。彼がいかにも「悪の使い」的な出で立ちで登場すれば、誰も見向きもしないでしょうから。この人物、黙示録6章では白い馬に乗った騎手として描かれています。彼は冠を与えられとあり、原語では Diadem で、これは「戦いの勝利者に与えられる冠」のこと。平和を唱えながら、その実は戦場から戦場へ、戦いの種をまき続け、人民を苦しめる様子が容易に想像できます。
反キリストという言葉は、Iヨハネ2章22節に記された言葉で、文字通り、その本質においてキリストと敵対する者。彼は、霊的な存在ではなく、れっきとした「人間」です。聖書中では異なる呼び名で呼ばれることが多く、これらの描写を参照することで、人物像を多面的に推し量ることができます。創世記3章15節では、おまえ(サタン)の子孫として登場し、小さな角(ダニ7章8節)、不法の人(IIテサ2章3節)、獣(黙示11章7節)などがこれに当たります。
大患難時代においては、父なる神、子なる神イエス、聖霊から成る「三位一体の神」を模して、サタン(偽りの父なる神)、反キリスト(偽りの子なる神)、偽預言者(偽りの聖霊)から成る「偽りの三位一体」が地上を荒らし回ります。反キリストは、大患難時代の中間期(3年半経過後)に神性宣言を行い、イスラエルの第三神殿の至聖所において、すべての人間に対して、彼を神として崇めるよう要求します。
先ず、反キリストの生い立ちから紹介しましょう。黙示録13章1節は、また私は、海から一頭の獣が上って来るのを見たとある通り、彼は海から上って来る。聖書では、海が象徴的に使われる場合、一貫して「異邦人世界」を意味する言葉ですから、反キリストはユダヤ人ではなく、異邦人世界に起源を持つ人物であることが分かります。ダニ9章26節によれば、次に来る君主の民が、都と聖所を破壊すると約束されていることから、反キリストはエルサレムの神殿を破壊する民から出て来る。つまるところ、紀元70年にエルサレムと神殿を破壊したのは「ローマ帝国」なので、ローマ(或いはイタリア)に起源を持つ人物かもしれません。
反キリストがイスラエルに「平和と安全」を約束する条約を締結することが、大患難時代幕開けの合図となるので、その時までに反キリストなる人物は、一国と条約締結できる程度の名声と地位を得ていなければなりません。ネット上では様々な推測が為されていますが、彼は携挙が起こるまで、世界に姿を現すことはないので、現代の世界でそれらしい人物を探すことは無駄です。オバ〇だとか、トラン〇だとか、ローマ法〇だとか、ネット上ではその手の推察が後を絶ちませんが、どれも違います。今は彼を引き止めているもの(IIテサ2:6)があるので、執筆段階において、表舞台に出て来ることはありません。
さて、反キリストの背景については、これくらいにして、彼を礼拝する者たち、崇拝する者たちの行く末について、聖書がどう預言しているか、書き記しておきましょう。
獣の刻印を受ける者たち
この人たちはもれなく、獣の刻印を受けます。獣の刻印とは、その人の右手の甲か、額に押されるものです。これを受けていないと、この時代に生きる人は売り買いができません。文字通り、生活手段がなくなります。こうした理由で多くの者がこの刻印を受けることになります。
ところが聖書は、この刻印は「絶対に受けてはいけない」と警告しています。刻印を受けるか否かが「回帰不能点」となります。刻印を受けてしまった後では、悔い改めても、神には受け入れてもらえない、赦しはないということになります。はっきりしたことは分かりませんが、実際は「悔い改められなくなる状態」になるのかもしれません。回帰不能点を超えると、好む好まざるにかかわらず、人は第二の死※を受け入れなければなりません。
※第二の死:死後のたましいに対する裁きで、不滅の身体を受けた状態のまま、火の池に入れられる裁きのこと。
刻印を受ける人たちは「売り買いできなくなるんだから仕方ないだろう」といった打算的な思いから、刻印を受けるのではありません。無理矢理受けさせられるのでもなく、ある日気づいたら知らぬ間に刻印を受けてしまっていた、という類いのものでもありません。刻印を受ける人は、反キリストを崇拝し、礼拝するという確固とした意志を持って、刻印を受けます。
黙示録12章には、ヨハネが見た炎のように赤い大きな竜と女の幻が記されています。17節には、すると竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保っている者たちと戦おうとして出て行ったとあります。この炎のように赤い大きな竜とは、サタンのことを指し、女はイスラエルを指す言葉。つまりこの時点(大患難時代中間期)以降、ユダヤ人はかつてないほどの大迫害に遭うと預言されています。この文章を執筆中においても既に、世界の反ユダヤ主義は勢いを増す一方。終末に向けて差し迫った状況に近づいていることを肌で感じるようになりました。刻印を受けた者たちは、サタンに従う者たちなので、彼らはこの時期、ユダヤ人、特に信者であるユダヤ人を探し出し、捕らえようと活発に動き回ります。
ただし―――――――――――。
聖書によると、彼らには悲惨な運命が待ち受けています。例えば…..
死にたくても死ねない苦しみ
患難期前半期も終わる頃、第五のラッパの裁きでは、一人の悪霊がアビスの穴を開きます。すると、中からイナゴのような形態で、サソリが持っているような力を持った生き物が現れます。これは描写されているような虫でもさそりでもありません。彼らはこのような形態を持った悪霊たちです。
これは人を刺し、五か月間苦しめることが許されています。この間、刺された人は死にたいと思うほど苦しいのですが、死ぬことすら叶いません。刺される可能性があるのは、額に神の印を持たない人たち。この言葉が意味するところは、メシアの福音を受け入れない者たち、つまり未信者ということになります。信仰者たちはこの災いをやり過ごすことが可能になります。
五か月を経過すると今度は、次のわざわいが人間を襲い、地上に生きている人間の三分の一が殺されます(黙示録 9:18)。
悪性の腫れもの
サソリの針を持つ、いなごのような容姿の悪霊に刺された人たちは額に神の印を持たない人たちでしたが、ここで悪性の腫物に苦しめられるのは、獣の刻印を受けている者たちと獣の像を拝む者たちと特定しています。前者は信者でない者が対象で、未信者でもこの災いを免れる未信者がいるのですが、ここでは獣の刻印を受けている者たちはもれなく悪性の腫物に苦しめられます。悪性の腫れものとは、どういうものか? これを特定する情報ソースはないため、聖書から類推するしか方法がないのですが、例えば、旧約聖書に登場する、エジプトを襲った「膿の出る腫物」や、ヨブを苦しめた悪性の腫物などがそれに該当します。
こうした痛みを伴う、ただれや腫れ物などの記述は、重度の皮膚病や癌を指していると解釈することも可能ですが、聖書の時代、特に旧約時代には、現代医学用語は存在しないため、現代的な疾病や症状に当てはめるには無理があります。うみの出る、あるいはからだを引っかいたなど症状や所作から推し量るしかないでしょう。いのちに関わる病ではないかもしれませんが、辛い症状であることは確かです。
千年王国に入れない
天に現れる人の子のしるしとは、メシア再臨のしるしのこと。メシア再臨の際、多くの者が絶望のため、胸をたたいて悲しむ人が出て来るという意味です。これはいつ起こるのか? 大患難時代の終わり頃、メシアが再臨して、地球上の生き物を苦しめてきた、この時代に終止符が打たれ、癒しと回復の時代であるメシアが統治する時代が始まります。
獣の刻印を受けた者たちは、メシアの地上再臨を目の当たりにして絶望しますが、これは彼らの神であるサタン同様、自らのいのちがもはや長くないことを悟るからです。メシアの地上再臨の目的は、地を治めることであって、この時代、彼らの居場所は地上にありません。
マタイによる福音書25章には、有名な羊とヤギの裁きの下り(25:31-46)が記されています。メシアが再臨した際、異邦人たちは二つのグループに分けられ、それぞれに対する裁きがあります。この時点で、世界中のユダヤ人は捕らえられ、反キリストの前に突き出されます。彼らはメシアが治める千年王国に入ることは許されません。なぜなら、ユダヤ人にとって一番厳しい時に憐れみをかけず、空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった(42-43節)から、と。
憐れみをかけなかった人たちとは、ほかでもない、獣の刻印を受けた人たちです。
白い御座の裁きと火の池
ここまでは、獣の刻印を受けている者たちが辿る現世の運命、または彼らが被るであろう「肉体的な苦しみ」に限定して記述してきましたが、この章では、聖書に記された彼らの「死後のたましい」の行き着く先に関する内容を取り扱います。イエスが二千年前、最初に地上に来られた時、弟子たちに語られた言葉の中でも衝撃的なものがあります。
この世における人の生き死により、大切なことがある、というわけです。物理的な死よりも霊的な死を恐れるべきであると伝えています。人の死に関して、聖書は一貫して「肉体とたましいが分離する時」と定義しており、さらに「たましいは不滅」であることも明示しています。人は肉体が死んだ後、たましいは無に帰するわけではなく、生き続けると。日本人の一般的な死生観と異なる部分です。
ゲヘナとは、へブル語のゲ・ヒンノムを語源とするギリシア語です。これはエルサレム市の城門の外にある深くて狭い谷底のゴミ捨て場を指します。そこでは、ごみを処分するために火が燃やされ続け、悪臭を放っていました。また、処刑された罪人の体や、相応の埋葬をされなかった人体が埋められる場所でした。この場所は煙が絶えなかったため、地獄である火の池を想起させるものとして「地獄」を指す慣用句として用いられていました。
霊的ないのちであるたましいが不滅である聖書の主張は、信者と未信者の死後の裁きについて繰り返し記していることからも明らかです。
悪魔であるサタンも、反キリスト(獣)も偽預言者も裁かれ、火の池に投げ込まれます。死んだ人々とは、すべての歴史を通じ、過去を遡って、死んで地中に埋められた人たち、さらに海で死んだ者、死とよみにいた者がすべて(13節)、神の前に連れ出されて、裁きを受けます。これを「白い御座の裁き(11節)」と呼んでいます。いのちの書に記されていない者とは、生前メシアを受け入れなかった者を指す言葉です。こうして、未信者はみな火の池に投げ込まれます。
「白い御座の裁き」とはいつ起こるのか? メシアが地上に再臨した後、千年の平和な時代が築かれますが、その千年の終わり頃になります。
それでは、火の池とはどういうものなのでしょう? こればかりは誰も見たことがないので何とも言えませんが、イエスが語られた、金持ちとラザロの話(ルカ16:19-31)から、その苦しみの一端を垣間見ることは可能でしょう。この金持ちは死後、地中にあるよみに送られます。貧しかったラザロは信者だったのでしょう、金持ちとは別の場所「アブラハムのふところ」にいるようです。金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』(24節) 彼のたましいは、 死後、無に帰したわけでもなく、しっかりと意識も自我もあることがわかります。さらに生前、彼は血も涙もない人間だったにもかかわらず、残された家族のことを心配し、自分と同じ場所に来ることがないよう、切に願います。
聖書を何度か読んだことのある人は、泣いて歯ぎしりするという表現(マタイ 8:12, 13:42; 50, 22:13, 24:51, 25:30, ルカ 13:28) が繰り返し、用いられていることをご存じでしょう。この表現は、人が火の池に送られて、その暗黒と灼熱に苦しみ、泣いて、歯ぎしりする様子を描写したものです。この表現は救われなかった状態の人を表していることになります。
獣の刻印を受けた時点で、人はその運命が決定します。繰り返し、刻印を受けるなと忠告するのはこのためです。大患難時代に突入した時点で、多くの人から同じ忠告を受けるはずです。忠告を受け入れない場合は、残念ですが「絶望を受け入れる用意を」としか言えません。
III. 福音を信じた信仰者の未来
三つ目のオプション。携挙を目の当たりにして、聖書預言の確かさを知り、福音を信じる人たちです。携挙を逃したことを後々悔やむことは容易に想像できますが、彼らも生きていかなければなりません。希望は未だ途絶えたわけではありません。
情報がすべて
彼らは携挙後に信仰に入る人たちなので、ユダヤ人を除き、聖書に関する知識が薄い人たちが大半となります。彼らは、生き残りをかけて、必要不可欠な情報を集めようとします。ホロコーストを経験したユダヤ人のごとく、情報を集められるか否かが彼らの生命線となります。信頼できる情報源の確保と、聖書(終末論)の知識が必須です。その際、助けになるのは、世界中で宣教する144,000人のユダヤ人です。
この144,000人はユダヤ人で、神によって世界宣教に押し出されます。ユダヤ人は幼い頃から聖書に親しんでいるため、聖書知識については他のどの民族よりも優れています。彼らの宣教により、多くの異邦人が信者の群れに加えられ、共同体が励ましを受けるようになります。
正しい情報にアクセスすることは、残念ながら日本人が最も苦手とする分野の一つです。貧しい英語教育のため、国民は良質な情報へのアクセスが極端に制限されています。例えば、神学の世界では英文で記された膨大な神学書を参照できないことは大きな損失です。多くの良質な本が執筆されているのに、日本ではいまだに100年以上前の聖書学者の本が重宝されています。1948年、イスラエルが建国されて神学界に激震が走りました。が、キリスト教界ではいまだに「置換神学※」が横行しています。キリスト教界隈でさえこういう状態ですから、一般社会における聖書知識も推して図るべし。
※置換神学:教会がイスラエルに取って代わったので、イスラエルは最早神の祝福を受けることはないという論説。
今なお日本は学歴社会で、エリートへの依存度が高く、マスコミの情報を頭から信用してしまう傾向が強い。まだ偽預言者すら登場していないのに、今後も「メディア」「学者」「東大」「医者」への盲信は継続しそうで、暗澹たる思いにさせられます。少数のエリートが世界を支配する構造は、今後益々顕著になってくるはずです。
個人レベルでは、日常生活の中で差別や偏見に直面します。仕事、教育、住居などの機会を奪われ、公共の場所での活動が制限されます。法的な迫害により、市民権の剥奪、結婚さえ制限されるようになるでしょう。商店や企業はボイコットの対象となり、職を失う可能性も高くなります。
人は一般的に、裏切られたり、騙されたりした後、以下のようになります。①より悪質になる:苦い根が残り、そこから出て来るものは、苦々しい行いです。②腐ってしまう。鬱に陥ったり、精神的な病いを患います。③悔い改める。聖書に希望を見出す人たち。人は希望がないと悔い改められません。世界は今後も大いなる欺瞞が横行し、裏切りと不信感、愛のない冷え切った人間関係が至るところで見られるようになるはずです。
メシア再臨を待ち望む者、キリストを宣教する者は、"陰謀論者"とみなされ、侮蔑と憎しみの対象になることを肝に銘じておいてください。この時代は、反キリストが短期間で絶大な権力と人々からの信仰を一身に受ける時代となるため、彼の神性を認めない、メシア信仰者は敵対者とみなされます。よってメシア信仰者は、暴力的な攻撃の対象となります。これは個々の暴行や殺人だけでなく、ポグロムのような大規模な集団行為も含まれます。今まで友達と思っていた人たちとは当然のごとく疎遠になります。密告、裏切りは日常茶飯事になります。
迫害と殉教の狭間を生き抜く
17章6節のこの女とは、この時代に台頭する統一宗教の共同体です。2023年現在、こうした組織は地上に存在しませんが、バチカンの法王はイスラム教、ユダヤ教の指導者たちに呼びかけ、宗教間の一致を目指しています。このような活動を「エキュメニズム運動」と呼んでいます。聞こえはいいのですが、聖書の言葉からは逸脱しています。6章9節には、この時期、祭壇の下にいるのが、神のことばと…証しのゆえに殺された者たちのたましいであること、彼らは正しい信仰を持ったために殺された人のたましいであることが記されています。こうした箇所から、多くの正しい者が殺されることが分かります。
ここにも死の影が漂っています。大患難時代の中間期頃、エルサレムの神殿の至聖所に獣の像が作られます。すると、この獣の像が言葉を発するようになるというのです。この像は神と自称する反キリストを示すもので、これを拝まない者は皆、殺されてしまいます。拝まない者とは、真のメシアを信じる者、福音を受け入れた者たちのこと。信者たちは絶対、獣の刻印を受けず、この像を拝まないので殺されます。
物々交換で生き残る
売り買いができなくなるため、残された手段は「物々交換」しかありません。ただ、物々交換は今後、様々な形で発展していき、政府はもはや追いかけることができなくなります。今後このまま消費税が上がり続けるなら、民間は消費税を払わなくてもいい方法を考え出します。政治家の裏金のようなもので、税が本当に生活を脅かすようになると、人は物々交換することで税を回避するようになります。例えば、自分が家庭菜園で野菜を作っていて、これを他の食料と交換したい場合、「お譲りします」とSNSで発信すれば、手渡しで対価に見合う米や魚と交換できます。政府がどれだけデジタル化を進めたとしても、さすがにここまで追い切れません。何らかの法律で縛ることができるようになったとしても、人は生き残りをかけてアイデアをひねり出すはずです。特に信者間では、獣の刻印を受けていない同志ですから、自然と助け合うことが可能になります。
信仰者たちのコミュニティを探せ
ホロコーストを体験したユダヤ人が最も重要視したのが、コミュニティです。コミュニティを介して、新しい情報を得、同胞を助けていました。情報を共有し、食べ物や物資の共有も、こうしたコミュニティ内で実施されるに違いありません。一人で生きていくには、近未来の世は厳しすぎます。この時代の政府の意向に敵対し、メディアや世の流れに逆行する生き方を強いられるので、彼らは立派なレジスタンスと言えます。黙示録にはそうしたレジスタンスの存在が記されています。
バビロンとは、将来、反キリストが将来建設する帝国の首都のこと。ゼカリヤ 5:5にはシヌアルの地に建設される神殿の下りが記されているので、おそらく現在のイラクのバグダッド近辺に建設される一大都市を指すと思われます。さて、この地で多くの者達が立ち上がります。これは反キリスト軍とは異なる軍勢で、むしろ反キリスト軍のようです。彼らの目的はバビロンの破壊。この人たちは、わたしに聖別された者たちと呼ばれていることから、彼らが信者であることが分かります。大半が異邦人信者だと思われます。このメッセージ、読んだ人も加わっているかもしれません。
ユダヤ人に優しく
神学の違いにより、信者でさえ、あまり知られていない情報が存在します。それはアブラハム契約と呼ばれるもので、これは神がユダヤ人の父祖アブラハムと交わした契約で、内容は土地と子孫、メシアの誕生を約束したものです。これには付帯条項があって、それは下記の約束です:
これらの約束は、アブラハムに対して結ばれたものです。ところが、アブラハムはこの約束の成就を見ることなく天に召されました。アブラハムが所持したのは生前に自腹で購入した僅かな土地(妻サラの墓地)だけでした。神様が約束された広大な土地と比較すると、随分話が違います。「なんだ、神は嘘つきだな」と思われた方、しばしの辛抱を。
この約束は、これからやってくる未来に成就されます。これから後、今の世が終わりを告げて、次の世がやってくる時、アブラハムは他の信者たちと共に復活し、新しい身体をいただき、その際アブラハムに改めて与えられます。聖書には境界線がしっかりと記されているので、これが天国や架空の土地でないことが分かります。今私たちが立っている地上において、預言が実現するという意味なのですから。
ハマスの襲撃以降、この境界線をもって「シオニストたちが土地の所有権を主張している」とユダヤ人を糾弾する人が現れました。聖書を知るユダヤ人たちの中には、そのように主張する人がいたとしても不思議ではないですが、彼らが大きな思い違いをしていることは確かです。糾弾する人もまた然り。まだ見ぬ未来の話をされてもねえ、ということ。
さて、アブラハムの契約に話を戻しますが、この契約、未だ成就していないのだから、今も有効だし、この先も永遠に有効だということがお分かりいただけたでしょうか。わたし(神)は、あなた(イスラエル)を祝福する者を祝福し、あなた(イスラエル)を呪う者をのろうは、現代でも有効なのです。人間の歴史の中でこの例は幾つも挙げることができます。これは信者、未信者とも変わらない原則です。
「嘘だァ…」と思います? 確かめるための手っ取り早い方法、お教えします。ご自身でやってみてください。今まで、ロスチャイルドやら他の資産家やら、どうもユダヤ人は胡散臭いと思われる方も、試してみるのがよいかと。手法は何でもいいと思います。今ならハマスの被害者に寄付するなり、彼らのために心の癒しを祈るなり、探せば幾らでも見つかるはず。このアブラハム契約については、今後場所を変えて説明したいと思います。
マタイ 25:31-46、前述の羊とヤギの裁きに関する記述。ここではスペースの関係上、一部を掲載するだけに留めますが、機会があれば是非、この箇所の詳細を読んでみてください。
この箇所は一般に道徳的な教えを唱える箇所として有名です。ロシアの作家トルストイは、40節のあなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのですをテーマに寓話『愛のあるところに神あり(別名:靴屋のマルチン)』を書いています。ところがこの箇所は実際、預言でもあります。それも終末時代に関する預言。
その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るときとありますが、そのときとは何時のことでしょうか? イエスが栄光の姿で、他の御使いを伴って来るのはまさに、再臨を指す言葉です。再臨が起こるまでに、未来のユダヤ人は総人口の2/3が死に絶え、1/3の残された者たちが迫害を逃れて山に逃げている状況に陥っています。それまで彼らは地の上を彷徨い歩き、安住の地を探しますが、それはどこにも見当たりません。
逃げ惑うユダヤ人たちをかくまい、空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた(マタイ25:35-36)。『あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです(40節)』の箇所で最も小さい者たちとは、まさにこの時代のユダヤ人を指しています。先に述べたアブラハム契約のこともあります。ユダヤ人には優しく接してあげてください。その優しさはきっと、あなたに戻ってきます。
メシアの再臨を見て希望に溢れる
バビロンの街が破壊される際、信者たちは喜びの声をあげます。諸悪の中心地であった場所が陥落したためです。この後、ハルマゲドンに集結した反キリスト軍は南下し、エルサレムを攻めます。エルサレムは堅固でなかなか落ちませんが、最後には力尽きます。この時までに生き残ったユダヤ人は2/3が殺され、残りの1/3は荒野に逃げます。
この文脈では、パウロがテサロニケの教会に感謝を示しており、この教会が、メシア再臨待望の模範、宣教の情熱、偶像礼拝から離れて、生ける神に対する信仰においても模範でした。そして何よりも彼らは、御子が天から来られるのを待ち望むようになったのでした。
千年王国から新天新地へ
メシアの地上再臨以降、イエスが王座に座り、地上を千年の間、統治します。メシアによる政治形態は所謂「メシアによる独裁体制」となります。多くの人はこの「独裁」という言葉に嫌悪感を覚える方も多いでしょう。が、それは王が「悪王」だった場合に限られます。そもそも独裁政治は最も効率よく、法制の施行も、決定から実施まで最短で済みます。
メシアが治める千年王国期間中は、先の大患難時代に殉教した者たちは、朽ちることのない復活の身体を与えられ、キリストとともに王となり、ともに統治するようになります。
千年を経た後、新しいエルサレムが…天から降って来ると、以降、人はこの都に住むようになります。この際、エデンの園以来、あり得なかったことが起こります。それは「神と人が共に住まう」ということ。神は聖すぎるため、罪ある人と共に生きることは適いませんでした。この時、人に罪はなく、永遠のいのちを得たことがわかります。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。
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